「2章-第2話:灰皿の街で」

 薄暗い蛍光灯の光が、天井にたゆたう煙を照らしていた。風俗街「ノクターン・ヴェール」の一室。コンテナを改装した簡素な造りの店内は、古びたソファと灰皿、女たちのため息で満ちていた。

 壁際に腰掛ける彼女たちは、まるで時が過ぎるのを待つだけの人形のように黙っていた。喉を潤すでもなく、笑うでもなく。何人かは目を閉じ、夢もない夢に沈んでいた。

 外で、男の怒鳴り声が聞こえた。


 「わかってんのかガキ一人に構ってる時間もないんだぞ? あァ?」


 「ダン、落ち着け。嬢にあたっても何も解決しない。」

 怒気と諫めが交差する。その声が遠ざかると、静寂と喫いさしの煙草のにおいだけが残った。

 そのとき、扉が開いた。

 頬に赤い腫れをこしらえ、氷を当てた女――マディアが入ってくると、黙ってソファに腰を下ろした。その足元には、小さく身体を丸める少女。彼女もまた頬を冷やしていた。膝を抱えて座り込むその姿は、風の音さえ怖がる子猫のようだった。

 マディアが煙草をくゆらせながら、静かに声をかける。


 「……あんた、ここの生活に慣れるんだよ」

 少女――ティナは、ほんの少しうなずいた。けれどその目はどこか遠くを見ていた。


 「……はい」

 マディアは缶の灰皿に、静かに灰を落とした。何の音も立てず、沈むように。


 「ここじゃね。泣いてる暇も、怒る暇も、許されないの。呼ばれたら行く。笑って、言われたとおりにする」


 「……」


 「『いやだ』って顔はしちゃダメよ。すぐに、換えが来る」

 ティナは、その言葉の意味をゆっくりと飲み込んでいた。そして、ぽつりと口を開く。


 「……ねえ、なんで大人はすぐ殴るの?」

 マディアは煙を吸い込んでから、少し間をおいて言った。


 「逃げたいのさ……」


 「……」


 「大人ってのは、自分の思い通りにならないと壊すのさ……自分が逃げれるように」

 言葉の刃先は、誰にも向けられていないようでいて、自分自身に深く刺さっているようだった。


 「大人がホッとできるところってのは家にしかないんだよ」


 「……お家?……」


 「そう、でも私たちには家族がいないけど、ここが“家”なのさ」

 ティナの瞳がかすかに揺れる。


 「……ねえ、マディアさんは……いつから……このお家?」

 マディアの視線が少しだけ伏せられた。まつげの影が頬に落ちる。


 「昔は教師を目指してたの。子供の相手は得意だった」

 ティナは息を呑む。


 「戦争で全部なくしてね。家も家族も、戻る場所も……」


 「カルテルに引き取られたのが、すべての始まりだった。選べない道もある……」

 ティナが顔を上げる。潤んだ瞳で、まっすぐにマディアを見る。


 「……でも、マディアさん、他の人とは違う気がする」


 「違わないわよ。あんたが見てるのは“見せてる顔”」


 「それでも……私、マディアさんがいるから、まだ……」

 マディアは、そっと手を伸ばしてティナの頭に触れた。髪を乱さないよう、そっと、その温度だけを伝えるように。

 氷が少し滑ってティナの髪に触れたのをきっかけに、マディアはその髪を指で梳き始める。やさしく、ゆっくりと。


 「……私ね、本当は、こんな世界、認めたくなんかないの」


 「でもね、あんたを生かすために、私はこの手で“諦め”を教えてる」


 「矛盾だらけよ。私の言葉なんて、全部嘘みたいなもんだ」


 「……それでも、ありがとうって、言いたいです」

 マディアは何も言わず、表情ひとつ変えなかった。ただ、その沈黙が、強さの証だった。


 「……今を生きなきゃダメなんだよ。だからみんな四六時中、みんなカリカリしてんのさ。……しょうがないよね」

 ティナには、その言葉のすべてを理解するにはまだ早かった。

 それでも――マディアの手の温度だけは、ずっと、忘れなかった。



 煌びやかな光が天井から降り注ぐ、吹き抜け構造の巨大コンテナ街。その中央通路を、人々が流れるように行き交っていた。しかし、喧騒の波はふいに割れる。

 そこを歩いてくるのは、二人の男だった。

 ベージュ色のスーツに赤いアロハシャツを合わせた男と、濃紺のスーツに真っ黒なシャツを身にまとう男。どこか浮いているようで、しかし誰も目を合わせようとはしない。

 重苦しい空気をまとったその二人は、まるでこの街の奥に潜む何かを引き連れているかのようだった。

 人目につきにくい脇道へと逸れると、そこには一人の若者が待っていた。

 汚れたパーカーのフードをかぶり、タバコの火をもてあそぶように指で回している。二人の姿を認めると、慌ててそれを靴裏で踏み消し、気まずそうに頭を下げた。


 「お疲れっす……」

 声に力はなく、視線は足元に落ちたまま。

 二人は答えず、ただその横を無言ですれ違っていった。

 エスカレーターの横に置かれたベンチでは、親子が寄り添って座っていた。男の子が袋から新型のドローンを取り出し、目を輝かせている。その隣で親は、それを嬉しそうに見守りながらも、どこか羨ましげな眼差しを向けていた。

 二人はその光景にも目を向けず、静かにエスカレーターを降りて狭い通路へと入っていく。

 道沿いの店々からは、使途不明の電子機器が山積みにされ、通路にはみ出して並んでいる。色とりどりの基板やコードが雑然と積まれ、混沌とした秩序が通りを埋めていた。

 次の角を曲がると、カウンターから歩道まで屋根を伸ばした屋台が現れる。のれんの下には無数の足が並び、鉄板で肉が焼ける音と香ばしい匂いが漂ってくる。まな板を叩く音、油の弾ける音――。

 だが、二人は立ち止まることなく、狭い道を歩き続ける。

 銀色のAIロボットが火花を散らしながら鉄骨を溶接していた。そのすぐ隣では、しわくちゃの紙袋を握りしめた老人が、酒を口にしながら地べたに座り込んでいる。

 反対側では、小さな少女が一人、ぼんやりとポップアップ絵本をめくっていた。

 擦り切れたページをゆっくりと開くと、紙の仕掛けが音もなく起き上がる。

 それを眺めては、また閉じて、もう一度開く。

 何度も、何度も。

 楽しんでいるふうでもなく、退屈を埋めるような動作だった。

 さらに奥へと進むと、ドラム缶の周囲に若い男たちがたむろしていた。その中心に、二人はふと立ち止まり、短く何かを告げる。男たちは静かにうなずき、気配だけを残してその場を散っていく。

 やがて、二人は停留所に停められたポッドに乗り込み、腰を下ろす。

 内部の液晶パネルには、規則的なBGMとともにニュースが流れていた。


 「……本日のGP濃度は0.6。警戒レベルは1ですが、お出かけの際には油断せず、お手持ちのデバイスをご確認ください。それでは、良い一日を──」

 黒いシャツの男が、無言で停留ボタンを押した。



 光の届きにくいコンテナ街の一角。高架の影が常に落ちるその一帯に、無機質な鋼の扉がぽつりと存在している。

 扉の奥――そこは、“Code & Ledger(コード・アンド・レジャー)会計連署”。

 スラムにしては異様に小綺麗な室内だった。壁面には浮かび上がるグラフとスプレッドシートの数々。整然と並ぶデスクと椅子、その隙間にはほこり一つ見当たらない。

 部屋の奥、革張りの椅子に沈み込むように座っている男がいた。派手なトリプルボタンのスーツに白シャツを合わせ、口の端ではガムをくちゃくちゃと噛み続けている。


 ゴルダン・マルキア。通称「バズ・ゴルダン」。

 軽薄でお調子者、どこか体育会系の残り香を漂わせた、場の空気をかき乱すような男だ。

 その隣では、淡々と帳簿を繰る別の男の姿。記録台帳の数字に目を走らせる指は、まるで何も感じていないかのように冷静で、正確だった。

 エラン・フィスカ。口数は少なく、感情もあまり見せない。だがこの街で“数字”を扱う者の中では、最も確実で、最も信用されていた。

 革靴の乾いた音が、静かな室内に反響した。

 鋼の扉がゆっくりと開き、二人の男が現れる。ブーツではなく、よく磨かれた革靴に赤茶けた泥が乾いてこびりついている。縄張り巡回を終えたばかりのようだった。

 ひとりは、ベージュのスーツの裾を翻しながら、赤いアロハを胸元に揺らしていた。

 もう一人は、黒いシャツの第一ボタンすら緩めぬまま、濃紺のスーツの肩をきっちりと揃えていた。

 ファルネイラ郷西部を統べるカルテルの幹部――ラセル。そしてその右手側に控えるのが、フェルマー。

 ラセルの右手側を歩くフェルマーの足取りは静かだったが、周囲の空気を押し下げるような重さがあった。

 まるで“主の意を察して動く影”のように、言葉より先に反応することを求められる存在。

 二人は、ためらいもなく室内へと足を踏み入れる。


 「相変わらず、税務署みてぇな空気だな」

 部屋を一瞥し、フェルマーが苦笑する。


 「こんなとこに金が溶けてるってのが皮肉な話だ」

 ゴルダンが笑顔で立ち上がり、手を広げて迎えた。


 「いやぁ、お疲れ様ですラセルさん、フェルマーさん。今月もお勤めご苦労さまです!」


 「洗浄分の入金データ、しっかり受け取ってますよォ。ね、エラン先生?」

 名を呼ばれたエランは、台帳を閉じて穏やかに答えた。


 「はい。今月は三系列、合計六口座。追跡回避のためスクリプト保持者口座を一部経由。帳簿上のマナ還元率は83%です」


 「ただし、第5コンテナ街での外貨建て取引が増えた分、今後のGP操作率は下方修正が必要になるでしょう」

 ラセルはコートの裾を払って椅子に腰を下ろしながら、軽く眉を上げた。


 「“下方修正”ってのは、“バレにくくなる”って意味か?」


 「……それもありますが、“処理できる量”に限界があるという意味でもあります」

 淡々としたエランの言葉に、フェルマーがふとゴルダンに目をやった。


 「そっちのブタは何やってんだ。鼻から紙幣でも出すか?」

 ゴルダンはニヤリと笑って指を鳴らす。


 「紙幣は出せませんが、記憶なら出せますよ。“あの嬢”が何回店を移動したか、店長の背後にどんな金融屋がいるか、昨日の朝食のスープに何が入ってたかまで──だろ?ノーテイカー(記録者)」

 ラセルは表情一つ変えず、低く問いかける。


 「……で、その記憶にいくらかかる?」

 ゴルダンは身を乗り出し、目を細めて答えた。


 「別件ですんで、“別料金”が発生いたしますよッ♪」

 フェルマーは苦笑を漏らす。


 「ふてぇツラしやがって……まあいい。お前の記憶に価値があるうちは、まだ“使える”ってことだ」

 エランが、わずかに視線を落として言葉を添える。


 「ただ、記憶は抜けても、責任までは抜けません。今回の精算は1週遅れています。それは事実です」

 ラセルは、じっと彼を見据えたまま目線を逸らさずに呟いた。


 「その分、お嬢さんたちに“痛み”が回ってる。誰かが首くくる前に、締めるか、流すか、決めとけ」

 重い沈黙が室内に落ちた。

 処理の順番も、責任の所在も、まだ誰の手にも渡っていない――だが、それは今この場にいる誰かの背中に、次の瞬間にでも突きつけられるかもしれなかった。


 ――気分ひとつで、“矛先”は容赦なく変わる世界なのだから。

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