おねえさん、俺と一緒に飲み会から抜け出す

翌日の夜。駅前のイタリアンダイニングのフロアは、二十人ほどの大学生が発する熱気と喧騒で満ちていた。




 俺は出発前、アパートの鏡の前で入念に髪をセットしてきた。YouTubeの美容師チャンネルを食い入るように見て真似た、ヘアアイロンで作る無造作な波打ちマッシュ。それに、ファッション系YouTuberが『一瞬で雰囲気が出る』と激推ししていた、少し奮発して買ったドレープ感のあるくすんだブルーのオーバーサイズシャツに、黒のワイドスラックスを合わせている。




 この『雰囲気イケメン』という装いは、本当の自分の凡庸さを隠すための、いわばシークレットブーツのようなものだ。いや、服や髪だけじゃない。必死に詰め込んだ映画や音楽の知識も、レコードを並べた部屋のインテリアも、好きではあると思うけど、それとは別にすべてが自分を底上げするための虚勢なのだと、どこかで自覚はしている。それでも、その数センチの底上げが、俺をこのキラキラした空間に繋ぎ止めてくれる唯一の手段だった。






 フロアの中央、一番盛り上がっているテーブルには、当然のように山葉さんの姿があった。




 淡い色のワンピースに身を包んだ彼女は、幹事らしきチャラい二年生の先輩や、ウェイ系の男子たちにぐるりと囲まれている。誰の冗談にも、彼女はあの完璧な『女神』の笑顔で応えていた。




 だが、端っこのテーブルからあまり美味しくないジントニックを舐めながら観察している俺には、はっきりとわかった。




 彼女が相槌を打つタイミングのコンマ数秒の遅れ。グラスを持つ指先の力みのなさ。周囲が爆笑している時、一瞬だけ彼女の瞳から光が消え、ひどく冷めた凪のような色になること。




 ああ、めちゃくちゃ面倒くさがってるな、あの人。




 そう確信した瞬間、不意に俺の隣から声がした。




「鈴木くんって、あのポラリスって雑貨屋でバイトしてるんだよね? 私、あそこのレコードの品揃え好きなんだ」




 声をかけてきたのは、同じテーブルに座っていたショートボブの女子だった。たしか、同じ学部で、佐藤さんという名前だったはずだ。




「あ、うん。あそこの店長、ブルーノートのオリジナル盤とか平気で仕入れるから」




「わかる! 私、ベタだけどマイルスとか好きでさ。最近は――」




 彼女は身を乗り出し、熱心に話し始めた。




 正直に言えば、悪い気はしなかった。むしろ、俺の『武装』がちゃんと機能して、女の子が俺を「センスのいい人」として見てくれている事実に、胸の奥で小さなガッツポーズを作っていた。高校時代の、竹刀と防具の匂いしかしない暗い剣道場にいた自分に見せてやりたい。




 俺は今、可愛い女の子とジャズの話をして、しかも好意的な視線を向けられている。




「鈴木くん、もしよかったらさ、今度おすすめのレコード教えてよ。LINE交換しない?」




 彼女が少し上目遣いでスマホを差し出してくる。




「あ、うん。いいよ」




 なるべく手慣れた風を装ってQRコードを読み込んだ。




 成功だ。俺が必死に作り上げてきたこのスタイルが、正解だったのだと認められたような誇らしさ。だが、その一方で、胃のあたりにじわじわと広がる、正体不明のむず痒さのようなものがあった。




 彼女が微笑みかけているのは、俺が見せている幻影に過ぎないのではないか。そんな不安をアルコールで流し込むように、俺はジントニックの残りを飲み干した。




 ふと、視線を中央のテーブルに戻す。




 幹事の先輩が、山葉さんの肩に触れそうなほど距離を詰め、強引に自分のスマホの画面を押し付けていた。山葉さんは愛想笑いを崩さないまま、巧妙に体を躱しつつも、結局は自分のスマホを取り出して画面を見せている。連絡先を交換させられているのだ。




 その直後、山葉さんが小さく息を吐き、視線を宙に彷徨わせた。




 不意に、俺たちの視線が空中で交差した。




 一秒にも満たない、喧騒の中のエアポケット。山葉さんのタレ目が、助けを求めるでもなく、ただ『疲れた』と雄弁に語っていた。




 俺も、手元のグラスを見つめながら、同じように小さく息を吐いた。


 一時間後。俺は耐えきれずにトイレへと席を立った。




 冷たい水で顔を洗い、鏡の中の作り物めいた自分を睨みつける。シークレットブーツを履き続けて歩くのは、想像以上に足の筋肉――もとい、精神力を消耗するらしい。




 重い足取りでフロアへ戻ろうとした時だった。




 トイレへ続く細い通路の陰、店の裏口に近い薄暗いスペースで、壁にもたれかかっている人影があった。




 山葉さんだった。




 彼女は腕を組み、うつむいたまま、あの『生協の女神』の装甲を完全にパージしていた。俺の部屋のソファで見せるような、一切の感情を削ぎ落とした無防備な顔。




 俺の足音に気づき、彼女が顔を上げる。




「……あ」


 山葉さんは小さく声を漏らすと、自嘲するようにふっと口角を上げた。




「お疲れー」




 本当に疲れてそうだ。




「……お疲れ様です」




 俺は少し距離を置いて立ち止まった。


 フロアからは、大学生特有の下品なコールと笑い声が聞こえてくる。だが、この薄暗い通路だけは、俺の部屋のベランダと同じような、しっとりとした静寂があった。




「……どうですか、飲み会」




 俺が探るように尋ねると、山葉さんは壁に後頭部をこつんとぶつけ、視線を泳がせた。




「んー……。なんかさ、みんな元気だよね。……あっちの笑い声、ここまで響くわ」




 その掠れた声には、はっきりとした疲労が滲んでいた。言葉そのものは当たり障りのないものだが、俺にはわかった。




 彼女はもう、あそこに戻って『女神』を再起動させるためのエネルギーを使い果たしている。俺のシークレットブーツなんかよりずっと重くて、分厚い仮面。




 それを剥ぎ取って息ができる場所は、ここにはない。




 少しの逡巡。こんなことを言えば、変に勘違いされるかもしれない。ただの同い年の隣人が踏み込んでいい領域ではないかもしれない。




 だが、俺の口は、脳のストッパーを振り切って勝手に動いていた。




「……もう、帰りましょうか」




 山葉さんが、弾かれたように顔を上げた。




 俺は、彼女の驚いたような三白眼を真っ直ぐに見つめ返し、もう一度、はっきりと言葉にした。


「一緒に、抜け出しませんか」




俺の突拍子もない提案に、山葉さんは一瞬、きょとんとして目を丸くした。




やらかしたか、とすぐに後悔しそうになったが、彼女は数秒の空白の後、張り付いていた緊張をスッと溶かし、悪戯を提案された子どものように目を細めて笑った。




「……いいね。それ」




 フロアに戻ると、山葉さんはさっさと自分の鞄を肩にかけた。




「あの、山葉先輩、ちょっと酔いが回っちゃったみたいで。俺、家が同じ方向なんで、タクシー拾うまで送ります」




 俺は幹事の先輩たちに向けて、極力自然を装ってそう告げた。




「えっ、マジ? じゃあ俺が送るよ。先輩だし」




 すかさずチャラい先輩が身を乗り出してくるが、俺は一歩前に出て、山葉さんを庇うように立ち塞がった。




「いえ、本当に同じ方向なんで大丈夫です。それじゃ、お疲れ様です」




 自分でも驚くほど低くて硬い声が出た。そのまま有無を言わさず頭を下げ、山葉さんの背中を軽く押すようにして、逃げるように店を出た。




 自動ドアを抜けると、むっとした初夏の夜気が体を包んだ。喧噪が遮断され、代わりに遠くからかすかな潮騒と、国道を走る車の音が聞こえてくる。




「……ふふっ」




 隣を歩く山葉さんが、突然小さく笑い出した。




「かっこよ。鈴木くん、あんな強引なこと言えるんだ。めっちゃ早口だったけど」




「笑わないでください。俺、今までの人生で一番無理しましたから」




「ふふ、ごめん。でも……助かった。ありがと」




 彼女は振り返り、少しだけ上目遣いで俺を見た。薄暗い街灯の下、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。その顔を見た瞬間、俺の背伸びした安っぽい『シークレットブーツ』が、今夜だけは彼女のために役立ったような気がして、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。




 これ、後日大学で『あの二人一緒に抜け出したよな』とか言われると面倒なことになるかもな。俺の陰キャ特有のリスク管理センサーが警告を発していたが、それ以上に、夜の道を彼女と二人で歩いている今の状況が晴れやかで心地よかった。




 少し歩いたところで、山葉さんが「んっ」と小さく声を漏らし、わずかに足元をふらつかせた。


「大丈夫ですか? やっぱり、結構飲みました?」




「んー……急に外の空気吸ったら、ちょっと回ってきたかも」


 そう言うと、彼女は俺の左腕に、自分の右腕をすっと絡めてきた。




「えっ」




「ちょっとだけ、捕まらせて」




 言い訳のように呟きながら、彼女は俺の腕にゆっくりと体重を預けてくる。




 薄いシャツ越しに、彼女の素肌の感触と体温がダイレクトに伝わってくる。歩調を合わせるたびに、腕の側面に押し付けられる柔らかな質量と、鼻先をかすめる清潔な花束のような香水の匂い。




 全身の血液が沸騰しそうだったが、俺は必死に表情筋を固定し、なんでもない風を装ってぎこちない足取りで歩き続けた。




 国道沿いの防砂林を抜けると、視界の右側に暗い海が広がった。波の音が、規則正しいリズムで耳を打つ。




「海、暗いね」




 腕を組んだまま、山葉さんがぽつりと言った。




「小さい頃さ。親に、よく海沿いのレストランに連れてこられたんだよね」




「海沿いのレストラン? ドライブとかでですか?」




「んーん。ピアノのコンクールとか、お行儀のいい発表会の後。フリフリの服着せられて、大人が行くようなフルコースのお店。……ご褒美だって言われてるのに、ナイフの音立てちゃダメとか、背筋伸ばしなさいとかずっと怒られてて。窓の外の真っ暗な海見ながら、早く帰りたいなってずっと思ってた」




 彼女の掠れた声には、波の音に溶けてしまいそうな微かな棘があった。




 『わかってるから。大丈夫』




 あの日の電話口での、感情を押し殺したような声を思い出す。彼女にとっての『海』は、親の期待に応えるいい子を演じた後の、息苦しい記憶と結びついているのかもしれない。




「俺なんて、子どもの頃は……部屋の押し入れに段ボールで秘密基地作って、懐中電灯持ち込んで、その中でずっと漫画とか読んでましたよ。親が探しても出てこないくらい本気で隠れて」




 俺が少しだけ自虐を交えて言うと、山葉さんは「なにそれ、めっちゃインドアじゃん」と吹き出した。




「でも、なんか分かるかも。そういう狭くて暗い場所の方が、落ち着くっていうか」




「はい。誰の目も気にならない、俺だけのシェルターでした。……やってることはただの根暗ですけど」




「押し入れの秘密基地かぁ。ちょっと入ってみたいかも」




「今の俺たちがやったら、ただの狭くて暗い箱ですよ」




 俺たちは他愛のない会話を交わしながら、ゆっくりと歩を進めた。




 腕に伝わる彼女の熱と、時折触れ合う肩。




 背後のイタリアンダイニングには、まだ俺たちの同級生や先輩たちがたくさんいて、バカ騒ぎを続けているはずだ。彼らは飲み会が終われば、それぞれ別々の方向へ散って、別々の部屋に帰っていく。




 だけど、俺たちは違う。




 俺の隣を歩くこの人は、俺と同じアパートの、俺のすぐ隣の部屋に帰るのだ。


 外の世界の誰も知らない、二人だけの秘密のシェルターへ。




 そのどうしようもない特別感が、アルコールの熱に浮かされた俺の胸を、どこまでも甘く締め付けていた。




「ねえ鈴木くん」




 山葉さんが俺を見上げた。




「はい」




「帰ったらさ、ネトフリのやつ。一話だけ一緒に観よ」




 例のドラマは、もうシーズン4まで来ている。実は俺も、同じことを言おうかとさっきから悩んでいた。あのドラマが面白いから続きが見たい、と言うのが理由の一つ。もちろん、それだけが理由ではないけど。






「いいですね。じゃあ、酔い覚ましにハーブティでも淹れますよ」




「ハーブティ? 鈴木くんほんとオシャレの国の民だなー」




そう言って、夜風に溶けるような柔らかい声を立てて笑うこの人の近くに、いたかったから。


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