第2話 幸福のホテル
新幹線の窓に映る自分の顔を、真紀は何度も見た。
少しだけ化粧を濃くした。
白髪も染めた。
ワンピースだって、何年ぶりだろう。
夫との外食では着ない服。
誰かに綺麗だと思われたいなんて、いつ以来だろう。
スマホが震えた。
着いた。改札で待ってる。
胸が痛いくらい高鳴る。
四十四歳にもなって。
笑ってしまう。
でも、止まらなかった。
駅に着く。
改札を抜ける。
人混みの向こう。
悠介がいた。
少し太った。
髪も減った。
でも。
目が合った瞬間、分かった。
ああ。
私は、この人を忘れていなかった。
悠介が笑う。
「久しぶり」
声が、近い。
三十年ぶりなのに。
なぜか安心する。
真紀も笑った。
「なんか変な感じ」
「うん。昨日も会ってたみたい」
そう言って、悠介は少し躊躇したあと、
そっと真紀の手を握った。
中学時代、できなかったこと。
三十年越し。
真紀の胸が苦しくなる。
「やっとちゃんと会えた」
その言葉が危険だった。
あまりにも。
欲しかった言葉すぎた。
—
昼は観光をした。
古い商店街。
神社。
カフェ。
たわいない会話。
でも、全部が楽しかった。
夫といても、最近は会話なんて事務連絡ばかりだ。
「塾代払った?」
「お義母さん電話して」
「ゴミ出し忘れないで」
生活。
ただの生活。
恋愛なんて、とっくに終わった。
でも悠介とは違った。
笑える。
話せる。
沈黙が苦しくない。
「あの頃、真紀のことめっちゃ好きやった」
夕方、居酒屋でビールを飲みながら悠介が笑った。
「え、今さら?」
「いや、マジで」
照れた顔。
懐かしい。
そして、少しだけ涙が出そうになった。
誰かに好きだったと言われることが、
こんなにも救いになるなんて。
—
夜。
ホテル。
別々の部屋を取る選択肢もあった。
でも、取らなかった。
最低だと思う。
でも。
もう好きだった。
エレベーターの中。
沈黙。
指先が触れる。
心臓がうるさい。
部屋に入る。
緊張。
沈黙。
三十年前、
手も繋げなかった二人。
なのに今は。
大人になってしまった。
「真紀」
名前を呼ばれる。
抱きしめられる。
涙が出た。
罪悪感じゃない。
幸福だった。
ただ。
純粋に。
誰かに愛されている気がした。
その夜。
二人は長く話した。
子どものこと。
親のこと。
老後のこと。
仕事のこと。
そして。
日本のこと。
悠介が缶ビールを置いて言った。
「正直さ。この国、キツくない?」
真紀は笑った。
「急に重い話」
「いや、マジで」
悠介は窓の外を見た。
「医療も介護も崩れそうやし。給料上がらんし。税金高いし。なのに子ども産めって」
真紀は黙った。
確かにそうだった。
親の介護。
教育費。
物価高。
未来への不安。
頑張っても、楽にならない。
「俺さ」
悠介が言う。
「息子、まだ二歳なんよ」
嬉しそうな顔。
でも、その後。
急に表情が曇った。
「怖いんよな」
「何が?」
「この子、大丈夫なんかなって」
真紀は初めて見た。
悠介の弱い顔。
「俺らの時代って、まだ頑張れば何とかなったやん。でも今って……頑張る意味すら分からん」
その言葉が刺さった。
皆、同じなのだ。
不安。
疲労。
閉塞感。
なのに笑って生きてる。
壊れないように。
見えないふりをして。
—
夜中二時。
ベッドで並んで横になる。
悠介が急に言った。
「もしさ」
「うん?」
「二十代で結婚してたら、人生違ったかな」
真紀の心が止まる。
言ってはいけない言葉。
でも。
考えてしまう。
もし。
あの時別れていなければ。
もし。
違う人生だったら。
その時だった。
スマホが鳴った。
悠介の表情が変わる。
画面を見る。
固まる。
真紀は見えた。
表示された名前。
——陽菜。
女性の名前。
空気が止まる。
悠介は慌ててスマホを伏せた。
「……ごめん」
「誰?」
数秒の沈黙。
悠介は笑った。
でも、その笑顔は不自然だった。
「仕事関係」
嘘だ。
女の勘が言っていた。
何かがおかしい。
そして真紀は、まだ知らない。
この恋が、
“罪悪感”だけでは壊れないことを。
悠介が抱えていた、
もっと残酷な現実を。
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