父の白槍に適性ゼロの三代目貴族、祖父の泥臭い棒術でしか勝てない 〜勝つたび家名が汚れるので、正統流派として公認させます〜

ほらほら

第1話 白槍公の息子

 父の槍は、思っていたよりも短かった。


 そのことに気づいた瞬間、レオン・アルヴァインは、泣き損ねた。


 大聖堂の天井は高く、窓から差し込む光は、白い石床の上で薄くほどけていた。王都中の貴族が並び、領地から来た家臣たちが黒衣で膝をつき、聖歌隊の声が静かに伸びる。


 棺の上には、白布に包まれた一本の槍が置かれていた。


 白槍公アルベルト・アルヴァイン。


 それが父の呼び名だった。


 王国北部を魔獣の群れから守り、隣領との争いを最小の流血で収め、反乱兵の首を晒さず、降伏した者に水を与えた男。貴族たちは父を清廉の象徴として語った。領民たちは父を慈悲深い領主として語った。騎士たちは父を、美しい槍の使い手として語った。


 だからレオンは、父の槍もまた、もっと長く、もっと鋭く、もっと堂々としたものだと思っていた。


 だが、白布が解かれたとき、そこにあった槍は違った。


 長槍ではない。


 手槍だった。


 柄は白木で磨かれているが、全長はレオンの背より少し長い程度。穂先は驚くほど細く、刃渡りも狭い。名槍と呼ぶには、どこか頼りない。敵の胸を貫くための武器というより、固い棒の先に薄い刃を足したものに近かった。


 そのくせ、柄だけが異様に古い。


 刃は白く、よく磨かれている。傷も少ない。光を受けて、静かに冷たく輝いている。


 けれど、柄には細かな打痕があった。石突の近くには、何度も地面を擦ったような黒ずみが残っている。握りの部分も、白く塗り直されているのに、その下から手垢のような影が浮いていた。


 美しい槍。


 そう呼ぶには、妙に生活の傷が多かった。


「レオン・アルヴァイン」


 祭壇の前で、宰相が名を呼んだ。


 レオンは一歩、前に出た。


 黒い喪服の裾が、石床に触れる。周囲の視線がいっせいに集まる。貴族たちの目は、彼ではなく、彼がこれから手にする槍を見ていた。


 十八歳。


 アルヴァイン家の一人息子。


 次期当主。


 白槍公の息子。


 そのどれもが、レオン自身より先に彼の背に乗っていた。


 宰相は槍を両手で取り上げ、レオンの前に差し出した。


「白槍公アルベルト卿の遺志と、アルヴァイン家の責務を、ここに継がれよ」


 静まり返った大聖堂に、その声がよく響いた。


 レオンは膝を折る。


 父がしていたように、背筋を伸ばしたまま。


「謹んで、拝領いたします」


 声は震えなかった。


 震えなかったことに、自分で少し驚いた。


 宰相の手から、槍が渡される。


 軽い。


 それが次の違和感だった。


 父が持っていたとき、この槍はもっと重く見えた。白い残光を引くように、父の手の中で大きく見えた。幼いレオンにとって、父と槍はほとんど同じものだった。白く、遠く、触れてはいけないほど正しいもの。


 なのに、いま手の中にあるそれは、あまりに近かった。


 短くて、軽くて、細い。


 けれど、柄の中心だけが妙にしっくり来る。


 握った瞬間、掌に古い窪みが合った。


 父の手の跡か。


 そう思おうとした。


 だが、違う気がした。


 もっと古い。


 もっと低い。


 もっと泥に近い。


「見事だ」


 背後から、低い声がした。


 老家臣ガルドだった。


 白い髪を後ろで束ね、黒衣の上から古い革手袋をしている。父に仕え、さらにその前、祖父オルドにも仕えた男だ。家中でただ一人、白槍公を「若」と呼べた人間だった。


 ガルドはレオンを見ていなかった。槍を見ていた。


「旦那様も、お喜びでしょう」


 旦那様。


 それは父のことだ。


 レオンはゆっくりと立ち上がった。


 大聖堂の奥に、父の棺がある。白布と百合に囲まれた棺。顔はもう見えない。見せられたとき、父はとても静かだった。戦場で倒れたとは思えないほど、眠っているようだった。いや、眠っているという言葉も違った。あれは、すでに誰かの記憶になった顔だった。


「父上の名に恥じぬよう、努めます」


 レオンは言った。


 正しい声だった。


 喪主として、次期当主として、白槍公の息子として、そう言うべき場面だった。


 貴族たちがうなずく。


 王都の女官たちは涙を拭う。父の騎士仲間たちは目を伏せる。領地から来た村長たちは、祈るように手を組んでいる。


 誰も、レオンの手が少しだけ槍を握り直したことに気づかなかった。


 ただ、ガルドだけが視線を動かした。


 葬儀の後、アルヴァイン家の王都屋敷で弔問客を受けた。


 どの顔も、同じようなことを言った。


「お父上は立派な方でした」


「王国の損失です」


「あなたには、ぜひ父上のような清廉な当主になっていただきたい」


「白槍公の名を継ぐのは、あなたしかおられません」


 レオンは一人ひとりに、同じように答えた。


「父の志を胸に、領地と王国のため尽くします」


「未熟な身ではございますが、皆様のご厚情に報いられるよう努めます」


「父の名を汚さぬよう、日々精進いたします」


 言葉は、よどみなく出た。


 父の隣で何度も聞いてきた言葉だった。父が誰かを慰めるとき、誰かに頭を下げるとき、王都の重臣たちを相手にするとき、その声はいつも静かだった。父は怒鳴らなかった。余計なことを言わなかった。相手に恥をかかせなかった。


 レオンは、父の口調をよく覚えていた。


 覚えすぎていた。


 夕刻になると、ようやく客足が引いた。


 広間には花の匂いだけが残った。百合と香の匂い。少し甘すぎて、息が詰まる。


 レオンは手袋を外し、廊下へ出た。


 白槍は、まだ手元にあった。


 本来なら、父の書斎か武器庫に納めるべきだった。だが誰もそれを言わなかった。今日だけは、次期当主が持っているのが自然だと思われていた。


 自然。


 便利な言葉だ。


 人が押しつけたいものは、だいたい自然という顔をする。


 長い廊下の先で、ガルドが待っていた。


「若様」


「何だ」


 周囲に人がいないことを確認してから、レオンは少しだけ声を崩した。


 ガルドは眉を動かさない。


 昔からそうだった。レオンが式典の場でどれだけ清廉な若君を演じても、この老人の前では十歳の頃からの口の悪さがすぐ漏れる。直せ、と言われたことは一度もない。たぶん直らないと思われている。失礼な話だが、事実なので始末が悪い。


「お疲れでしたな」


「疲れたよ。人は死んでも働かされるんだな。父上なんか今日だけで百回は褒められてたぞ」


「それほどのお方でした」


「知ってる」


 レオンは短く言った。


 それ以上は言わなかった。


 ガルドの目が、白槍へ落ちる。


「重うございましたか」


「軽い」


 レオンは答えた。


 ガルドの目元がわずかに動いた。


「そうお感じに」


「思ってたより短い。刃も狭い。あれで白槍公か? もっとこう、長くて、見栄えのするやつかと思ってた」


「見栄えで人は守れませぬ」


「王都の連中は見栄えで飯食ってるけどな」


 ガルドはため息をついた。


「その口は、表ではお控えを」


「控えてただろ。俺は今日、父上みたいに喋った」


「だからこそ、お疲れなのでしょう」


 嫌なことを言う。


 レオンは返事をせず、廊下を歩き出した。


 屋敷の奥に、小さな稽古場がある。


 父が王都滞在中に使っていた場所だった。大きくはない。天井も低い。床は厚い木板で、壁にはいくつかの槍掛けがある。


 ただし、掛けられているのは式典用の長槍ばかりだった。銀の装飾、紋章入りの房、見事な刃。どれも貴族らしい。


 手にある白槍だけが、場違いだった。


 レオンは稽古場の中央に立った。


 ガルドは入り口のそばに控える。


「若様、今日はお休みを」


「寝られる顔してるか?」


「しておりませぬ」


「なら黙って見てろ」


 レオンは白槍を構えた。


 父の型。


 白槍流の基本。


 左足を半歩引き、背筋を伸ばし、槍を斜めに構える。穂先は相手の喉元。柄は胸の前。視線はまっすぐ。


 美しい構えだ。


 父がこの姿勢を取ると、周囲の空気まで整った。


 レオンは突きを放つ。


 空を突いた。


 軽い。


 軽すぎる。


 穂先が伸びない。間合いが足りない。長槍の型をそのまま使うには、この手槍は短すぎた。踏み込めば届く。だが踏み込むと、体が近づきすぎる。相手の剣が届く距離だ。


 もう一度。


 突く。


 穂先が空を裂く。


 白い刃が灯りを拾う。


 美しい。


 それだけだ。


 レオンは奥歯を噛んだ。


「クソが」


「若様」


「聞こえてるよ」


「なら、もう少し小さく」


 レオンは槍を握り直した。


 父はこれで勝った。


 父はこれで魔獣を退け、反乱兵を降し、貴族たちを黙らせた。


 なら、自分にできないのは自分が劣っているからだ。


 そう考えるのが、いちばん簡単だった。


 もう一度、構える。


 突く。


 届かない。


 踏み込む。


 近い。


 穂先を戻す。


 遅い。


 父の型が、手の中の槍と噛み合わない。


 何度も繰り返すうち、汗が喪服の襟元に滲んだ。葬儀用の黒衣は動きづらい。袖が邪魔だった。靴底も滑る。


 レオンは苛立ち、構えを崩した。


 その瞬間だった。


 左足が、勝手に沈んだ。


 背筋が少し丸まり、視線が相手の胸ではなく、足元に落ちる。槍の穂先が高く残り、石突が床すれすれを滑る。


 レオンは息を止めた。


 見覚えがあった。


 幼い頃、屋敷の裏庭で見た動き。


 誰も見ていないと思って、祖父オルドが一度だけ見せた足運び。


 泥狼。


 そう呼ばれていた祖父。


 父が決して語らなかった初代当主。


 レオンは反射的に体を戻そうとした。


 だが、戻る前に、白槍が手の中で妙に落ち着いた。


 父の型で持っていたときより、ずっと自然に。


 穂先は飾りのように高く残る。相手の目をそこへ引きつける。実際に動くのは石突。足首を払う位置。膝裏へ滑り込む角度。柄は、突くためではなく、引っ掛けて崩すためにある。


 レオンはゆっくりと槍を動かした。


 白い穂先が揺れる。


 次の瞬間、石突が床を打った。


 乾いた音。


 稽古場に響く。


 ガルドが息を呑んだ。


 レオンは動きを止めた。


 床の上、石突が擦った跡が一本、黒く残っている。


 その跡は、父の美しい槍術とは何の関係もなかった。


「……今のは」


 レオンは言いかけた。


 ガルドは答えない。


 答えないことが、ほとんど答えだった。


 レオンは白槍を見下ろした。


 刃は細い。


 柄は傷だらけ。


 石突は重い。


 この槍は、長く突くためのものではない。


 払うためのものだ。


 崩すためのものだ。


 倒れた相手の手首を押さえるためのものだ。


 そんな考えが、喉の奥まで上がってきた。


 レオンはそれを飲み込んだ。


「ガルド」


「はい」


「父上は、本当にこの槍で、白槍流を使ってたのか」


 老人は、しばらく黙っていた。


 窓の外では、王都の鐘が鳴っている。葬儀の終わりを告げる鐘だった。人は鐘まで使って区切りをつけたがる。死んだ人間が戻ってこないことくらい、鐘がなくても分かるのに。


「旦那様は」


 ガルドが口を開いた。


「白槍公であろうとなさいました」


 レオンは笑った。


 小さく、声にならない笑いだった。


「答えになってねえよ」


「答えられることと、答えてよいことは違います」


「便利な老人だな」


「長生きの効能でございます」


 レオンは槍を持ち上げた。


 今度は父の型で構えようとした。


 だが、手が少しだけ迷った。


 背筋を伸ばせば、槍は遠くなる。

 足を沈めれば、槍は近くなる。


 白い穂先は、父のものに見える。

 黒ずんだ柄は、誰のものだ。


「若様」


「何だよ」


「今日は、そこまでになさいませ」


「怖いのか?」


 ガルドは否定しなかった。


「少し」


 レオンは老人を見た。


「俺が父上に似てないからか」


「いいえ」


 ガルドの声は低かった。


「似ておられるからです」


 レオンは黙った。


 それが父に似ているという意味なのか、祖父に似ているという意味なのか、聞かなかった。


 聞けば、答えが返ってくるかもしれなかった。


 返ってきた答えを、今夜の自分が持てる気がしなかった。


 レオンは白槍を槍掛けに戻した。


 式典用の長槍たちの中で、その短い手槍はやはり場違いだった。白く、細く、どこか貧相で、そのくせ床の黒い擦り跡だけがやけに生々しい。


「ガルド」


「はい」


「明日の朝、白槍流の師範を呼べ」


「稽古を?」


「違う」


 レオンは喪服の袖を直した。


 表の顔に戻す。


 声を整える。


「父の槍術を、正しく学び直したい」


 ガルドが深く一礼する。


「承知いたしました」


 レオンは稽古場を出た。


 廊下に戻ると、花の匂いがまだ残っていた。百合と香の匂い。白く、甘く、死を包む匂い。


 その奥で、掌だけが槍の柄の形を覚えていた。


 父の槍。


 そう呼ばれるもの。


 けれど、その握りは、父だけのものではなかった。


 レオンは誰にも聞こえない声で呟いた。


「……白い面しやがって」


 廊下の灯りが揺れる。


 白槍公の息子は、その夜、初めて父の槍を継いだ。


 そして同じ夜、父の槍が父だけのものではないことを知った。

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