第21話 次元の段差
地下道を、僕たちはただ黙々と歩き続けた。
通路はどこまでも単調で、右に折れ、左に折れ、また直進するたびに、自分たちがこの迷宮のどの深度にいるのかが、だんだんと分からなくなっていった。フタバの革のショートブーツが床を叩く足音だけが、コンクリートの空間に規則正しく響いていた。
「……フタバさん」
僕は、彼女の背中に向かって、すくい取るように声をかけた。
「なに」
彼女は振り返らず、歩みを緩めることもなく答えた。
「さっきのこと……店で言っていたことの続きを、聞かせてほしい。苦しいって言っていたことの意味を、僕にもう少しだけ、教えてくれませんか」
フタバの歩幅が、ほんの一瞬だけ、躊躇うように短くなった。けれど、彼女のブーツが立てる音は止まらなかった。
「今夜は……今夜はもういいです。もう、たくさん話したから。ひどく、疲れてしまったの」
「でも、僕は」
「今夜はいいです、ほんとうに」
フードの奥から漏れたその声は、まるでコンクリートの壁の隙間にしみ込んで、そのまま消えていってしまうような、奇妙な薄さを孕んでいた。
彼女が再び、角を曲がった。今度は、左側にある、一段と照明の暗い通路だった。
進む先の床が、僕の目には、奥に向かって不自然に傾いているように見えた。蛍光灯の数が極端に減り、闇の霧が通路の奥からじわじわと這い出してきているような、そんな錯覚を覚えた。
前を歩くフタバの後ろ姿が、その闇の密度に、少しずつ侵食されていく。
彼女の長い黒髪が、天井の僅かな光を跳ね返していたあの美しい艶が、そこでは急激に失われ、周囲のコンクリートの灰色と同化していった。
胸の奥の不穏な予感が、一気に破裂した。僕は早足になった。
「ちょっと待って、フタバさん!」
僕は声を張り上げ、彼女のコートの袖を掴もうと、手を伸ばした。
しかし、返事はなかった。
フタバの後ろ姿が、角を曲がった瞬間に、通路の暗さの中に完全に溶けて消えた。彼女のウールコートの色彩も、床のタイルの色も、すべてが乱雑に混ざり合い、境界線を失ってしまった。
カツン、という最後の足音の残響さえも、何の前触れもなく、不自然に途絶えた。
僕は狂ったように走った。
彼女が消えた角を鋭角に曲がり、その先にある通路を、右に折れ、左に折れ、また直進した。壁に何度も肩をぶつけながら、暗闇の奥へと視線を凝らした。
けれど、どこを走っても、彼女の姿は二度と見つからなかった。
「フタバ!」
僕は叫んだ。僕の声は、冷え切ったコンクリートの壁に衝突し、何の意味も持たない虚しい残響となって、僕の元へと跳ね返ってくるだけだった。
「フタバ! どこにいるんだ!」
もう一度呼んだ。けれど、聞こえてくるのは、遙か遠くのダクトで換気扇が低く唸り続けている、あの都市の無機質な呼吸のノイズだけだった。天井の蛍光灯が、数秒に一度、僕の動転を嘲笑うかのように微かにちらついた。
彼女は、いなかった。
世界のどこを探しても、もう、彼女の身体は存在していなかった。
とても単純に言って、彼女は忽然と、その輪郭を消し去ってしまった。
そこには、文字通りの次元の段差すら存在しているみたいだった。
あの地下道の、どこかある特定の一点に、人間の肉眼では決して捉えることのできない鋭利な世界の裂け目があって、彼女はその段差をひとたび踏み越えることで、僕たちの生きるこの収縮しきった三次元の現実から、まったく別の、名前もないどこかへと滑り落ちていってしまったのではないか。
そんな荒唐無稽で、非科学的な空想を、しかし僕はその時、半ば本気で、祈るような切実さで信じたくなっていた。
なぜなら、そうでもしなければ、僕の目の前で起きたあのあまりにも完璧で、あまりにも残酷な消失を説明する言葉を、僕は世界中のどこからも見つけ出すことができなかったからだ。
一時間もの間、僕は狂ったようにその地下迷宮を歩き回った。
駅の構内に繋がっている通路のすべて、改札の外側の暗がりも、内側の無人のコンコースも、地下のショッピング区画の閉ざされたシャッターの前も、すべてを浚うようにして彼女を探した。
けれど、フタバの残光は、二度と僕の瞳に映ることはなかった。
へとへとになって地上の世界へと這い出たとき、外の空気は夜明け前の、最も深い冷気に満ちていた。
ビルとビルの隙間に覗く細い夜空を見上げると、あの赤みを帯びた
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます