第2話 生活の言葉、戦場の目
辺境の村にあるマルタの薬小屋には、乾いた薬草と、煮詰めた根の匂いが染みついていた。
小屋を預かる老女マルタは、寝台に横たわる青年の胸元の布をめくり、鼻を鳴らした。傷の手当てを終えたシオンは、泥のついた手を古い手拭いで拭いながら、寝台を覗き込む。
「普通なら死んでるよ、こんなの」
「……そんなに悪いの?」
「骨にひびが入ってる。血もずいぶん失ってる。右腕は……外から焼けたんじゃないね。内側から弾けたみたいだ」
包帯の隙間から覗くジンの右腕は、引き裂かれた生身の肉でありながら、妙な速度で内側から塞がり始めていた。その不自然なほど静かで異常な治癒の仕方は、明らかに普通の人間のものではなかった。
「なのに、身体だけはまだ戦う気でいる。死にかけてるくせに、休み方を忘れてるよ」
シオンは黙って、青年の色の薄い唇を見つめた。あの遺跡で、ただの木片を握り、異形を一瞬で屠った男。冷たい硝子のようだった目は、今はまぶたの裏に閉じられている。けれど右手の指だけは、何かを拒むように小さく硬直していた。
青年が目を覚ましたのは、それから丸一日が経った夕暮れだった。
窓の外から差し込む茜色の光が、床板の傷を淡く照らしている。青年はゆっくりとまぶたを持ち上げ、ぼんやりと天井を見た。それから自分の右手に視線を落とし、ひどくかすれた声を漏らした。
「……ごめん」
「え?」
枕元にいたシオンは、布を替える手を止めた。青年の声には、強者の余裕も、大人びた渋さもない。短く、素真面目で、どこか幼さすら感じる謝罪だった。
「運ばせて、ごめん。……あと、ありがとう」
「助けてもらったのは私だよ。お礼を言うのは、こっちなんだけど」
シオンが少し照れくさそうに笑い、額の布を整えようと手を伸ばす。
その瞬間、青年の視線が動いた。
シオンの右手。彼女の肩越しにある窓。戸口。薬棚。炉。天井の梁。目だけが静かに部屋を測っている。自分がなぜそうしているのか、青年自身にも分かっていないようだった。ただ、見ずにはいられない。身体の反射が勝手に室内の景色を、脅威と死角のデータとして拾っていく。
青年は寝台からずるりと足を下ろし、壁に背を預けるように座り直した。
「ちょっと、何してるの。まだ動いちゃだめって言われたでしょ」
「……シオン」
「何?」
「あそこの窓、木枠が腐っている」
「は?」
「体当たりすれば、外へ出られる」
「出ません。普通はそこから出ません」
シオンは呆れたように息を吐き、青年の肩を寝台へ戻そうとした。青年はおとなしく従ったが、今度は棚から薬を取って戻ってきたマルタの手元を見つめる。
「……何だい。私の手に何かついてるかね」
「右利き、だな」
「そうだけど」
「いや……」
青年は言葉を探すように視線を落とした。相手が右利きなら、自分がどこにいれば不意の動きに対処しやすいか。そんな不穏な計算だけが脳の奥で勝手に終わっている。けれど、それを説明する言葉は出てこない。青年は自分の頭に浮かんだ「戦いの方程式」に、ひどく困惑しているようだった。
「よく分からない。ごめん」
「謝るなら、大人しく看病されな」
マルタは薬を塗り直しながら言った。シオンは小さく息をつき、部屋の隅に置いてあった粥の椀を持ってくる。湯気が、薬草の苦い匂いの中にゆるく混じった。
「はい。少し食べられる?」
「……これ、何」
「お粥。看病のときは、温かいものを食べるの」
青年は椀を見つめ、それからシオンを見た。断ってはいけないのだろう、という顔をしている。理由は分かっていない。ただ、彼女が差し出したものを拒むのは違うと感じているようだった。
「いただく」
「はい。熱いから、冷ましてね」
青年はおずおずと粥を口に運び、少しだけ眉を寄せた。
「……熱い」
「だから言ったでしょ」
「でも、飲める」
「それはよかったです」
シオンがくすりと笑う。青年は、なぜ笑われたのか分からない顔で彼女を見た。
「俺、変なことをしたか」
「少しだけ」
「ごめん」
「そこも謝らなくていいです」
その返事に、マルタが肩を震わせた。青年は困ったように椀へ視線を戻す。スプーンの使い方は分かるらしい。けれど、温かい粥をゆっくり飲むという行為そのものに、まだ慣れていないようだった。
「名前は言えるかい」
マルタが聞いた。
青年は口を開きかけ、止まった。空の器の底を探るように、しばらく黙る。
「ジン」
それだけだった。
「ジンさん」
シオンが呼ぶと、青年は顔を上げた。
「私はシオン。覚えてる?」
「シオン」
「はい」
「運んだ人」
「助けられた人でもあります」
「そうか」
「そこは覚えておいてください」
「分かった」
あまりに素直な返事だった。シオンはまた少し困った。怖がるべきなのか、呆れるべきなのか、判断が追いつかない。けれど、残響体を壊した男が粥の熱さに眉を寄せている。その落差だけは、妙に胸に残った。
夜になると、マルタは炉の火を小さくし、奥の寝台へ引っ込んだ。ジンには床に薄い寝床が敷かれ、シオンはその近くの椅子を使うことになった。
「その男を拾った責任だよ。夜中に目を覚まして暴れでもしたら、あんたが止めな」
「私がですか」
「最初に名前を呼ばれて反応したんだろう。だったら、他の誰より届くかもしれない」
マルタはそう言って、毛布を二枚置いていった。
薬小屋の夜は静かだった。だがジンは眠らなかった。目は閉じている。呼吸も荒くはない。けれど、外を吹き抜ける風の音、木戸が軋む音、遠くの犬の声。そのたびに、指先や肩がかすかに動いた。一度も、身体が休まっていない。
シオンは椅子に座ったまま、それを見ていた。
遺跡で見た力より、今の方が怖かった。火のそばにいても、ジンの身体だけが眠り方を知らない。
シオンは立ち上がり、音を立てないように毛布を一枚取った。ジンの肩へそっと重ねる。毛布には、さっきまで誰かが使っていた体温が少しだけ残っていた。
ジンの目が開く。
「何かあったか」
「ありません」
「なら、なぜ動いた」
「毛布を増やしました」
「なぜ」
「寒いですか」
「……分からない」
「じゃあ、寒いかもしれないので」
ジンは毛布の重みをしばらく確かめていた。命令か、処置か、支給品か。そんなふうに分類しようとして、どれにも当てはまらずに困っているように見えた。
「これは、命令か」
シオンは言葉を失った。
炉の火が小さく鳴る。マルタの寝息が奥から聞こえる。ジンは真剣だった。ふざけているのではない。人の好意と命令の違いが、まだうまく見つけられない顔だった。
「違います」
「違うのか」
「はい。ただ、そうしたかっただけです」
「そうしたかった」
「寒いかもしれない人に、毛布をかけるのは、命令じゃなくてもできます」
ジンは黙った。彼の目の奥を、冷たい計算のようなものが一瞬だけ通り過ぎる。けれど、口に出た言葉は短かった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
シオンは少しだけ笑った。ジンはその笑顔を見て、また困った顔をする。
「今のも、変だったか」
「少しだけ」
「ごめん」
「だから、謝らなくていいです」
シオンは椅子に戻り、杖を抱える。鈴は布の中で鳴らない。ジンは目を閉じた。今度は少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
しばらくして、彼が小さく言った。
「シオン」
「はい」
「明日も、粥はあるのか」
シオンは声を殺して笑った。
「マルタさんに聞いてください」
「そうか」
「楽しみですか」
「必要だと思う」
「何にですか」
ジンは少し黙った。
「明日、動くために」
シオンの笑みは、そこで薄くなった。
明日、動く。どこへ。何のために。ジン自身も分かっていないはずなのに、彼の身体はもう次の危険を探している。
「明日は、まず休んでください」
「休む」
「はい。傷がひどいです」
「休むと、動けるのか」
「動くためだけに休むんじゃありません」
ジンは目を開けた。
「じゃあ、何のために」
シオンはすぐには答えられなかった。生活の言葉は、戦場の言葉よりも説明が難しい。休むのは、傷を治すため。眠るため。温かいものを食べるため。次の日の朝に、まだ同じ場所で目を覚ますため。
「朝、ちゃんと目を覚ますためです」
ようやく、それだけ言った。
ジンは静かに瞬きをした。
「朝」
「はい。朝です」
「分かった」
外で風が止んだ。
薬小屋の中には、炉の火が残っている。マルタの寝息がある。薬草の匂いがある。椅子の上で膝を抱えるシオンがいて、寝床の上で眠り方を知らないジンがいる。
この時間を、白いものに触れさせたくないと思った。
夜明け前だった。
薬小屋の軒先に吊るされた防人の鈴が、窓の外で揺れていた。
風はない。なのに、鈴だけが激しく震えている。
けれど、音がしなかった。まるで、世界からすべての音が吸い取られてしまったかのように、不気味な静寂が小屋を支配している。
シオンは椅子から立ち上がり、布に包んでいた杖を握る。ジンは、眠っていたはずなのに目を開けていた。さっきまでの頼りない青年の顔ではない。硝子のように冷えた目が、戸口の隙間を見ている。
「シオン」
声だけが、戦場のものに変わっていた。
「窓から離れろ」
薬小屋の木戸が、内側へわずかに軋んだ。
戸の隙間から、薄い白い霧が一筋、床を這って入ってきた。
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