第7話
翌日、朝から幻想的な雪が降った。
積もるほどではなかったけれど、きらきらと美しく降った。
だから午前中はあまりに寒くて、昼食の時間まで部屋にこもりきりだった。昼食を食べ終えたころには雪もすっかりやんでいて、出かけるなら今だと思われた。
用件を悟られぬよう、私はさりげなくイルに声を掛けた。
「ねえ、イル」
「どうしたの?」
室内にまで届く寒さに身を縮めていたイルは首をかしげた。
私はイルを不安にさせないよう、明るく言った。
「今日は別行動してみないか? きっとそのほうが聞き込みの効率もいいと思うんだ」
「別行動? いいよ。実は僕も今日はそうしたいと思ってた」
「へえ、そうだったのか」
意外にもすんなりとイルは納得してくれた。反対されたらどうしようと身構えていたので拍子抜けしてしまったけれど、そうと決まった以上は約束の場所へ急がなければならない。遅れると大変なことになるかもしれないので、私は先に出かけることにした。
町外れの広場には、午後二時を迎える五分前にたどり着いた。
もしやと思って広場を見渡してみたが、まだ誰もいなかった。
広場の入り口近くにあるベンチに座り、寒空の下、誰かがやってくるのを静かに待つことにした。
だが、期待に反して誰一人として広場に来ることはなかった。
一時間、二時間、三時間待とうとも。
「だまされたのか」
あっさりと手玉に取られた私はなんだか悔しくなって、こちらから例の事務所に行くことにした。無謀でも考えなしでも何でもいい、とにかく直接会って話がしたかったのだ。
なるべく急いで事務所へと走ったつもりだったが、そもそもの出発が遅かったので、私が着いたころには夕方の五時を過ぎていた。昨日は立っていた見張りの二人が今日はいなかったので、特に苦労することもなく中に入ることができた。
不気味に静まり返っている事務所の中、無駄に長い廊下を歩いていく。まったく人の気配がしないことが不思議でならないが、とにかく今は進むしかないと自分に言い聞かせる。
そして悪い人が待っていた部屋の前にたどり着くと、控えめにノックをした。
「すいません、誰かいませんか」
しかし、部屋の中からは何の反応もない。留守だろうと思って私はしばらく彼の帰りを待つことにしたが、何事もないまま、無駄に時間だけが過ぎていく。
いつまでたっても誰かが帰ってくる様子もないし、このまま手ごたえもなく引き上げるのもなんだから、私は無断で部屋に入る決心を固めた。
「失礼します」
不用心にも扉には鍵がかかっておらず、簡単に入ることができた。
念のため気を引き締めて、そっと部屋の中を覗き込む。
そこに悪い人の姿はなかった。
だが、どうだろう。
それ以上に予想外の人物が、部屋の中央に倒れこんでいるではないか!
「イル!」
驚いた私は叫びながら、身を伏せているイルのもとに駆け寄った。
けれどイルは全く反応しなかった。
それどころか、ああ!
こともあろうに、息をしていない。
「イル! イルッ!」
どんなに呼びかけても答えることがないイル。たちまち私は冷静さを失ってしまった。
あの手この手で呼びかけるも、すぐに自分一人ではどうすることもできないとわかった私は意識のないイルを背負い、町にある小さな病院へと急いだ。
それから、どんなに悲しいことがわかっただろう。
イルは、もうすでに死んでいた。私があの事務所に着いたころには手遅れらしかった。
ここからは推測だが、私は見事にあの悪い人にだまされてしまったのだ。
私と二人きりで会う約束をしたのは真っ赤な嘘で、本当はイルを一人で事務所に誘い込むための口実だったのだ。
たった一人で対峙することになったイルは悪い人を前にしても己の意志を曲げず、会話の果てに
悲しくて、苦しくて、泣きたくて叫びたくて、私はひどく悔しかった。
何を言おうが今さら無駄でしかなく、失意にまみれた私はこの町を離れ、迎えに来た親とともに故郷へと強制的に連れ帰されることになった。状況が状況であるだけに、今度ばかりは仕方がないことだとあきらめた。
もっと早くにあきらめていれば、おそらくイルも助かっただろうと後悔した。
町を離れる日、町のみんなは港まで私を見送りに来てくれた。こんな時でも私は彼らに会えて嬉しかったが、それ以上に悲しくて、やはり笑顔など見せることができなかった。
そんな私にみんなはいろいろな物をプレゼントしてくれた。
きっとこの町の思い出になるものたち。ありがたい宝物。
けれど、やっぱり私はこんなものよりもイルと一緒にいたかった。
定刻通り、船は出港した。見送ってくれたみんなの姿は見る見るうちに小さくなり、水平線の向こうに隠れるように彼らの姿が見えなくなると、私は船内の自室に足を踏み入れ、もらったプレゼントの整理を始めた。
そんな中、私はおそらくシンから受け取ったであろうカセットテープを取り出した。
ラベルに書いてある曲名は、読むのがやっとの拙い字で『この村に名前を』とあった。
波のせいか揺れる椅子に腰かけて、いまいち眠気のない私はその曲を聴いてみることにした。一緒にもらったラジカセから流れてくるのは、静かな曲調の悲しい歌。
私は窓から外を眺めながら、何度もその曲を聴いていた。
何もない この村は ある日突然 都市化した
便利さと 華やかさ だけど何かが なくなった
優しさも ふれあいも 語り継がれた 喜びも
思い出す あのころを 何もなかった 幸せを
忘れてく 人ばかり 人と人との つながりを
今も 孤独が 不安な町に あふれてる
思い出す ことばかり 離れ離れの 思い出を
いつまでも 振り返り 消えたふるさと 探してる
あれから五年、現在の私は毎日を無駄に消費して過ごしていた。
すでに目標もやる気もなく、しんどい毎日が執拗に繰り返されていた。
気が付けば私は過去にすがるように、一通の古い手紙を手にしている。
それは五年前、悲しみとともに私があの町を去ったとき、別れを惜しんだ町のみんなが書いてくれた手紙だった。
「ありがとう、か」
言葉をかみしめるように手紙を強く握り締めると、レースのカーテンを閉ざしたままの狭い窓から外を眺めた。旅立ちにはちょうどいい、よく晴れた空だ。
そっと深呼吸をすると、立ち上がった私は何もかもを投げ出して、ある決意を固めた。
もう一度、あの町へ行こう。
そうと決めたら部屋に一枚の書き置きを残す。それから簡単に部屋を片付けると、小額のお金をポケットに入れて家を飛び出した。
きっとすぐには戻らないと思いつつ。
もしかしたら、永久に。
ためらう理由など私にはなかった。だからこそ私は思いつくままに船に乗り、昔の記憶だけを頼りにあの町を目指した。忘れていたと信じていた思い出は鮮やかによみがえり、私は無意識のうちに足を速めた。
ひまわりの咲く季節を選んだのは、きっと偶然ではない。
けれど、そこにあるはずのひまわり畑はすっかりなくなっていた。
「どうなっちまったんだ?」
見渡す限りの荒れ果てた草原。その先には、見たこともないビルが建ち並ぶ。
五年振りとはいえ、ここが本当にあの町だとしたら、さすがに変わりすぎではないだろうか。私は自分の目を疑いながらも、とにかく前に進んだ。進まなければ町にはたどり着けない。
異様なほど大きいビルの正面を通りかかったとき、中から意外な人物が顔を出した。
「まくじゃないか!」
それはビルから出てきた黒いスーツ姿のまくだった。
そしてそれは私にとって、違和感に満ちたまくの姿だった。
「ああ、あなたですか」
そっけなく、まくは私の前を通り過ぎていく。慌てて私は彼の後を追いかける。
やっとの思いで隣に並んで歩調を合わせると、私は彼に語りかけた。
「まく、何をやっているんだ?」
第一の疑問だった。
「見てわかりませんか。仕事です。それも、優秀な仕事ですよ」
勝ち誇ったような顔で彼はそう言った。優秀な仕事と言いながら、丁寧にアイロンをかけたスーツを身にまとっている彼に、私は身勝手な反感を抱いた。
「やりがいのある仕事、ひまわり畑はどうしたんだ?」
これこそが第二の疑問だ。
「えっ、ひまわり畑が仕事ですか?」
言った直後、まくは気だるそうにため息をついた。あたかも私を馬鹿にするかのように。
「そうだよ、仕事だよ。君はあんなに幸せだって言ってたじゃないか」
「種をまき、育てることが幸せ? それは子供の遊びでしょう」
そう言いながら、肩をすくめてあきれ返るまく。
私は言い返さずにはいられなかった。
「そうかもしれない。けれど、ひまわり畑はどうしたんだ」
「会社のためにつぶしました」
「どうして!」
「当然でしょう。見てください、このビルを。これのためなら、ひまわり畑なんて何度でも取り除く価値があります」
「本気で言っているのか?」
「本気ですよ。ひまわり畑は金になりませんから」
一切の迷いなく、平気でそんなことを言ってのける彼に私は顔をしかめた。
彼が本当にあのまくなのか?
なんだか信じられなかった。けれど目の前にいるのは間違いなく彼だ。
あの短い日々の中で友達になれたのだ。それを嬉しく思った私が彼を見間違えるはずなどない。それに、見間違えたくもなかった。
「もう種まきはやめたのか」
「ええ、やめてしまいました。でも……」
まくは両手を上げて、大衆へ向かって宣言するように高らかに言う。
「そのおかげで僕は成功者です。どうです、事業も大きくなり、お金も手に入りましたよ」
「お金さえ手に入ればそれでいいのか、まく?」
「僕も人間ですからね、それだけでいいとは言いません。でも、お金は幸せになるための前提です。今の僕はそれを努力と実力で手に入れているだけですよ」
「それで幸せなのか」
「ええ、そうでしょう。間違いなく幸せです。だって僕は大人になって人生を学びましたからね。……あなたはどうなのです?」
「私は、別に……」
「……そうですか。なら、今からでも考えを改めて熱心に働くべきですね。そしてお金を稼がねばなりませんよ」
「なあ、まく、本当にそう思っているのか」
私は彼がふざけているのかと思っていた。
いや、そう信じたかったのだろう。
けれど、そんな私に彼は冷たく言い放った。
「当たり前です。人間としての義務と責任を理解できない馬鹿者でもなければ、誰だってお金を必要とします。それのためならば、自分の力で骨身を砕いて稼ぎます。だからこそみんな必死で働いているのです」
「……そうか」
「そうですよ。……僕ももう暇ではありませんから行きます。さようなら」
「ああ、さようなら」
会話が終わると急いで町のほうへ歩き出したまくを、私はなんだかぼんやりとしたまま見送った。彼の言い分が間違っているとは言わない。むしろ世間では正しい。
労働とは義務であり、金銭とは価値だ。
重要なのはそんなことではなくて、もっと根源的なもの。私にとっては、素晴らしい価値観を持っていたかに思えた彼がこんなにも変わっていたことがショックだったのだ。
「まくは成長したのだ。大人になったのだ。考え方だって変わって当然だ」
そう自分に言い聞かせると、私はゆっくりと町へ向かって歩き出した。
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