おねえさん、きちゃった♡と言う

 その夜、控えめなチャイムの音が鳴り、ドアを開けると、山葉さんはいつものヨレヨレのフーディ姿のまま立っていた。俺と目が合うと……






「きちゃった♡」




 しな、と可憐な乙女のような仕草をしてみせる山葉さん。




「……」




「なんか言ってよ。かわいそうじゃんあたし」




 俺が絶句したのは、別に引いていたかからではない、むしろ逆だ。ただ、タイミング的に今更さっき思ったことを言うのは白々しすぎるのでやめておく。




「……なんですかその小芝居」




「ぐ。……ま、まあ気にしないで行こう。ほら、今日はお土産付き」




 言うが早いか、彼女は自分の部屋のようにサンダルを脱ぎ捨て、手にした白いレジ袋を胸の高さまで持ち上げてみせた。あれは多分、ちょっと恥ずかしがっている。シャカシャカとビニールが擦れる音が、深夜の静かな部屋に響く。






「お土産、ですか?」


「ん。いつもコーヒー淹れてもらったり、ご飯ごちそうになってるからさ。たまにはね」




 部屋に上がり込んだ山葉さんは、スタスタとキッチン横を通り抜け、いつものソファの左端――すっかり彼女の定位置となって少し窪んだ場所――にふぁさりと腰を下ろした。そして、買ってきた袋の中身をローテーブルの上へ無造作にぶちまける。




 出てきたのは、数本の缶ビールやスナック菓子、チョコレート菓子などの山、大きめの塩味のポテトチップスが一番目立った。そしてなぜか、全形の焼き海苔がひと袋。




「……海苔?」




「そ。まあ、あたしが食いたいから買ってきたってのもあるんだけどね。これは後でのお楽しみ」


 山葉さんは悪びれもせずに笑うと、まずは缶ビールのプルタブをプシュッと開けた。




「とりあえず、昨日の続き観よ」




 部屋の明かりを少し落とし、プロジェクターでいつものシットコムを壁に映し出す。


 俺たちはビールを片手に、画面の録音された笑い声を聞き流しながら、ダラダラとした時間を消費していく。




 真剣に見ているわけではない。山葉さんが足を崩してソファの上でだらしなく膝を抱えるような姿勢になっても、この部屋はすでにそれを当然のこととして許容していた。




 一話分が終わり、次のエピソードのカウントダウンが始まった頃。




 山葉さんが、ソファの上で姿勢を崩したまま、おもむろに先ほどのポテトチップスの袋に手を伸ばした。




 べりっと縦に大きく袋を開ける。そして、焼き海苔を数枚取り出すと、なんの躊躇いもなくバリバリと細かくちぎり、ポテチの袋の中へ放り込んでいく。




「ちょ、何してるんですか」


「海苔塩ポテチの錬成」




 彼女は袋の口をしっかりと握り、シャカシャカとリズミカルに振り始めた。スナック菓子と乾燥した海苔がぶつかり合う、ジャンクな音が響く。




「はい、完成。食べてみ」




 差し出された袋の中に手を入れる。指先に油と細かい海苔がくっつくのを予想して、俺は無言でテーブルの端にあった筒状のウェットティッシュを彼女の前に滑らせた。山葉さんは「ん」とだけ言って、特に驚く様子もなくそれを受け取り、一枚引き抜く。




 ポテチを口に運ぶと、シンプルな塩味のポテトチップスに、磯の香りと海苔の旨味がダイレクトに加わっている。市販の海苔塩味よりもずっと風味が強くて、暴力的に美味かった。




「……なにこれ、めっちゃ美味いですね」




「でしょ?」




 山葉さんは得意げに鼻を鳴らすと、手元のビールを喉を鳴らして呷った。




 お手製の海苔塩ポテチを間に置き、時折どちらからともなく袋に手を伸ばす。手が触れそうになっても、山葉さんはさほどに気にする様子もない。俺は少し気にする。




 さらにシットコムの視聴を続ける。ふと、俺はキッチンの戸棚の奥に隠していたあるボトルのことを思い出した。




「あ、そうだ。山葉さん、ちょっと変わったお酒、飲んでみます?」




 俺がウェットティッシュで手を拭きながら立ち上がると、山葉さんは視線を画面に向けたまま首を傾げた。




「変わったお酒? なに、鈴木くんまたオシャレなやつ買ったの?」


「オシャレというか……ちょっと興味があって買ってみたんです。スコッチウイスキーなんですけど」




 俺が戸棚から取り出したのは、白いラベルに緑色の文字が印字された『ラフロイグ』のボトルだ。雑誌か何かを読んで、いかにも通ぶれそうだと形から入って買ってみたものの、例によってまだ開栓していなかった代物である。




「へー。いいじゃん、飲も飲も」




 グラスに氷を入れ、琥珀色の液体を注ぐ。その瞬間、ツンとした強烈な香りが漂ってきた。


 山葉さんにグラスを渡す。彼女は興味深そうに匂いを嗅ぎ、それから躊躇なく一口飲んだ。




 直後。




「ぶふぉっ……!!」


山葉さんは激しくむせ返り、慌てた手つきでグラスをテーブルへ押し戻した。カツン、と底がぶつかる硬い音が響く。いつもは気怠げに伏せられている瞳が信じられないものでも見たかのように丸く見開かれ、むせた反動で目尻にはうっすらと生理的な涙が滲んでいた。




「うわ、なにこれ!? 正露丸じゃん! 完全に液体の正露丸! マズっ!」


「えっ、そんなにですか?」




 彼女のあまりのリアクションに、俺も慌てて自分のグラスに口をつける。




 強烈なヨード臭。煙の匂い。確かに、それは誰もが知っているあの胃腸薬の匂いそのものだった。ピートと呼ばれる泥炭で麦芽を燻すことでつく、アイラモルト特有の香りだということは知識として知っていたが、実物は想像を絶するパンチ力だ。




 だが。


「……あれ?」




 口の中に広がる強烈な薬品臭と煙たさを飲み込むと、その奥から、ふわりと海風のような塩気と、バニラに似たまろやかな甘みが顔を出した。




 なんだこれ。臭いし苦いのに、美味い。




「美味い、ですね、これ」




 俺がポツリとこぼすと、口元を手で覆っていた山葉さんが信じられないものを見るような顔をした。




「うそでしょ。鈴木くん、味覚バグってんじゃないの? どう味わっても完全に胃腸薬なんだけど」




「いや、本当ですって。たしかに正露丸っぽいですけど、なんかクセになるというか。……これ、通が好むウイスキーらしいです」




「うえー、『通』って言えばいいと思って。わざわざこんなの好んで飲むとか変態ギリギリじゃん」




 山葉さんは、この強烈な液体が世の大人たちに愛好されているという事実がツボに入ったのか、可笑しそうに肩を震わせて笑い、手元のビールを煽って口に残った匂いを洗い流している。




 通っぽいから、とこんな酒を買うという行為が痛いサブカル大学生ムーブだということはわかっている。だが、ちょっと懐をいためて買ってみたこの強烈なウイスキーの奥にある特有の味わいを、自分が本当に「美味い」と感じられたことが、なんだかひどく嬉しかった。




 自分の舌が、ほんの少しだけ大人になったような気がして。




「……なんか、ちょっとだけ大人の味がわかった気がします」




「はいはい、よかったね。じゃあ、大人の階段を登った記念に、このジャンクな特製ポテチも多めに食べなさい」




 山葉さんは口の端に小さな海苔をつけたまま、袋ごと俺の胸元へ押し付けてきた。


「わ、こぼれますって!」




 俺が慌てて袋を受け取ると、彼女は面白そうに目を細め、再びクッションに深く背中を預けた。


 ちなみに、海苔塩ポテチはラフロイグは一緒に食べるとよりおいしい気がした。ワインの漫画で読んだ、マリアージュとかいうやつだろうか、なんてことを考える。




 そのまま、さらにドラマを一話分見終えた。




 プロジェクターの青白い光が、彼女の輪郭をぼんやりと照らしている。画面の中では相変わらずオタクたちが早口で捲し立て、それに応えるようにラフトラックが陽気に響く。俺たちは劇中のシュールな掛け合いに顔を見合わせては小さく吹き出し、次の展開を追いかけるように画面を凝視し続けていた。この膨大な物語の登場人物たちの人生を共に追いかけているという確かな手応えが、深夜の部屋に心地よく満ちていた。




 壁掛け時計の針は深夜二時を回ろうとしている。明日も講義があるはずなのに、彼女は全く帰る素振りを見せず、俺の部屋のソファで小さなあくびを噛み殺した。




 海苔塩ポテチのジャンクな匂いと、グラスから立ち上る強烈な正露丸の香り。それに混じって、彼女が動くたびに髪からこぼれるみずみずしい果実のような甘い匂いが俺の部屋の空気に完全に溶け込んでいる。、俺の部屋の空気に完全に溶け込んでいる。




 俺は残ったウイスキーをゆっくりと喉に流し込み、ただ彼女の隣で、録音された笑い声に身を任せていた。


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