「2章-第7話:消えることのない痛み」
深夜のコード・アンド・レジャーには、湿気を含んだ静寂が満ちていた。
外界のざわめきも届かぬその一室で、唯一の明かりはモニターの冷たい光だった。青白く光る画面が、無言で座る男の顔を照らしている。
エランの視線は、目の前の映像に釘付けになっていた。
映っているのは、見覚えのある“部屋”。
拘束されたまま殴打される少女。
腫れた頬、転がる注射器、床に散った空の薬瓶――
その光景に、エランの指先が無意識に動いた。
爪を噛む癖は、彼がまだ“人間”だった頃の名残だった。
「くそっ……こんな時間に、なんで呼び出しがある……」
背後から、苛立った声が漏れる。
「どうすりゃいいんだ……マジで、詰んだかも」
「不足分を埋めればいい。ただそれだけだ」
エランは目を逸らさずに返した。
「……それが不満で呼び出されたんなら、もう用済みってことだろ?!」
「落ち着け。ギャングの処理が入ったばかりだ。再編の話かもしれない」
「……だったらまだマシだよな……なあ、そうだよな……?」
言葉に縋るようなゴルダンの声が消えた瞬間――ドアが音もなく開いた。
ラセルとフェルマーが現れる。
無言のまま、まるで呼吸の一部のように二人は近づいてくる。
次の瞬間、フェルマーが二人の腕を掴み、デスクに押し付けた。
「っ……え? お、おい?!」
「何を──」
エランが言いかけたときにはもう、ラセルがナイフを抜いていた。
ためらいはない。
刃が、掌へと振り下ろされた。
「ぎゃああああああ!!」
「っ……待て!聞いてくれ!」
ゴルダンが叫び、エランが叫んだ。
だがラセルは、終始ひとことも言葉を発さない。
代わりに、机に一枚の紙片を滑らせた。
――情報屋からの報告書。
「……で?」
ようやくラセルが口を開く。
「どっちだ?」
フェルマーの目が静かにふたりを貫いた。
血が机の端を伝い、しずくとなって床に落ちる。
選択の時が来た。
情報処理のノイズを整えるかのように、エランは深呼吸をした。
混線した思考を一度リセットするように、肺の奥まで空気を吸い込んだ。
人格の輪郭をなぞり直すように、彼は静かに息を整えた。
「ゴルダンの伝票だ。取引先コードがずれていた」
「……あえて言えば、単純な転記ミスだ。
ただ、それが一連の処理を乱したのは事実だ」
「おいおいおい!なんだそりゃ!?テメェ、俺を売る気か!?」
ゴルダンがわめく。
(……すまない)
「こいつだよ!こいつが裏で情報屋に流してんだよ!
俺が使った額より、こいつが隠してた数字の方がデカいってな!!」
(個よりも多……群れから迷った渡り鳥は死ぬ……)
(ダン……お前がやってきたことに対しての答えは、本当にそれでいいのか?)
「エランが垂れ込んだんだ!こいつ、スクリプト持ちだろ!?全部見てんだよ、俺のデータも──」
そのときだった。
エランの肩から、力がすっと抜けた。
怒号も、痛みも、何もかもが遠ざかっていく。
ただ、思考だけが異様に研ぎ澄まされていた。
「……そう、私はスクリプト保持者だ。“ノーテイカー”。」
淡々と、エランは言った。
「過去に見た数字、取引、映像──すべて記録している」
「そして私は、その“横領額”を補填する準備がある」
(数字のせいで命が消えるなら――その重さは、俺が背負う)
(ノーテイカーとして記録した以上、その罪を忘れることはない……)
その瞬間、ラセルがきびすを返すように首を向けた。
鋭い目がエランを真っすぐに射抜く。
動きかけたナイフの手が、わずかに止まる。
刹那――空気が凍る。言葉の温度が、場の重さを一変させた。
部屋には、誰も咳ひとつ立てぬ沈黙が流れていた。
「だから──判断はお任せするよ。
どちらを“片付け”るかは、そちらが決めることだ」
ラセルがわずかにうなずく。
フェルマーが動いた。
ゴルダンの口にガムテープを巻きつけ、顔全体を黒い袋で覆っていく。
ラセルがナイフを抜き、冷たく告げた。
「そいつはフレイマンの部屋に連れていけ」
残されたエランは、震える手で傷を押さえながら、応急処置を始める。
「期限は一週間……」
ラセルが言い残し、ナイフを机に突き立てた。まるでそれが、処刑の印であるかのように。
扉が閉まる。
残された部屋には、チカチカと明滅する蛍光灯だけが、揺れるような光を落としていた。
机に突っ伏したエランは、その光に照らされながら、静かに頭を抱えていた。
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