第7話 不在

 四月二十七日の朝、私は第二局の通用口に立っていた。


 あの指示書を受け取って、半月。商業ギルドからの返答は、まだあの男の机の上にない。宮内省・庶務部からの観察記録も、まだ来ない。副支部長を絞めた経路を辿る、独房棟の出入り業者の照合結果も、来ていない。


 ガロウが装備を整え終えて、私の脇に立った。鎧ではなく、暗部装備。襟元から胸当てまで、留め具の数は四つ。左肩の留め具は、いつもより一段きつく締めてある。旧傷の側だ。


 私は腰の短剣を一度抜いて、刃の縁を布で拭いてから、鞘に戻した。今日の指示書では、刃を使うことはない。撤退判断のみ許容。それ以外の抵抗権は不要。


 「経理部の出勤簿は、前日中に第二局が複写を取得済み」


 私はガロウに告げた。ガロウは頷いた。何も言わない。


 月の二十七日、ヴェロン・カスパルは本日出勤予定。出勤時刻、四つ半。本部までは徒歩で半刻かかる。


 通用口の鉄扉を、私が先に開けた。本部までの通路は、まだ薄暗い。天井の鎖から、灯りが等間隔に下がっている。一つ目の灯りを過ぎたところで、鎖が、私の足音に合わせて一度だけ鳴った。


 ◇


 本部・経理部執務室の扉の前で、私とガロウは廊下の角に身を寄せていた。


 廊下の石床は冷たい。早朝の本部は静かだ。経理部の他の事務官は、まだ誰も出てきていない。本部の経理部は南棟の二階。窓は廊下側にはなく、執務室の中だけにある。


 四つ半の鐘が鳴った。


 扉の向こうで、足音が一つ。靴底が石床に当たる音、間隔は均等。逃げる気配のない歩き方だった。


 扉が内側から開いた。


 ヴェロン・カスパルが出てきた。三十八歳。痩せ型、目の下の隈。事務官服の襟元はぴっちりと留めてある。手には、まだ何も持っていない。


 「お役所の方ですか」


 ヴェロンの声は穏やかだった。驚いた様子はない。


 「王立諜報局・第二局の指示書に基づき、確保する」


 私の声に、ヴェロンは小さく頷いた。


 ガロウがヴェロンの両腕を後ろに回した。私は武器の有無を確認する。事務官服の内側から、腰の脇、靴の中まで、すべて確かめる。何もない。万年筆一本だけが、胸ポケットにある。


 ヴェロンは万年筆を一度だけ握り直した。胸ポケットから抜き、手の中で重さを確かめる動きだ。それから、手を放す。万年筆は床に落ちない。胸ポケットに戻っている。


 「執務室の中の書類は、押収する」


 私はガロウに告げた。ガロウはヴェロンを廊下の壁際に立たせる。


 執務室の中に入った。机が一つ、椅子が二つ、書類棚が壁一面。窓は北向きで、まだ朝の光は弱い。


 机の上には、書類束が三つあった。本部経理部の出勤簿の写しと、給与計算の控えと、雑記の束。


 雑記の束の最上層に、別の意匠の入った封筒が一通あった。封蝋に押されているのは、宮内省・庶務部の私印だった。


 私はそれを押収品リストの一行目に記録した。


 ◇


 ヴェロンを本部・第一局留置場へ連行した。


 連行の途中、ヴェロンは何も言わなかった。歩幅は均等、足取りに乱れはない。留置場までの廊下を歩くときも、呼吸は乱れなかった。


 取り調べは第二局立ち合いの分析官二等が担当する。あの男ではない、別の分析官だ。私は取り調べ室の外、廊下の椅子に座って待った。


 ガロウは押収書類を分類していた。書類束を一つずつ机に並べ、意匠ごとに分けていく。本部経理部の意匠が二つ、宮内省・庶務部の意匠が一つ。


 取り調べの声は、壁越しに断片的に聞こえた。


 ヴェロンの声。


 「私はただ、来た人の名前を書き写しただけです」


 分析官二等の声は聞こえない。問いだけが、ヴェロンの答えの形で透けてくる。


 「査定の指示は、宮内省・庶務部から書類で来ます。誰が査定対象になるかは、私には決められません」


 来た人の名前。来た人。単数ではなかった。


 取り調べは四時間以内で終わった。ヴェロンは留置場へ送られた。


 私は分析官二等から押収書類のリストを受け取った。ガロウが「リストにあった書類は、すべて第二局へ運ぶ」と告げた。


 「あの男のところへ」


 私はそう答えた。


 ◇


 地下書庫の階段は三十六段ある。私は数えながら降りた。階段の途中、ガロウは押収書類の半分を持って、私の数歩後ろを歩いていた。書庫の扉の前で、私はガロウから書類をすべて受け取った。


 扉を開ける。


 書庫の中は、半月前と同じ匂いがした。紙とインク。壁の石が冷えている。燭台の蝋。


 あの男は机に向かっていた。ペンを動かしている。机の脇には、誰も立っていない。


 「ヴェロン・カスパル、確保しました。指示書通りでした」


 あの男はペンを止めずに答えた。


 「承知しました」


 私は押収書類を机の右端に置いた。書類束の一番上には、宮内省・庶務部の意匠の入った封筒。


 あの男のペンが、一度だけ止まった。


 それから、ペンはまた動き始めた。


 私は机の左端を見た。


 二枚の控えが並んでいる。半月前、私が書き取った指示書の写しだ。その隣、紙一枚ぶんの場所が空いていた。


 机の左端、控えの隣に空いた場所は、まだ埋まっていなかった。

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