振られた翌日、冷徹上司に恋人役を頼まれました

水原伊織

第1話 最低な夜の始まり

その日、私は三回「すみません」と言った。


一回目は、取引先に。

二回目は、上司に。

三回目は――恋人だった人に。


「ごめん。もう無理」


居酒屋のテーブル越しに、

彼はスマートフォンを見たまま言った。


顔すら上げない。

七年付き合った恋人の、

最後の表情がそれだった。


「……そっか」


自分でも驚くほど、声は静かだった。

怒りも、涙も出ない。


ただ、長く続いた仕事のプロジェクトが、

終わった時みたいに、

頭の中が空っぽになる。


「結婚とかさ、重いんだよね。

美咲、仕事人間だし」


私は営業職で、帰宅はだいたい二十二時。


休日も資料を開くことがある。

それを支えてくれていると思っていた。


違ったらしい。


「……うん。分かった」


それ以上、何も言わなかった。

言えば、みじめになる気がしたから。


会計を済ませ、店を出る。

春の夜風が少し冷たい。


駅前のネオンが滲んで見えたのは、

たぶん疲れているせいだ。


(終わったなあ)


二十九歳。


仕事は順調。

後輩もできた。

営業成績も悪くない。


なのに。

人生の予定表だけ、真っ白になった。


----


スマートフォンが震えた。


会社のチャット通知。


『明日の役員同行、急きょ変更』

『担当:神谷部長』


「……え」


思わず声が漏れた。


神谷部長。


営業部で最も近寄りがたい人。


合理主義。


無表情。


部下に私情を挟まないことで有名。


そして、私が一番苦手な人。


----


翌朝。


いつもより早く出社すると、

すでに彼は会議室にいた。


背筋の伸びた姿勢。


整いすぎたスーツ。


資料を読む横顔は、冷たいほど整っている。


「……おはようございます」


「おはよう」


視線だけがこちらを向く。

一瞬。


本当に一瞬だけ、彼の目が止まった。


「顔色が悪いな」


「え?」


「体調管理も仕事のうちだ」


それだけ言って、また資料へ視線を戻す。


(やっぱり苦手……)


心配ではない。


ただの事実確認。

そういう人だ。


----


打ち合わせは淡々と進んだ。


彼の仕事は完璧だった。

先回りの質問。


無駄のない説明。

相手役員の空気を読むタイミング。


営業として、純粋に尊敬はしている。

しているけれど。


「……以上です」


会議が終わり、席を立とうとした瞬間。


「佐倉」


低い声に呼び止められた。


「はい?」


「少し時間あるか」


断れる雰囲気ではない。


「あります」


彼は少しだけ考えるように、

間を置いてから言った。


「昼、付き合え」


「……え?」


「食事だ。仕事の話もある」


それだけ言って歩き出す。

説明不足にもほどがある。


----


会社近くの落ち着いた和食店。


部長クラスしか使わない店だった。


向かいに座る神谷部長は、

注文を済ませると私を見た。


「昨日、何かあったな」


箸を持つ手が止まった。


「顔に出ている」


「……そんなに分かりますか」


「ああ」


即答だった。


否定する気力がなくて、

私は少し笑った。


「振られました」


言葉にすると、ようやく実感が追いつく。


「七年付き合ってた人に」


沈黙。

気まずくなると思った。


けれど彼は、意外なことを言った。


「そうか」


それだけ。

慰めも、同情もない。

なのに、妙に楽だった。


----


料理が運ばれ、静かな時間が流れる。

食事が半分ほど進んだ頃。


神谷部長が、不意に口を開いた。


「なら、ちょうどいい」


「……はい?」


彼はまっすぐ私を見た。


仕事の時と同じ、迷いのない目で。


「一つ、頼みがある」


「頼み、ですか?」


「ああ」


彼は一呼吸おいて、言った。


「俺の恋人役をやってくれないか」


 箸が、音を立てて落ちた。


(……は?)


最低だったはずの夜が、

まったく別の方向へ、

動き始めた瞬間だった。

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