1000年の恋

三毛栗

1000年の恋

 

 「私、今世で最後にしようと思う」


 そう言い出したのは、この国で最も多くの人生を巡ってきた、長老と呼ばれる男だった。


 「え、まじ?長老が居なくなんのは寂しいんだけど」


 「長老が居なくなっちゃったら誰が昔話を語ってくれるのさ」


 「何?腰痛いの?今世まだそんな年いってないじゃん」


 それを聞いた村の住民たちは、冗談を聞き流すかのような軽い反応を返す。でも皆本当は、長老が冗談でこんな事を言い出したのではないと分かっていた。


 「…レティシアさん、まだ生まれ変わってないんだな」


 「今世でもう1000年経ってるんだろ?」


 「フィーア様も意地悪なもんだよなあ」


 長老は、このフィーア神国の建国からノンストップで生まれ変わり続けている、この国の生き証人である。


 長老の1度目の生は、大商人であった。



 ■ ■ ■



 「ラート!」


 この世界で彼のことをそう呼べるのは、彼女だけ。


 「レティ、どうした?」


 そして彼女のことをそう呼べるのも、彼だけ。


 「あのね、ガーベラが呼んでいたの。商品が用意できたんですって」


 「ああ分かった、すぐに行く。それよりレティ、その髪飾りは見たことがないな」


 「あ、気付いた?あなたの好きなスズランよ。露店で一目惚れしちゃって」


 「露店?誰と行ったんだ」


 「フフ、安心して。ルルだから」


 「ああ、妹君か」

 

 「あなたが居るのに、男の人とお買い物になんて行かないわ」


 「…私は別に、そんな事言っていない」 


 「あれ、顔が赤いんじゃない?」


 いずれ長老と呼ばれるその男には、妻が居た。その女性の名はレティシア、姓はない。彼と彼女は幼馴染だった。


 生まれた時からずっと一緒にいて。当たり前のように祝言を挙げて。これからだってずっと、2人は共に歩み続けるということを、疑いすらしなかった。


 「ねえラート、早く行って。そしてすぐにお仕事を済ませて帰ってきてくれない?」


 「どうかしたのか?」


 「…少し、話があって」


 「分かった、昼には帰ろう」


 「それは、早すぎかな」




 その日を、何の変哲もない晴天の日を。長老は、ラートリートは忘れることができない。


 「余命、1年?」


 「うん、お医者様に言われたの。実は最近少し具合が悪くて。ほら、この島が1つの国になって、東の方から新しい医術が渡ってきたでしょう?そちらのお医者様に診てもらったら、同じような症状の病が見つかってしまったの」


 宣言通り、昼前に帰ってきたラートリートを無慈悲に迎えたその言葉。


 余命、1年。


 ラートリートは本気で、ここが夢の中ではないかと疑った。…そうでなければ、ここが現実なのだとしたら。1年後には、レティシアはこの世に居ない?そんな現実を、彼が認めるわけにはいかなかった。


 「治せない、のか?」


 やっとの思いで絞り出したその声は、酷くか細くて。そんなラートリートを、レティシアはやさしく抱きしめる。


 「これまでも、駄目だったんだって。でもこの島が1つの国に統一された今なら、いろんな技術が合わさっていずれ不治の病ではなくなるかもしれない」


 ――それなら。


 そう、ラートリートが言葉を紡ぐ前に、レティシアは抱擁を強めてその口を塞いだ。


 「でも1年は、早すぎるって」


 重い、沈黙。技術の確立に時間がかかることは、数多の事業を手掛けたラートリート自身が1番よく分かっていた。それでも縋らないなんてこと、彼にはできなかった。


 「絶対、治すから」


 沈黙を破って、ラートリートはレティシアの桃色の瞳を見つめ言い放つ。そして今度は、彼自身が強く彼女を抱き締めた。


 「…ふふ、私の旦那様はカッコいいなぁ」


 …1年後も、その先も。その瞳の輝きを、ずっと見つめていられるように。




 ラートリートはその日から、商会で自分が抱える全ての仕事を副商会長に丸投げした。本当は商会長の座も譲ろうとしていたが、荷が重すぎると却下され、一先ず商会長代理を務めてもらうという話で合意した。


 本来ならこれは、商会長として許されぬ暴挙だろう。しかしこんな行動を取ってなお待っていてもらえる信頼を、彼はすでに築き上げていた。そしてその動機である妻への愛は、嫌と言うほど周知されていた。


 「私の資産の全てを使え。世界中の医者を、薬剤を、資料を、私の元へ」


 国で1番の資産家、ラートリートのその言葉に従って。国中の名医がレティシアのもとに集まった。


 「私、故郷で過ごしたいな。あなたと育った、あの場所で」


 そう言ったレティシアの為に、故郷の村に大きな屋敷と研究施設を建てた。


 「この病は、もうずっと不治の病として私共の地域に根付いていたものです」


 レティシアを診察した、肌色の濃い異郷の医者はそう言った。その病は、徐々に患者の身体を固め、言葉を奪い、やがてその心の臓すら止めるという。


 ラートリートたちの地域では見たことも聞いたこともない病だった。島が1つになり、新たな知見が巡ってきたからこそ治療の兆しが見えてきたということである。その点だけで言えば、レティシアは幸運だったと言えるかもしれない。




 ――いや、本当にそうか?


 研究開始から半年が経ち、レティシアの足はもうピクリとも動かなくなった。異郷の医者が言うには、それでも病の進行速度は確実に遅くなっているという。この頃から、ラートリートの頭には昏い思考が浮かび始めた。


 ――この島が統一なんてしなければ、異郷の病がこちらへと渡ってくることはなかったのではないだろうか。


 ――そもそも、私が商人などになったから。各地を共に巡ったりしたから、どこかから病を貰ってしまったのではないだろうか。


 ――私が一緒に居たいなどと願わなければ、レティは、今も幸せに生きて……


 「ラート、私は今幸せだよ」


 レティシアの横たわる傍で俯いていたラートリートに、迷いのない声が降り注ぐ。


 「私の為に頑張ってくれる人達がいて、涙を流してくれる人達がいて。そして何より、こんなにも私を愛してくれるあなたがいる。私今、とっても、とーっても!幸せ。これは、覆りようのない事実」


 動かせない足を引き摺って起き上がったレティシアは、ラートリートの新緑の瞳を見据えた。


 「あなたにだって、覆せない。誰にも、覆させない。だからお願い、前を向いて。あなたのおかげで幸せな私を見て。そんなに悲しい顔、しないで?」


 伝っていた2人分の雫が、同時にぽたりと落ちて。曇天の夜空から覗く三日月の光が、柔らかにその煌めきを包み込んだ。




 研究開始から、1年と半年。レティシアはまだ生きていた。とは言っても、もう手も足も動かず、言葉さえうまく発せなくなっていた。


 「予定では今日、海の向こうから医者が来る。やっと、やっとだ。どれほどこの日を心待ちにしたことか」


 (それは、素敵)


 「こんなに待たせてすまない。これできっと、きっと君を救えるから」


 レティシアが微かに動かした唇の動きを読み取って、ラートリートは言葉を交わす。


 海の向こうへ渡るため開発を進めていた大船を、小型船として完成させた。そして出航させた船が、予定では今日医者を乗せて帰ってくる。


 とは言っても、予定の期間は長い。早ければ2週間前には帰ってきているはずなのだ。しかし遅ければ更に1ヶ月は待つ必要があるだろう。予定の期間中、ラートリートはずっとレティシアに語りかけていた。もうすぐ、もうすぐだと。だから…


 「もう少し、耐えてくれ」


 (もちろん)


 この1年ですっかりこの国の医術の権威となった異郷の医者は、今動かすことができる部位があること、そもそも生きていることが奇跡だと言った。この病は例え進行が遅れていても、ふとした瞬間に恐ろしいほどに進行することもある不規則なもので、延命はできても1ヶ月が関の山。半年というその期間は、過去に前例がないという。


 「せめてもっと、進行が遅ければ…」


 実は研究の中で、この病を初期の段階で治す薬は完成していた。実際にその薬で助かった人々も大勢いる。そして今は、中期症状である末端機能停止の研究が進められていた。しかしレティシアはもう末期。いつ心臓が止まってもおかしくない段階まで来ていた。


 「商会長っ!船が到着しました!」


 「本当か!?レティ、すぐ戻るからな」


 勢いよくドアが開いて、商会員が部屋に飛び込み待ち望んでいた存在の来訪を告げる。ラートリートはレティシアの金色の髪に口付けをすると、急いでその医者の元へと向かった。




 「この病なら、特効薬が存在していますよ」


 海を渡り、はるばる僻地までやって来た老齢の医者はそう言った。


 「ほ、本当か!?」


 「はい、我が大陸では珍しくない病ですのでね。初期だろうと、末期だろうと、この薬でたちまち回復します」


 医者は立てかけてあった革の鞄から、瓶に入った薄緑色の液体を取り出した。


 「おお、これが!」


 「ただ1つ注意点がありまして。この薬はナタの実を主成分としているため、多くの薬草と相性が非常に悪い。特にチナラ草と一緒に服用してしまうと、それだけで劇薬となってしまうのです」  


 「…チナラ草、とは?」


 「この黄色い草ですよ。こちらではツタラと呼ぶらしいですね。そちらの医者に聞いた所、あなたの奥様が服用している薬はチナラ草が主成分とのこと。そしてチナラ草が身体に留まる期間は、通常の薬草より非常に長い。…もう、私の言いたいことは分かりましたかね?」


 眩しすぎる希望から、真っ暗な絶望へ。天よりも高い場所から、地よりも低い場所へ叩き落とされた気分だった。


 「これから、私もこの薬の開発に加わりましょう。ナタの実を使わない薬、もしくはナタの実とチナラ草との相性を解消する薬を開発しましょう。ただ、それもいつまでかかるものか…」


 もう、医者の声などラートリートの耳には入ってこない。


 レティシアに必要だったのは、今すぐに治る薬である。半年もの間延命を続ける彼女の命は、風前の灯火と言える程に弱々しい。


 新しい医者が開発に加わる?新しい薬を開発する?それでは、遅いのだ。遅すぎるのだ。それでは、彼女はもう…。


 「ハ、ハハッ」


 望みもしない、声が漏れる。誰も、何も言えなかった。その笑い声は、どんな叫びよりも悲痛な色を滲ませて、質素な部屋に響いていた。




 「…レティ」


 もうほとんど動かず、微かに息が漏れ出るだけのその身体に身を寄せる。その心音を感じながら、ラートリートは息を吐く。


 レティシアが余命1年を宣告されてから、2年。青い満月の夜だった。


 「今夜が、峠みたいだ」


 段々と弱くなる心音に心を痛めながら、それでもまだ生きていることに安堵する。そんな日々にも、限界が来た。


 「何を話そうかな」


 最早耳が聞こえているかも分からない。そんな彼女に彼は語りかける。話したいことは存外多いのに、きちんと纏まらないから時間は過ぎるばかり。そんな自分が歯痒いのに、彼女の笑顔がよぎるといつも、彼の言葉は途切れてしまう。


 「愛してる」


 彼はもう、途切れるたびに溢れるその言葉を何度彼女に伝えたか分からなかった。目の前の彼女だけを見つめていたいのに、花のように笑っていた頃の彼女がその邪魔をした。


 これが最後の夜ならば、朝なんて永遠に来なければ良い。


 君に明日がないのなら、ずっと今日のままでいよう。


 君のいない未来なんて、僕には必要ないのに。


 「せめて、生きていてくれ…」


 もう二度と起き上がれなくても。二度と言葉を交わせなくても。二度と笑顔を見られなくてもいい。ここにいて、息をして。それだけで良いのに。

 

 彼がどれだけそんな事を願っても、時は誰にだって平等で。星が巡って太陽が昇ることを、止められる者など居なかった。  


 静かに。未だ夜の延長線上にいるかのように。ゆっくりと呼吸が止まった。何も変わらないかのように見えるその胸にどれだけ手を当てても、返ってくる音はない。


 酷く美しい朝焼けの空が、窓から見えた。その色と似て非なる、彼が心から愛する桃色は、もうどこにも存在しなかった。




 「これは…遺書?」


 レティシアの死から1年。ラートリートは商会長の座を正式に辞し、故郷で暮らしていた。あれから、中期症状まではチナラ草のみでの薬が完成。ラートリートの莫大な寄付を源に、今やあの病についての研究は国家規模のものとなっていた。


 商会を去り、その資産のほとんどを寄付したラートリートに残ったのは、彼女と暮らしたこの家と、質素であれば生きていける程度の金だけ。彼の心は空っぽで、息をする理由も分からなくて、それでも彼は生きていた。レティシアが歩めなかった未来を、孤独に瞳に焼き付けていた。


 ある日、書斎の整理をしていた時。その紙は唐突に、ラートリートの元に落ちてきた。


 「レティシアの、字だ」


 久しぶりに見たその達筆に、鼓動が高鳴る。どうしてもっと早く見つけられなかったのかと、ラートリートは自分を責めた。そして丁寧に桃色の包装を開くと、座ろうともせずその愛おしい文字を追い始めた。



――――――――――――――

 

 愛するラートリートへ


 この手紙をあなたが読んでいるってことは、私はあの病で死んじゃったのね。


 ごめんね、泣き虫で寂しがり屋なあなたを1人にしてしまって。余計なお世話だって笑う?それとも怒る?いや、そんな事も考えずに泣きっ放しかな。どれだったとしても、あなたらしいねって私は笑うけど。


 だめだね、こんなことばっかり書いてたらいつまでも手紙を書き続けられちゃうから、早速本題に入ろうと思います。


 ラートは、あの日のことを覚えてる?この島が1つの国になった、フィーア様が天から舞い降りた日のこと。 


 あの日は本当によく晴れてたよね。そんな中、白く輝くフィーア様の美しさは凄まじくて。でも私、あんな時でも横にいるあなたを見ていたんだよ?笑っちゃうよね。自分も見惚れてたくせに、あなたがあんまりもキラキラした目でフィーア様を見つめるから、実は少しフィーア様に嫉妬してたんだ。と、また話が逸れちゃったね。本当に私が言いたいのは、その後のこと。


 『我が敬虔なる使徒へ永遠なる生を与えよう。我は魂と愛の神。そなたらの魂は巡り、再びこの地へ還るだろう』


 国を統一したフィーア様が、最後に言った言葉。永遠の生は大げさだよね、とか。還るってなんだろうね、とか。いろいろ話したけど、遂に私はその答えを知った。


 病の診断をされて、故郷の村に移り住んだちょうどその日。私の夢にフィーア様が出てきたの。そして私に言ったんだ。


 『レティシアよ、敬虔なる我が使徒よ。そなたは死してもいずれこの地へ還るだろう。そなたの夫、ラートリートはこの地に必要な者。そなたが逝けば、彼の力は衰える。故にそなたの命絶えた時、彼に巡りを伝え給え』

 

 …つまり、私は生まれ変わるからそんなに落ち込まないで。ってことだと思う。


 と、いうわけでラート。意気消沈でも何とか生きているそこのあなた!私とあなたがまた笑い合えるように、この世界をもっとより良くしてくださいな。


 来世でも、来来世でも、来来来世でも、あなたと私がまた出会えるまで。何度でも巡ろう。そしてまた出逢って、恋をしよう。


 だからあなたは、今を生きて。今を一生懸命に生きて。それで積もりに積もった思い出話を、私に話して。何時間でも、何日でも、何年だろうと聞くから。そして話し終わったら、私の話もするね。


 いつまた会えるか分からない。それでも良いの。それくらい、あなたを愛しているの。ラート、あなたも同じくらい私を愛してくれているかな?もし愛してくれているのなら、巡ろう。いつか会えるその日まで、前を向いて進もう。お互いを見失わないように、変わらぬ笑顔を見せられるように。


 けれどもしそこまで愛していないというのなら、私のことは忘れてください。私の1番の幸せは、あなたが幸せであることだから。


 生きているうちに伝えられなくてごめんね。フィーア様との約束を、破ることはできないの。けれどこの手紙を挟む本は私とあなたの思い出の品だから、きっといつか見つけてくれると信じています。


 私の人生の奇跡は、幸福の大半は、あなたがくれたもの。この事を忘れないで生きて。


 心の底から愛してる。


 あなたのことが大好きなレティシアより

 

――――――――――――――

 


 「レティ、シア」


 手紙の最後についていた僅かなシミ。それが涙の跡であることを、自らの涙が手紙に落ちたことで知る。ラートリートは泣いていた。切なさと懐かしさと喜びが混じった涙をこれ以上手紙に落とさぬよう、顔を覆って泣いていた。


 そして手紙をそっと机に置くと、今度は堪えず泣き出した。赤子のように抑えが効かない。やっぱり泣き虫だねと笑う、レティシアの姿が見えた気がして。ますます嗚咽は大きくなる。


 「ああ、ああ!何度でも巡ろう。どんなことだってしよう。もう1度君に出逢える、それ以外の一体何を望むというのか!」


 一通り泣いて泣いて泣いて、我慢の限界に来た腹がたまらず音を上げた時、ラートリートは立ち上がった。


 「商会長の座はすでに退いた。だが、また下っ端から務めてみるのも悪くない!」


 腹が減っては戦はできぬ。久しぶりに街に出て、ステーキでも食べようか。何せこの人生は短い。悔いなきように生きていかなければ!ラートリートは拳を掲げ、手ぶらで家を飛び出した。




 「なあ、聞いたか?前世の記憶を持ったやつがいるんだって」


 副商会長になったラートリートの耳にそんな噂が舞い込んできたのは、復職してから5年が経った頃だった。


 「その話、詳しく聞かせてもらおうか」


 噂をしていた男が言うには、10歳になった知り合いの息子が急におかしなことを言い出したと言う。


 「『思い出したわ。私はビーナ!前の人生でビーナだったの!』って、急に騒ぎ出したらしくて。はじめは知り合いも冗談だと思っていたらしいんですけど、どうも冗談に思えない。そこで彼が言うビーナの故郷に行ってみたら、本当にビーナという女性が居たと」


 「ハ、ハハハ、ハハハッ!よくぞ伝えてくれた!その少年に会ってみたい!」

 

 ラートリートは歓喜に震えた。片時も疑ったことはなかったものの、実際は夢物語とでも言うべきレティシアの遺書。その信憑性が今、格段に高まったのだから。



 

 「あなた、誰?」


 短く切りそろえられた橙色の髪に、男の子らしい顔つき。それらと似つかわしくない口調で話す少年は、急に自分と面会を求めてきたらしい長身の男を怪訝な目で睨みつけた。


 「私はラートリート。君に前世があるというのは本当かな?」


 そんな変わった少年にも気兼ねせず、ラートリートは出会った直後、いきなり核心を切り出した。


 「本当よ!ビーナだった頃の知り合いと会って話したら、みんな本人だって認めてくれたんだからね!」


 「…本当に、本当だね?」


 「ええ!フィーア様に誓って本当のことしか言っていないわ」


 少年がそう言った瞬間、ラートリートは思い切り彼を抱きしめた。


 「ちょ、何!?離しなさいよおっさん!」


 「す、すまない…。感極まってしまった」


 ラートリートは我に返って即座に少年から離れる。


 「感極まるねえ。ま、来世があるなんて話、たとえ眉唾物でも喜ばずにはいられないわよね」


 「いや、違うんだ。実は私の恋人の遺書に、生まれ変わりの話が記されていてね」


 「え、何それ。私は実際に生まれ変わるまでそんなこと知らなかったんだけど?」


 「フィーア様のお告げだそうだ。私はその話を疑ったことなんて1度もない。ないのだが…実際にこう存在しているのを見てしまうと、こう…感情が、溢れてきてしまって」


 「ふーん…。ま、精々待ち続けなさいよ。でも私は今世を大切に生きるから、前世の恋人のことは忘れるわ」


 ラートリートは言葉を詰まらせる。なるほど、そのような価値観があるのかと。だとしたら自分は、生まれ変わったレティシアを一刻も早く見つけて抱き締めねばならないな、と。


 「君は前世で女性だったんだろう?今世ではどちらと恋愛をするんだ?」


 「フッフッフ、実は私、もう婚約者がいるのよ!可愛い女の子なの。私、この人生でもう10年も生きたんだから、たとえ前世の記憶があったって、美女ビーナじゃなくて美少年ジルグとして生きるわ。そう決めたから、この口調は今日でおしまい。今日はあんたが来るから、前世のビーナでお出迎えしたんだ。明日からは元のジルグに戻るよ」


 女性らしい口調から、少年らしい口調へ。それだけで、なんの違和感もない少年に戻ったジルグ。


 前世の記憶を持ちながらも、今世を軸にしてしまうのは寂しくないのか?前世で愛した人を手放し、今世の恋人と幸せになれるのか?そんな質問が野暮に思えるほど、ジルグの栗色の瞳には確固たる覚悟が宿っていた。


 「なるほど、君はそう生きると決めたのだな。ただね、ジルグに戻るのはもう少しだけ待ってほしい」


 「どうして?」


 ラートリートはニヤリと笑って言った。


 「国王陛下に謁見に行くからさ」




 この日、フィーア神国の歴史は大きな転換点を迎える。レティシアの遺書と、実際に生まれ変わった少年。それによって信憑性を得たフィーア神の奇跡。この国のシステムの根本が、大きく変わったのである。

 

 そしてジルグは、原初の転生者として歴史に名を残すことになる。もちろん、レティシアの遺書も一緒に。




 「もう、限界か」


 ベッドに横たわり、随分と痩せてしまった自分の手を見つめて、ラートリートはため息を吐く。自らの寿命がもうすぐそこまで迫っていることを、ひしひしと感じながら。


 「ラートリート様っ!あなたが諦めたらそこで何もかも終わりですからね!まだ、まだいけますから!」


 そんなラートリートの言葉に、涙を流しながら過剰に反応する男が居た。


 「もうお前は、私が居なくても大丈夫だろうに」


 「無理です!無理無理!」


 その男は現ラティ商会商会長、クリフ。ラートリートは孤児だった彼を拾い、1から商会の仕事を叩き込んだ。そしてそのためか、立派に商会を負える商人になった今でも彼はラートリートにベッタリなのである。


 「我々がフィーア神国民である限り、いずれはまた出会えるものだ。だからそんなに泣くんじゃない」


 「でも!そうだとして、ラートリート様は今世にしかいないじゃないですか!生まれ変わっても、それはもう、前世がラートリート様なだけの別人ですよ…」


 ラートリートは驚いた。いつも前向きに自分を慕うクリフがそんな事を考えているなんて、夢にも思っていなかったから。


 「いや、私はいつまでもラートリートだ。またレティシアに出逢えるまで」


 「…そう言うとは思ってましたけど」


 クリフはレティシアに会ったことがない。けれどラートリートがあまりにもしつこく惚気話を聞かせ続けるから、もう嫌と言うほどレティシアの事をよく知っていた。


 「僕もいつか、会ってみたいです」


 「惚れるなよ?」


 「僕にすらそんな事を言うんですか…?」


 こうやって、いつまでも、馬鹿馬鹿しい言い合いを続けたい。そんなクリフの思いとは裏腹に、ラートリートは目を瞑る。


 「…元気で。また、会おう」


 「やめて、下さいよ。そんな、遺言みたいな。……………………大好きでした、師匠」




 この国には、英雄がいた。国の礎となる大商会を築き上げ、難病の薬開発に貢献し、生まれ変わりの存在を明かす一助を担った英雄が。そんな後世まで名が残る偉大な男はその生涯を1人の女性への愛に捧げたのだった。

 



 □ □ □



 長老の2度目の生は、伯爵令嬢であった。



 □ □ □



 「私は、ラートリートだ」


 10歳の誕生日。目覚めた瞬間、ルシルは唐突にその事を理解した。

 

 膨大な前世の記憶。胸を焼くような喪失と何よりも大切な約束。その全てが鮮烈に、ルシルの頭の中に蘇った。


 「レティシアを、探さなければ」


 それは信念。ラートリートの掲げた願い。これを達することこそが、自分が生まれてきた意味。


 ――私は、ルシルではない。ラートリート以外の、何者でもない。


 ルシルはその時、本気でそう考えていた。

 

 しかし。


 食堂へ行き、前世を告げた彼女に降り注いだその言葉。


 「あなたを、愛してるわ」


 母の手が、優しく頬に触れる。その感触がやけに温かい。


 「お前がどうあろうと、私たちの大切な娘だということに変わりはない」


 父の手が、不器用に頭を撫でる。その心地からどうにも離れ難い。


 「……娘」


 その言葉が、胸の奥に引っかかる。


 違う、私はラートリートだ。――そんなことを言いかけて、止まる。


 目の前の2人は、ルシルを愛している。そしてこの胸に湧いてくる温かさには、覚えがある。その温もりは…愛は、紛れもなく本物だった。


 何も言えぬまま戻ってきた、暗くなりゆく独りの部屋で、ルシルは自問する。


 「私は、誰?」


 ラートリートなのか、ルシルなのか。


 どちらかを選べば、どちらかを裏切る気がして。


 「…分から、ない」


 その生に、迷いが生まれた。レティシアを愛し抜いたラートリートという前世。しかしルシルとして生きたこの10年は、新たな愛が生まれるには十分過ぎる時間で。


 ルシルは、静かに更けていく夜に身を投じることしかできなかった。


   


 「ルシルとして、生きてくれるか?」


 翌朝、向かい合った父の問いに、ルシルは言葉を詰まらせる。昨夜出なかった問いへの答えが、今求められていた。


 そんな時、ふと脳裏をよぎった言葉。


 ――『今を生きて』


 遺されたその言葉が、ストンと胸に落ちてきた。


 「…そうだ」


 ルシルは、小さく息を吐く。


 「私は、ラートリートであり――ルシルでもあるんだ」


 なぜ、選ぼうとしたのだろう。どちらかを捨てる必要など、最初からどこにもありはしなかったのに。


 「申し訳ありません、父上」


 顔を上げる。その目は、これまでにない強い覚悟を宿している。


 「私は、ラートリート。もう1度レティシアに逢うために、この人生を生きます」


 しかしそれは決して、ルシルという今世の否定ではない。


 「ですが…同時に、私はルシルです。これまでも、そしてこれからも。ルシルとしての生を、無かったことにはしない」 


 その声に、もう迷いは残っていなかった。




 「私は、ラートリートだ」


 そう名乗る少女が居た。


 「レティシアを、探している」


 前世を盲信するルシルのその姿は、一途であり、純粋であり…どうしようもなく輝いていた。その瞳に宿る意志は、かつて同じ事を言った男と何1つ変わらない。深緑の瞳が紺碧となっても、目指しているのはあの優しい瞳だけ。それはラートリートの願いであると同時に、ルシルの祈りでもあるのだから。


 けれどこの世で、その魂がレティシアと出逢うことはなかった。



 □ □ □



 長老の3度目の生は、奴隷だった。



 □ □ □



 「……レティシア」


 冷たい床の上で目を覚ました瞬間、ジークは全てを思い出した。


 全てを賭して愛した人と、世界一大切な約束のことを。


 「今度こそ、必ず見つけ出す」


 その緋色の瞳に、迷いはなかった。


 「ほら、起きな!」


 牢の外から飛んできた腐った水が、ジークの顔を打つ。


 痩せ細った子供たち、鳴り響く怒号。陽の光が当たらない、カビだらけの場所。そんな奴隷市場に居る、男の奴隷。はっきり言って、最悪の環境だろう。…それでも。


 「ここから出て、探しに行くから」


 2度の前世の記憶がある自分なら不可能ではない。ジークはそう確信していた。けれど現実は、ジークが思っていたよりもずっと厳しかった。


 「おい、何してる」


 新月の夜、闇に紛れて牢屋を抜け出した。しかし塀を越える寸前、目つきの鋭い男に捕まってしまった。


 振りほどこうとしても、身体が言うことを聞かない。酷く痩せ細った子供の身体は、あまりにも無力だった。

 



 「なぜっ!」 


 折檻され、ますますボロボロになり動かなくなった体で、ジークは天井を睨む。


 頭は回る。方法も分かる。それなのに。


 「何も、できない」


 力も、金も、立場もない。自分は自分が思うよりもずっと。何もできない、ただの子供だったのだ。ジークは己の萎んだ唇を、強く強く噛み締めた。


 それから、何度も試した。何度も失敗した。そしてその度に、現実を思い知らされた。今ではジークは、常に地下牢に囚われている。もう、いつ殺処分されてもおかしくはない。


 「……どうしてだ」


 恵まれた、前世の記憶がある。努力もしている。それでも何一つ、うまくいかない。


 ジークは嫌でも理解した。世界には、どうしようもない差があるのだと。生まれた場所だけで、すべてが決まることもあるのだと。…でも、それでも。


 「絶対、ここから逃げ出してやる」


 ジークは笑う。歪で、必死な笑みを全面に貼り付けて笑う。 


 「君を、探すために」


 どんなに困難な道だろうと。それでも探し続けると、決めたのだから。




 「人は誰でも、逢いたい人を探す権利を持つはずだ」


 奴隷制度を、変えようとした男がいた。


 「魂の巡るこの世で、命に優劣などあるものか!」


 その男は奴隷の身でありながら、必死でその制度に抗い続けた。その強い思いが周りを動かし、男を牢から解き放った。その行いは、尊い正義から行われたものに見えるだろう。しかし彼の胸にあったのは、愛しい女への想いだけ。


 けれどこの生でも、その魂がレティシアに出逢うことはなかった。



 □ □ □



 長老の4度目の人生は、パン屋だった。



 □ □ □



 「リィツ、どうかしたの?」


 「ミラ!…や、何でもない」


 幼馴染に心配されて、曖昧に返事を返す蜂蜜色の瞳の男の子。彼はリィツァルト。しがないパン屋の倅である。今日10歳の誕生日を迎えた彼は今、猛烈に悩んでいた。


 「あやしい返事!」


 「いや、ほんとに、大丈夫だから…」


 その悩み事とはズバリ、前世のことである。10歳の誕生日。それは前世を思い出す日。例に漏れずリィツァルトも、自分の前世を思い出した、のだが………。


 「好きな人が、2人。えらべないよ…」


 「何の話?」


 よりにもよって、あのラートリートだったのだ。いつまでも最愛の人を探し続けているという、あのとんでもない偉人だったのだ。それなのに今、リィツァルトには好きな人がいた。


 ミラリエ。金色の髪を高く結んだ、桃色の瞳の女の子。生まれた時からずっと一緒の、明るくてかわいい、幼馴染の女の子。


 「パン、食べよ!おばさんに貰ってきて!クロワッサン!」


 「…わかった」


 元気のない自分を励ましてくれる、優しいミラが大好きだ。


 「はい、焼きたてだって」


 「ありがとう!いつ見ても美味しそう〜」


 口いっぱいにパンを頬張って笑う、その姿をいつまでも隣で見ていたい。


 「…私の話、ちゃんと聞いてる?」


 「うん、聞いてるよ」


 少しムッとした顔さえかわいいんだから、全く困ってしまう。


 「私達さ、これからも。ずっと一緒にいれたらいいね!」


 「…僕、も。僕もそう思う、けど」


 ずっとずっと、君と笑い合えたらどれだけいいか。


 「ねぇ!私の顔見て!ほんとになやんでない!?」


 「…ミラ」


 その桃色の瞳に、ズキンと胸が痛んだ。


 「僕、ミラのことが大好き」


 「え!?」


 ここが、ミラの隣が。自分にとって1番大切な場所だ。ミラリエはリィツァルトの宝物。世界一大切な女の子。


 けど。だけど…。


 ミラへの想いは、何よりも強いはずだった。大事にすると誓った、大好きな女の子だった。けれど今リィツァルトの胸を大きく占めているのは、ついさっき知ったばかりの綺麗な女性の笑顔。


 「でも、それだけじゃダメなんだ」


 ミラを幸せに出来るのは、何よりもミラのことを大切にできる人。リィツァルトじゃ、ない。世界一が2つになってしまった、そんなリィツァルトじゃ、だめなのだ。


 「僕じゃミラを、幸せにできない…」


 ミラリエに顔を挟まれたリィツァルトの顔が、紅潮していく。甘い蜂蜜の瞳が潤んで揺れる。ボタボタと溢れる涙を、ミラリエは何も言わずに拭った。


 「…リィは、私を振るの?」


 ボソリと、ミラリエが言う。前世を思い出さなければ、両想いだったんだ!なんて手放しで喜べたのに。リィツァルトは、どうしようもない胸の痛みがひたすらに強くなっていくのを感じた。


 「ごめん、ね」


 「…そっか」  


 それからしばらく、2人は黙っていた。けれど少し経って、パンのよい香りがしてきた時、ミラリエはすくっと立ち上がった。


 「リィは絶対、後悔するんだからね!」


 ミラリエは涙を拭いたハンカチを、思い切りリィツァルトに投げつけた。


 「ふげっ」


 「絶対絶対、後悔するから!!!」


 それから、ミラリエがリィツァルトの事をリィと呼ぶことはなく。2人は次第に離れて行った。




 「好きな人がいるんだ」


 そう言って笑う、パン屋がいた。


 「けどね、同じくらい。大切な人もいたんだよ」


 パン屋は国中を巡り、パンを売り続けた。そのパンはたちまち評判となり、彼は大忙し。けれどそんな彼にも、ふと手を止めてしまう瞬間があった。焼きたてのクロワッサンの香りがし始める、その時だけは、どうしても。


 けれどこの生でも、その魂がレティシアに出逢うことはなかった。



 □ □ □



 それからも、その魂は巡った。


 ある生では、一騎当千の騎士になった。


 ――己の金髪を血に染める度、どうしてか少し泣きたくなった。


 ある生では、姫に仕えるメイドになった。


 ――主人の笑顔を無意識に、別の笑顔と重ねていた。


 ある生では、国中を巡る旅人になった。


 ――全てを探した筈なのに、どこにも君は居なかった。


 ある生では、全てを治す医者になった。


 ――誰かの命を救う度、溢れた命の重さを知った。


 ある生では、民を救う王子になった。


 ――本当に救いたい人は、どうやっても救えなかったのに。


 富を得たこともあれば、全てを失ったこともある。とにかく、幾多の生を巡った。


 「…違う、か」


 どの人生でも。


 「レティシア」


 その名を呼び続けた。


 「…どこに、いるんだ?」


 彼女は――現れなかった。

 


 □ □ □

 

 

 長老と呼ばれるその男は、青い空を見上げた。どこかあの絶望の日を思い出させるような、澄み渡った空を。


 「もう、良いか」


 長老は――ラートリートは、レティシアとの約束だけを支えに生きてきた。1000年間ずっとずっと休みなく人生を歩んできた。けれど、1度もレティシアには逢えなかった。


 「レティ」


 その名前を、もう1度呼びたい。


 レティシアとしての容姿は関係ないと分かっていても、街中で似た金髪を見かける度に思わず振り返っていた。桃色の瞳に、どうしようもなく惹かれていた。


 どれほど探したか。もう細かい記憶は思い出せない。それだけの時を過ごしたのだ。それだけの人生を巡ったのだ。だが、それでも、レティシアは居なかったのだ。


 「今日は実に、いい天気だ」


 ある高い崖に、長老は出向いた。


 フィーア神教は厳格な教義を強いているわけではない。しかし誰かを自分の意志で害することは許されていない。そう、たとえ自分であっても。


 ラートリートは今、自ら命を絶とうとしていた。


 「約束、守りたかったなぁ」


 レティシアが見つからない。だからもう終わりにする。一見投げやりなこの動機は、ラートリートが何よりレティシアを思うからこそ生まれたものである。


 ラートリートは、何よりもレティシアの幸せを願っている。だからこそ待ち続け、いつまでも来ない待ち人に絶望した。


 そして遂には、1000年が経った。ここでふと、ラートリートは思う。次に自分が転生した時、1000年が経っていたらどうする?この後の1000年、もしレティシアが私と同じ思いをすることになったら、どうする?


 それこそ、耐えられない。耐えられるわけがない。自分が絶望した時間を、どうして愛する人に味わわせたいと思うだろう。


 それならいっそ、終わりを謳うこの崖から落ちれば。希望なんかなくなれば。彼女が私のように苦しむことは、なくなるかもしれない。ラートリートはそう考えたのだ。


 ラートリートは死んだ。もしレティシアが生まれたらそう伝えてほしいと、国王に頼んだ。歴史書にも載せた。あとは、1歩を踏み出すだけ。


 足下を覗き込むと、激しく波打つ海が見える。太陽の光を受け輝くそれは、思っていたよりもずっと美しい。


 「これじゃあ恐くない」


 拍子抜けするその光景に、体の震えも止まる。もうその歩みを、止めるものはない。


 「なかなか、良い人生だったな」


 そうして踏み出そうとした長老の足が、覚えのある匂いに思わず向きを変えた。


 「スズランだ」


 ラートリートの、好きな花。あなたが好きだから私も好きだと君は笑ったけれど、私がこの花を愛した理由は君だった。


 幼い君が、この花を見て綺麗ねと微笑んだ時、私はこの花じゃなくて君を見ていた。だからつい焦って、好きな花だなんて口走った。勿論今では大好きだけど、最初のきっかけはそんな事だったんだ。


 気が付いたらそんな事ばかり考えている自分を、ラートリートは笑う。

  

 「全然覚悟、決まってないじゃないか…」


 本当に、私は死ぬべきなんだろうか。


 彼女の好きな花がある。彼女の好きな場所がある。それなのに、彼女が愛してやまない私が居なくなって良いのか?ラートリートの気持ちが揺らいだ、ちょうどその時。


 「良いわけ、ないでしょ!」


 1人の少女の、声がした。


 聞いたことなんてない筈のその音が、覚えのある響きを含んでいるような気がした。


 死ぬ前に見る、幻だろう。だって、だってこんな都合のいい話、あるわけないじゃないか。でも…もし本当に、君だとしたら?


 「ラート!」

 

 振り向いた先にいたのは、緑の髪を靡かせてこちらに走ってくる、真っ赤な瞳の少女。惹かれていた色とは程遠いその瞳は、ずっとずっと求めてやまなかった輝きを宿している。


 「レ、ティ」


 そのことに気がついた時、体はすでに走り出していた。1000年待ったのだ。今走らないで、一体いつ走るというのだろうか。長老の中のラートリートが、彼女を抱き締めろと叫んでいる。その温もりを、欲している。


 お互いが、全速力でぶつかった。痛い、なんて言う余裕はない。2人はお互いの存在を確かめるように、強く抱き締め合っていた。


 「レティ、シア?レティ?…本当に?」


 「ごめんね、ついさっき目覚めたばかりで。正直、まだここが現実だって理解しきれてないの。…すごく長く、待たせちゃったみたいだね」


 「ほんと、だよ。1000年ずっと、君だけを待ってたんだから」


 「想像もつかないや。思い出話、たくさんあるんじゃない?」


 「君がっ、遅いがらっ!所々忘れぢゃったよ…ゔぅっ」


 「…泣き虫なのは、変わらないわねぇ」


 まるで1000年前に戻ったかのような会話。何としても得たかったそれが、当然のようにそこにある。その幸せが、想像を遥かに超える重さを持ってラートリートを包んでいた。


 「ほら、泣かないで。お話聞かせて?」


 「…グスッ。泣かせてるのは、君なのに」


 思えばレティシアはいつだって、泣き止むまでずっと自分を抱き締めてくれた。だからラートリートが存分に泣けるのは、レティシアの胸の中でだけだった。


 「よく見たらあなた、お爺ちゃんね」


 「…君は、幼いな」


 やっとラートリートが泣き止んで。向かい合った2人はお互いの今世の姿を改めて見つめる。そこにいるのはもう、ラートリートとレティシアではない。


 年老いた紫紺の瞳の男と、あどけない真紅の瞳の少女は、同時に口を開く。


 「君の…」

 「あなたの…」


 「「名前は?」」



 ■ ■ ■



 「愛してる」


 それが口癖の、夫がいた。


 「私もよ」


 それに何度でも返事をする、妻がいた。


 村で評判のその夫婦は、20年の結婚生活をそれは幸せに過ごしたという。そして――


 「また、逢おう」


 「ええ、もちろん」


 最後に交わしたその約束。今度は、迷うことがないように。結んだ小指は何よりも堅い。


 1000年の恋は、巡り続ける。

 

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1000年の恋 三毛栗 @Mike-38

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