第2話

休み時間、彼は毎日違う本を読んでいた。

お互いに社交的ではないから、私達が初めて会話をしたのは、隣の席になってから一ヶ月が経った頃だったと思う。あの日は朝読書の期間中で、私が本を忘れて困っていた時に、彼が声をかけてくれた。


「良かったら、どれかどうぞ」


彼の手元には三冊の本。どれも分厚くて、読むのが難しそうだった。


「いいの?…こんなに持ってきてるの凄いね」

「毎日どれを持っていこうか考えるのが楽しいんだ」


私の言葉に微笑んで返した彼の表情は、何度も思い出したくなる程、綺麗だった。

私が彼を好きになるのには、それからさほど時間はかからなかった。彼のページをめくる手を横目で見ては、胸を高鳴らせて、今日はどんな本を読んでいるのかと聞くこともあった。

彼はその度に、私に本の魅力を伝えてくる。それはとても楽しそうで、私は嬉しくて、一緒に楽しくなった。



手鏡で前髪を整えてリップを塗り直し、そして自分の名刺を用意する。軽く深呼吸をしてから席を立った。


「あの、すみません」

「はい?」


私の突然の声掛けに、彼は驚きながらも、ページの間に指を挟んで応えた。


「私、こういう者でして」


名刺を渡す。


「感情代行人…」


彼は挟んでいた指を栞に替え、丁寧に両手で受け取ってくれた。


「はい。一ノ瀬詩乃と申します。今回、古賀様へのご依頼を受けて参りました。少しだけ、お時間よろしいでしょうか」

「…はい、あ、どうぞ」

「失礼します」


彼の向かいに腰を下ろす。こうやって向かい合って座るのは、いつぶりだろう。


「あの今、人を待っていて。もしかしたらもう来てしまうかもしれないので、手短にお願いできますか?」


彼が度々時計を確認しているのは気づいていた。


「はい、かしこまりました。では始めさせて頂きます」

「お願いします」


近年で、感情代行人の仕事が話題になってきているからか、彼は私の存在を受け入れるのが早かった。この仕事の簡単な説明をすると、特に驚くこともなく頷いていた。


「では早速、受け取った手紙を読ませて頂きますね」

「あの…それって、誰からの手紙ですか?」

「あー…それが、名前は最後に伝えて欲しいとの依頼人の要望で…」

「わ、分かりました。一旦、聞きますね」

「はい、では失礼します」


私は髪を耳にかけ、喉を鳴らした。どんな言葉が来ても、自分の感情は切り離してまっすぐ彼に伝える。無感情ではあるけれど、心を込めて、依頼人の気持ちを届ける。

いざ読もうとした時、彼がいきなり声を出した。


「あ!やっぱり、佐々木さんだよね?!」


手紙を開こうとした手が固まる。久しぶりにその名前で呼ばれたからか、それとも彼が私を覚えていた事に何も感じないフリをする為か、私は奥歯を噛み締めた。


「…気づいてたの?」

「そうかなって思ったんだけど、苗字が一ノ瀬だから違うかなって」

「大学の頃両親が離婚して、苗字変わったの」

「あ〜、そうだったんだ。九年ぶり?だよね」

「うん…久しぶり」

「久しぶり」


昔みたいに話すと、あっという間に心が持っていかれそうになる。これだから気づかれたくなかったのに。


「ごめん、仕事の邪魔したよね。どうぞ続けてください」

「う、うん。そう仕事、するね」


切り替えが早い彼に、私の心が追いついてこない。サッと読んで、サッと帰れば、大丈夫。私はそう心で唱えて、ゆっくり手紙を開いた。可愛らしい字で書かれている言葉に、胸が締め付けられた。



古賀悠人くんへ。

貴方はとても誠実で、とても真っ直ぐで、

私の目には、何時の貴方も輝いて見えています。



彼は少し顔を傾けている。誰からの手紙かを考えているみたい。あの頃の私と、依頼人があまりにも同じ感情で、言葉が詰まりそうになる。



貴方は、きっと自分では気づいてないと思うけど、

私の話を聞く時、ほんの少しだけ体を傾ける所があります。あの仕草が、私は好きです。



指先に思わず力が入る。私の言葉じゃないのに、一瞬だけ、「好き」の文字を言い換えそうになった。視線を落としたまま、次の行を追う。



それから、本の話をしている時。

少しだけ早口になる所も好きです。

自分の好きなものを話している時の貴方は、本当に楽しそうで、その表情を見るのが、何よりも好きです。



高校生だったあの頃の彼の表情が頭をよぎる。私は汗で湿った手で目の前の水を一口飲んだ。彼を見ると、相手にまだ確信がつかないような感じだった。



でもひとつだけ、少しだけ困ることがあります。

貴方は、自分のことになると、驚くくらい気づかない人で、

私が何度分かりやすいアピールをしても、全く気づいていなかったよね。

まあそんな所も、貴方のいい所だけどね。



依頼人の気持ちが痛いほど分かる。鈍感すぎて嫌になるほどなのに、なんだかそれすらも可愛く見えたり、このままの関係性でも心地いいと思えたりする。



喫茶しずくで、初めて貴方と話した日のことを今でも鮮明に覚えています。

あの時はこんな風に貴方と過ごす日が増えていくなんて、思ってもいませんでした。



さっきまで首を傾げて考えていたのに、相手に確信がついたのか、彼は私の知らない顔で微笑んだ。その表情に、私の胸はどんどん締め付けられていく。



いつも同じ席で、同じ本を読んでいるから、

貴方は少しだけ有名で、

貴方よりうんと前から常連だった私も、気になって仕方がありませんでした。

あの日、私がたまたま持ってきていたギターを店内で弾いていた時、いつも本と睨めっこをしてる貴方が、

手を止めて私を見てくれたのが嬉しくて、思わず話しかけました。

それから毎回、喫茶しずくにはギターを持っていくようになって、話すきっかけが欲しかったのと、貴方の気を引きたくて色んなメロディーを弾きました。



紙をめくる音が、やけに大きく響く。彼は微笑みながらも、時間を気にしているよう。もしかしたら、この依頼人の彼女が、この後ここへ来るのではないかと、ふと頭に浮かんだ。



二人でいろんな所へ行って、本を読んだり、何でもない話をしたり。

時々、私のギターに付き合ってくれたりしたね。

特別な事は何も無かったけれど、その時間こそが、私にとっては全部特別でした。

貴方も同じ気持ちでいてくれてるのかなって、何度も思いました。

でも私には、それを確認する資格がありません。



唐突な一文に、笑みが溢れて仕方がなかった彼の表情は少しだけ固まった。そしてもう一度時計を確認した。きっともう、待ち合わせの時間は既に過ぎているのだと思う。

彼の左手の親指は、人差し指の爪を撫で始める。

なんとも懐かしい、彼の動揺している時の癖。彼の中で、この依頼人の彼女がどれほどの存在だったか、私に伝えてくる仕草。

ゆったりと流れる店内の音楽が、突如として呪いの音に聞こえ始める。手紙の先を読むのが、怖くなった。

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