おねえさん、俺に前髪を切らせる。鎖骨が近い
夜十時。
俺は部屋のローテーブルを無意味に三回も水拭きし、壁掛け時計の針をチラチラと気にしていた。
デニムのポケットの中には、昼間に彼女から渡された新商品のチョコ棒の包み紙が入っている。それを無意識に指先で転がしながら、俺はどうしようもなく浮ついていた。昼間の書店での強烈な優越感と、あの一瞬だけ見せた『夜の顔』が、脳裏にこびりついて離れないのだ。
部屋の空気を変えようと、お香でも焚こうかとケースを手に取ったが、さすがにわざとらしすぎる気がする。変に取り繕っても痛々しさが増すだけだと、少しだけ学習している自分がいる。なので今日のところはアロマくらいにしておこう。そこで何もしないでいられないのが俺なのである。
そんな空回りした俺の『待機時間』を終わらせるように、控えめなチャイムが鳴った。
「ちわ」
ドアを開けると、そこには昼間の『女神』の装甲を完全にパージした、ヨレヨレのパーカー姿の山葉さんがいた。手には当然のように、よく冷えたストロングゼロのロング缶が握られている。
「あ、いらっしゃい。……昼間は、どうも」
「ん。変な感じだったね」
山葉さんはサンダルを脱ぎ捨てると、すっかり見慣れた様子で俺の部屋に上がり込んだ。昨日の今日で、すでにこの少しだけ広いワンルームが彼女にとっての「日常」の一部に組み込まれつつある事実が、たまらなくむず痒い。
「昼間に買った本、今から読みます?」
俺が昨日勧めた、九〇年代のカルトなドイツ文学。それを彼女がわざわざ買いに来てくれたことが嬉しくて、俺は少し前のめりに尋ねていた。
だが、山葉さんはプシュッと缶のプルタブを開けながら、軽く首を振った。
「ううん、あれは週末にでも、一人でじっくり読むわ。また感想言うね」
「あ……はい」
俺がいない一人の時間にも、俺の勧めた本を読んでくれる。その事実が、胸の奥をくすぐった。生協の女神として誰にでも笑顔を振りまく彼女の、誰にも見せないパーソナルな時間に、俺の選んだものが入り込んでいる。それが誇らしかった。
「今日はネトフリの続き。早く観よ」
彼女が定位置であるソファに腰を下ろし、俺もその隣に座る。
部屋の電気を消し、プロジェクターでいつものシットコムを流し始めた。オタクたちの早口な会話と録音された笑い声が、狭い部屋に響く。
隣からは、柑橘系のアルコールの匂いと、乾ききっていない髪から香る清潔な甘さが混ざって漂ってくる。パーカーの袖から覗く白い指先が、時折缶を持ち上げては喉を鳴らす。
今日もまた、肩と太ももが触れ合いそうな絶妙な距離感だ。ドラマの展開にクスクスと笑うたび、彼女の体温が空気を伝ってこちらに押し寄せてくる。
二話ほど続けて観終わったところで、山葉さんがしきりに前髪を指で払い、鬱陶しそうにため息をついた。
「どうかしました?」
俺が尋ねると、彼女はストゼロをテーブルに置き、両手で顔を覆うようにして天井を仰いだ。
「んー……最近忙しくて美容室行けてなくてさ。前髪が目に入ってマジでウザい」
彼女は前髪をかき上げ、丸いおでこを出した。普段は綺麗に整えられているであろうインナーカラーの入った髪も、今は無造作に乱れている。
「……俺、自分の髪ずっと自分で切ってるんで、前髪くらいなら整えられますよ」
俺が控えめに提案すると、山葉さんはかき上げた髪から手を離し、少し驚いたように目を丸くした。
「え、マジ? 鈴木くん、自分で切ってんの?」
「あ、はい。まあ、節約も兼ねてて」
「すご。……じゃあ、お願いしちゃおうかな」
山葉さんはあっさりと、本当にあっさりと身を委ねてきた。
自分で言っといてなんだが、俺は内心で激しく動揺した。あと少し後悔もした。髪に触れるというのは、食事を共にしたり隣で映画を観たりするのとは全く違う、明確な『物理的接触』だ。だが、自分から提案しておいて今更引くわけにもいかない。
プロジェクターの映像を一時停止させ、部屋の明かりをつける。
「ちょっと待っててください。道具、取ってきます」
洗面台の下から、いつも使っている散髪用のハサミとクシを取り出す。ついでに鏡の前で深呼吸を一つして、バクバクと五月蝿い心臓を無理やり落ち着かせた。
ローテーブルの前に山葉さんを座らせ、俺はハサミとクシを持って彼女の背後に回った。
「動かないでくださいね。目、瞑ってていいですから」
「ん。よろしくー」
山葉さんは素直に目を閉じ、膝の上に両手を置いてじっとした。
背後から見下ろす形になる。パーカーのフードから覗く、華奢な首筋。そこから微かに漂う、女の子特有の甘い匂い。
「鈴木くんの手、冷たくてきもちー」
ふにゃりと笑いながらの言葉に、汗が出る。
俺は息を殺し、震えそうになる指先に力を込めてクシを入れた。
サラリとした、細くて柔らかい髪だ。指の腹に触れる髪の感触が、脳の奥を痺れさせる。
シャキッ、シャキッ、と静かな部屋にハサミの鳴る音だけが響く。
前髪の長さを揃えるため、俺が身を乗り出すたび、目を閉じている彼女の無防備な顔が、信じられないほど至近距離に迫る。
長く整ったまつ毛が、頬に薄い影を落としている。形の良い鼻梁と、ほんの少しだけ開いた桜色の唇。規則正しい寝息のような呼吸が、俺の手首に微かに当たる。
自分の指先が、彼女のおでこや柔らかな髪に触れる。そのたびに、生温かい体温が伝わってくる。俺は息を止めるようにして、ただひたすらに手元へ集中した。
これは、触れてはいけないものに触れているような、ヒリヒリとした背徳感だった。
昼間は、全校生徒から崇拝される手が届かない存在。誰もが彼女の笑顔を欲しがり、遠くから眺めることしかできない。
その女神が今、自分の部屋の床に座り、目を閉じて俺に完全に身を預けている。俺が少しでも手元を狂わせれば、彼女の完璧な美貌に傷をつけてしまう。その圧倒的な信頼と無防備さが、俺の自意識をぐちゃぐちゃに掻き乱した。
「……鈴木くん、手ぇ震えてない?」
不意に、目を閉じたままの山葉さんが、くすりと笑いながら口を開いた。
「っ、震えてないです。真剣にやってるんです」
「ふふ、そ。なんか、人の息づかいがこんな近いの、久しぶりかも」
彼女の何気ない一言が、さらに俺の動悸を加速させる。俺はもう、何も返せなかった。ただ、一刻も早くこの甘い拷問のような時間を終わらせるために、丁寧に、かつ迅速にハサミを動かし続けた。
「……よし。こんなもんですかね」
数分後、俺がハサミを下ろすと、山葉さんはゆっくりと目を開けた。
スマホを取り出し、インカメラで前髪を確認する。
「うわ、めっちゃ上手いじゃん。視界良好」
嬉しそうに目を細め、彼女はクルリと振り返って俺を見上げた。
少しだけ短くなった前髪の奥から、タレ目気味の三白眼が俺を真っ直ぐに捉えている。
「鈴木くん、マジで器用だね。料理もできるし。……ありがと」
彼女の飾らない笑顔と感謝の言葉に、俺は張り詰めていた息をようやく吐き出した。
ハサミとクシを片付けようと俺が立ち上がると、山葉さんはなにやら部屋中を見渡し始めた。何かを見つけたのか、目を輝かせそれを手に取る。彼女が手にしたのは、綿棒だった。何に使うのだろう?
俺がそんなことを考えていると、山葉さんはソファに深く座り直し、自分のショートパンツから伸びる太ももを、ポンポンと手のひらで叩いた。
「じゃあ、お返し」
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