第2話「博多上空の太陽」

 午前五時四十二分。

 黒瀬渉は総理執務室の隣、危機管理センターの端末に向かっていた。ここ二時間で世界は変わった。在韓米軍は「待機」を続け、台湾の防衛ラインは徐々に削られ、ソウルの北方では砲声が止まない。それでもまだ、日本の空は静かだった。

 静かすぎる、と黒瀬は思っていた。

「九州方面、何か動きはあるか」

 田中朱里がキーボードを叩く。

「航空自衛隊・築城基地(ついききち)から報告が——」

 その時、センター全体のスピーカーが一斉に鳴り響いた。

 甲高い、聞き慣れた警告音。だが黒瀬がこれまで訓練でしか聞いたことのない、本物の音だった。

 ——ミサイル発射。ミサイル発射。北朝鮮より弾道ミサイルが発射されました。日本海を経て、九州方面に着弾の可能性があります。直ちに頑丈な建物や地下に避難してください——

 Jアラートだ。

「発射数は」黒瀬は即座に聞いた。

「確認中——」朱里の声が緊張で上擦った。「三、いや——五発。さらに増えています」

「増えている?」

「十、十五——」朱里が息を呑んだ。「二十発超えました。まだ増えています。三十——三十二発、確認」

 飽和攻撃だ、と黒瀬は理解した。迎撃ミサイルの数を上回る弾数を同時に撃ち込み、防衛網を強引に突破する戦術。北朝鮮が長年研究し続けてきた、日本のPAC-3とイージス艦を無力化するための手段だ。

「イージス艦の迎撃状況は」

「第一射から第四射、迎撃成功——第五射、成功——第六射、失敗。第七射、失敗——」朱里の声が途切れた。「八、九、連続で抜けています」

「九州のPAC-3は」

「築城、那覇、全基地が迎撃態勢に入っています。PAC-3が順次対応中——十四射、成功。十五射、成功——ただし」

「ただし?」

「数が、多すぎます。追いつきません」

 センターが静まり返った。

 モニターに映し出された弾道軌跡が、幾本もの赤い線となって九州へ向かっていく。次々と×印がついていく。二十発、二十五発——それでも、数本の軌跡が×印のないまま弧を描き続けていた。

「残存ミサイル、四発——三発——」朱里の声は、もはや感情を失っていた。「二発迎撃。残り一発——迎撃、間に合いません。着弾まで——」

 その瞬間だった。

 センターの全モニターが、白く飛んだ。


 福岡市博多区。午前五時四十三分。

 早朝の天神(てんじん)は、まだ眠っていた。清掃車がゆっくりと渡辺通りを走り、コンビニの明かりだけが歩道を照らしている。博多駅の始発まであと十七分。駅員が改札のシャッターを上げ始めた、その時。

 空が、光った。

 太陽が二つ生まれたような光だった。西の空、海の方角から——いや、上空から——まばゆい白が広がり、次の瞬間、世界が消えた。爆心地から半径二キロ以内にいた人間は、影すら残さなかった。博多駅の駅員も、清掃車の運転手も、コンビニで雑誌を立ち読みしていた男も。熱線が届いた瞬間、彼らは存在したことの証拠ごと、消えた。

 爆風は音より先に来た。

 鉄筋コンクリートのビルが、紙細工のように折れた。キャナルシティの外壁が剥がれ、中洲(なかす)の歓楽街が瓦礫の波に飲まれた。博多湾に係留されていた船が、陸に向かって打ち上げられた。半径五キロ圏内の木造家屋は、文字通り消滅した。

 爆心から八キロ離れた春日市の民家で、窓ガラスが一斉に内側へ吹き飛んだ。

 爆心から十二キロ離れた大野城市のコンビニで、店員が爆風で壁に叩きつけられた。

 爆心から二十キロ離れた筑紫野市の丘の上で、一人の老人が振り返り、立ち上る白煙のきのこ雲を、ただ見ていた。

 声は出なかった。

 膝が折れた。

 それが九州だった。


 危機管理センターのモニターが復帰したのは、閃光から四十秒後だった。

 衛星画像が映し出された瞬間、センター内が静止した。怒号も、電話の音も、キーボードの音も、すべてが止まった。

 博多が、なかった。

 正確には——あった場所に、灰色の円があった。中心部は真っ白で、外縁に向かうにつれて灰と黒が混ざり合い、街の輪郭が溶けたように滲んでいた。博多駅も、天神も、中洲も、キャナルシティも、シーホークも。百万人以上が暮らしていた街の中心が、きのこ雲の下に消えていた。

 黒瀬は衛星画像を、三秒間見た。

 三秒で視線を切り、端末に向き直った。

「爆発規模の推定を」

 声が出たのは自分でも意外だった。震えなかった。それが正しいことなのか間違いなのか、今は考えない。

「……推定、十五キロトン前後」朱里の声は、別人のように平坦だった。「長崎型と同規模です」

「発射源の特定は」

「日本海側、推定高度——弾道軌道から、北朝鮮本土と判断されます」

 センターに、誰かの嗚咽が漏れた。黒瀬は振り返らなかった。

「米軍の反応は」

「……まだ、ありません」

 まだ、ありません。

 黒瀬はその五文字を、頭の中で一度だけ繰り返した。そして引き出しの奥に、静かに仕舞った。


 総理執務室に戻ると、上杉克典が椅子に座ったまま、壁を見ていた。

 顔色がなかった。声をかけると、ゆっくりと顔を上げた。まるで水の底から浮かんでくるように、焦点が戻ってくる。

「……何人だ」

「現時点では不明です。ただし爆心付近は——」

「何人だと聞いている」

 黒瀬は一拍置いた。

「最低でも、数万。熱線と爆風の到達範囲を考慮すると、死者は十万を超える可能性があります。放射線被害を含めれば、さらに増えます」

 上杉が目を閉じた。

 長い沈黙があった。

「ホワイトハウスは」

「繋いでいます。ただ」黒瀬は続けた。「大統領の第一声は『遺憾の意』でした」

 遺憾の意。

 上杉が目を開けた。その目に、黒瀬はこれまで見たことのない光を見た。怒りよりも深い、冷たい何かだ。

「……報復するか、と聞いたか」

「聞きました。回答は『あらゆる選択肢を検討中』でした」

 あらゆる選択肢を検討中。

 それが意味することを、この部屋にいる二人はどちらも理解していた。来ない、ということだ。核を持つ国家への報復は、自国への核報復を招く。アメリカはその計算を、日本の命より先に終わらせた。

「総理」

 黒瀬は一歩、前に出た。

「今夜中に決断が必要です」

 上杉が黒瀬を見た。

「何の決断だ」

「この国が、次に誰と組むか、です」

 執務室の外から、遠くサイレンの音が聞こえた。東京の空はまだ青く、何も知らない朝が始まろうとしていた。だが黒瀬には見えていた。この青空が、いつまでも続く保証はどこにもない。

 福岡で止まる理由が、あの国にはない。

 黒瀬にはわかっていた。次がある。必ず、次がある。


第2話 了

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