第6話「羽田発、行き先不明」

 午前六時。

 上杉克典は執務室のソファで仮眠を取っていた。着替えもせず、ネクタイも緩めないまま横になった姿は、眠っているというより、気を失っているように見えた。

 黒瀬渉はそのソファの前に立ち、三秒だけ躊躇した。

 それから、肩を揺すった。

「総理」

 上杉がすぐに目を開けた。熟睡していなかったのだろう。目の下に深い隈がある。この二日間で、十年分老けたように見えた。

「黒瀬か」

「はい。お見せしたいものがあります」

 黒瀬は内ポケットから折り畳んだファックスを取り出し、テーブルに置いた。上杉が手に取り、読んだ。十秒もかからなかった。

 それだけ、短い文章だった。

 上杉がファックスをテーブルに戻した。

「……七十二時間か」

「昨夜届いています。残り、五十九時間です」

 上杉が目を閉じた。また開けた。

「降伏、という選択肢は」

「あります」黒瀬は即答した。「ただし——その場合、日本は北朝鮮の属国になります。在日米軍が撤退した後、この国を守る傘は何もない。名目上の独立は維持されるかもしれませんが、実態は——」

「わかっている」上杉が遮った。「聞いたのは確認だ」

 沈黙。

「もう一つの選択肢を、聞かせてくれ」

 黒瀬は立ったまま、静かに言った。

「モスクワです」


 黒瀬が総理特使の内示を受けたのは、その日の午後だった。

 公式な辞令はない。記録にも残らない。上杉が手書きで書いた一枚の委任状だけが、黒瀬の手元にある。便箋に万年筆で書かれた、たった三行。

 ——黒瀬渉を総理特使として派遣する。その行動は全権をもって承認する。上杉克典。

 黒瀬はその紙を、ファックスと同じポケットに入れた。

 官邸を出る前に、朱里を呼んだ。

「羽田の手配は」

「できています。二十三時発、フランクフルト行きのチャーター便。乗客リストには鈴木一郎の名前があります」朱里が言った。「実際の目的地変更は、離陸後に機長へ伝える手順になっています」

「同行者は」

「私が同行します」

 黒瀬は朱里を見た。

「お前は残れ。ここで情報を取り続ける方が価値がある」

「渉さん一人では——」

「一人の方がいい」黒瀬は言った。「人数が増えるほど、漏れるリスクが上がる。今この瞬間も、官邸の中に誰が情報を流しているかわからない」

 朱里が黙った。

 黒瀬は続けた。

「私がモスクワにいる間、ここを頼む。総理の周囲で何か動きがあれば、どんな小さなことでも暗号回線で送れ」

「……わかりました」朱里が頷いた。「気をつけて」

 黒瀬は返事をしなかった。

 気をつける、という言葉が似合う旅ではなかった。


 羽田空港の外れ、民間チャーター機の専用ターミナルは閑散としていた。

 一般の旅客便はすでに大半が運休している。中国が東シナ海の一部空域を「安全保障上の理由」で封鎖したためだ。飛べるルートが限られ、航空会社が次々と日本路線を止めていた。空港の出発ロビーは、出国できない人間と、出国しようとする人間が混在して、異様な熱気を帯びていた。

 黒瀬はその喧騒を、端の通路から迂回して抜けた。

 チャーター機は小型だった。十二人乗りのビジネスジェット。乗客は黒瀬一人だ。機長と副操縦士が滑走路脇で待っていた。

「よろしくお願いします」機長が言った。「フランクフルトまで——」

「離陸後に話す」黒瀬は言った。「今は飛んでくれ」

 機長が一瞬、黒瀬を見た。何かを察したような顔だった。それ以上は聞かなかった。プロだ、と黒瀬は思った。

 機内に乗り込む直前、黒瀬は一度だけ振り返った。

 東京の夜景が広がっていた。

 煌々と輝く灯りの海。あの灯りが、あと何日持つのか。三十二日、という数字が頭をよぎった。いや、ファックスの七十二時間が先に来るかもしれない。どちらが先に尽きるか、今の黒瀬には判断できなかった。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 この灯りを守れるのは、今の世界で——ロシアしかいない。

 それがどれだけ危険な賭けであっても。どれだけ多くのものを失う選択であっても。

 黒瀬は機内に入り、シートに座り、目を閉じた。


 離陸から三十分後、黒瀬は機長を呼んだ。

「目的地を変更する」

 機長が黒瀬を見た。驚いた顔ではなかった。やはり、と言いたそうな顔だった。

「どちらへ」

「モスクワ。シェレメーチエヴォ空港だ」

 機長が頷いた。

「燃料は問題ありません。ただ——ロシアの領空許可が必要です」

「取れる」

「いつ」

「今から取る」

 黒瀬はシートに戻り、衛星回線のタブレットを開いた。ヴォルコフ公使から渡された暗号アプリを起動する。短いメッセージを打った。

 ——移動中。六時間後に着く。準備しろ。

 三分後、返信が来た。

 ——クレムリンは待っている。

 黒瀬はタブレットを閉じ、窓の外を見た。眼下に日本海が広がっていた。漆黒の海。灯台の光が、遠くに小さく瞬いている。

 あの光の下に、島がある。人が住んでいる。今夜も眠っている。

 自分がこれからしようとしていることを、あの人たちは知らない。知る必要もない。ただ——結果だけを、受け取ってもらえればいい。

 それでいい。

 黒瀬は目を閉じた。

 モスクワまで、あと五時間半。


第6話 了

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