第13話「そういうことでいいんだな」
ハルトは目を覚ますと、しばらく天井を見上げたまま動かなかった。
昨日の夜に試したこと、その結果として見えてきた可能性が、まだ頭の中に残っている。
ゆっくりと体を起こし、身支度を整えると、ハルトは借家を出る。
朝の空気はひんやりとしていて、通りにはすでに人の流れができ始めている。
ダンテの倉庫へ向かう道はもう覚えているが、その途中で、いつものように屋台の煙と香ばしい匂いが目に入った。
足が自然と止まる。
肉串だ。
ちょうど腹も減っている。
ハルトはそのまま屋台に近づき、一本注文する。
「5リンだ」
店主の短い言葉に、ハルトは軽くうなずくと、どこからか財布袋を取り出し、その中から5リン通貨を取り出して店主に渡した。
動作としてはごく自然で、外から見ればただポケットか懐から出したようにしか見えないが、実際にはそこに“あった”ものを呼び出したに過ぎない。
代わりに差し出された肉串を右手で受け取り、そのまま歩き出した瞬間、先ほどまで手にしていた財布袋は、何事もなかったかのようにすっと消える。
落としたわけではない。隠したわけでもない。
ただ、“そこに置いてきた”ような感覚だけが残る。
ハルトは肉を一口かじりながら、その違和感を確かめるように、わずかに口元を歪めた。
これはスタッカークレーンスキル。
分かりやすく言えば、アイテムボックスだ。
昨夜、借家で一通りの検証は済ませている。
袋はもちろん、テーブルやベッドのような大きな物でも、条件さえ満たせば出し入れができた。
単に消しているわけではなく、どこか別の“場所”に収めて、そこから取り出しているという感覚がある。
ただし、制限もはっきりしていた。
指ではじいて宙に浮かせた5リン硬貨を、そのまま収納しようとしたときには、まったく反応しなかった。
落ちてくる途中では駄目で、手に触れた瞬間にはじめて“収まる”感覚が生まれる。
つまり、このスキルは“触れているもの”しか対象にできない。
そう考えるのが一番しっくりくる。
もっとも、その“触れている”にも限度はある。
試しに借家そのものを対象にしてみたが、さすがに何も起こらなかった。
意識としては繋がっているつもりでも、扱える範囲には明確な線引きがあるらしい。
ハルトは肉串をもう一口かじり、ゆっくりと歩く。
条件はある。制限もある。
だが、それでも十分すぎる。
持ち上げる力と、収納する力。
この二つがあれば、できることは一気に広がる。
ハルトは何気なく、もう一度袋を“取り出す”イメージを描く。
すると、手の中に自然と重みが戻る。
何事もなかったかのように、袋はそこにあった。
ハルトはそれを軽く握り直しながら、小さく息を吐く。
これは、使える。
確信に近い手応えが、はっきりと残っていた。
肉串を食べ終えたあと、ハルトは手に残った串を軽く持ち替え、そのまま意識を向ける。
捨てるでもなく、しまうという感覚でもなく、“元の場所に戻す”ような曖昧なイメージを重ねた瞬間、串は手の中から静かに消えた。
動作としては何もしていないのに、確かにそこにあったものがなくなる。
この違和感にも、もう慣れ始めている自分に気づき、ハルトは小さく息を吐く。
昨夜から何度も繰り返したことで、出し入れの感覚はかなり安定してきており、狙ったものを迷いなく扱えるようになっている以上、このスキルについては、ひとまず“使える段階に入った”と判断していいだろう。
頭の中で整理すると、今の自分にあるのは二つの軸だ。
ひとつは床上操作式クレーン、もうひとつが
持ち上げる力と、出し入れする力。
この二つは性質こそ違うが、組み合わせればできることは単純な足し算では終わらない。
物を動かし、任意の場所に収め、必要なときに取り出す。
その一連の流れを一人で完結できるというのは、考えてみればかなり異質な能力だ。
戦う力ではない。
だが、だからといって価値がないわけでもない。
むしろ使い方次第では、どんな場面でも応用が利く可能性がある。
そこまで考えたところで、ハルトは自分の中にある感覚が少し変わっていることに気づく。
昨日までは「何ができるか分からない」状態だったものが、今は「どう使うかを考えている」状態に変わっている。
これは単なる発見ではなく、選択の問題だ。
やれるかもしれない。
その考えが、自然と浮かぶ。
冒険者としてやっていけるかどうか。
少なくとも何も持っていない状態ではなくなったことだけは確かだった。
歩きながら、ハルトは視線を前へ向ける。
見慣れた通りの先に、ダンテの倉庫が見えてくる。
木製の扉と、その前に積まれた荷の影。
いつもと変わらない光景のはずなのに、今日は少しだけ意味が違って見えた。
あそこに行けば、話をすることになる。
決めてきたことを、言葉にする。
――言えるか。
胸の奥で、わずかに引っかかる感覚がある。
だが、すぐにそれを押し込む。
――いや、言うんだ。
ここで引けば、結局また同じ場所に戻るだけだ。
考えるだけで動かないまま終わるのは、もう十分だと分かっている。
ハルトは足を止めることなく、そのまま倉庫の前まで歩き、ためらいを振り切るように扉へ手をかける。
中に入れば、もう後には引けない。
それでも構わないと、自分に言い聞かせるように。
ハルトは静かに扉を押し開けた。
倉庫の扉を押し開けて中へ入ると、積み上げられた荷の間を縫うように動く影があり、ハルトはその中に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止める。
木箱の側面に貼られた札を確認しながら、慣れた手つきで位置を整えているのはレベッカだった。
彼女はハルトの気配に気づいたのか、顔を上げるとすぐに小さく目を細め、軽く手を振るようにして声をかけてくる。
「あら、早いのね。ちょうどよかったわ。手伝ってくれる?」
有無を言わせない口調ではないが、断る前提がそもそも用意されていない言い方に、ハルトは一瞬だけ言葉を探し、それから何も言わずに近くの荷へと歩み寄る。
ここに来た理由を口にするつもりで扉を開けたはずなのに、気がつけば自然と手が動いていた。
箱を持ち上げ、指示された位置へと運び、向きを揃えて積み直す。
その一連の作業は、考えるよりも先に体が覚えている動きで、特に言葉を交わすこともなく、二人の間には一定のリズムが生まれていく。
しばらくしてひと区切りついたところで、レベッカは腰に手を当てて軽く息を吐き、それから満足したように周囲を見渡す。
「こんなところね。やっぱり人手があると早いわ」
そう言ってから、何気ない調子で続ける。
「次の便はモルトよ。楽しみね」
その言葉に、ハルトは手を止めたまま首を傾ける。
「モルトにはなにがあるんだ?」
率直な疑問だったが、レベッカは少し意外そうな顔をしてから、すぐに笑みを浮かべる。
「あら、知らないの? 海産物で有名な街よ。ロブスターがとても美味しいの」
ロブスター、という言葉を聞いた瞬間、ハルトの中で具体的なイメージが浮かぶ。
日本にいた頃、レッドなロブスターの看板を見たことがあるが、実際に食べたことはない。
あの大きな殻と、しっかりした身の食感。想像だけで少し興味を引かれる。
――それは、食べてみたいな。
そう思ったのが、顔に出たのかもしれない。
レベッカはその反応を見て、少しだけ楽しそうに口元を緩める。
「また一緒に食べましょ」
軽い調子の一言だったが、どこか自然に次の前提を含んでいるようにも聞こえた。
ハルトはそのまま深く考えず、頷く。
「いいね」
その返事をした時点で、何かが決まっていたのかもしれないが、その瞬間のハルトにはまだその自覚はない。
ちょうどそのとき、倉庫の奥から足音が近づいてくる。
振り返ると、ダンテが荷の間を抜けてこちらへ歩いてきていた。
手には書き付けがあり、視線はそれを追っていたが、やがて顔を上げるとハルトの姿を見て小さく頷く。
「早いな。ここに来たってことは、そういうことでいいんだな」
その言葉に、ハルトは一瞬だけ息を止める。
本来ならここで言うはずだった。
自分は冒険者になるつもりだと、そのためにここを離れるのだと。
だが頭の中には、さっきの会話がまだ残っている。
モルト。
ロブスター。
一緒に食べるという、軽い約束。
それと同時に、今こうして荷を運んでいた時間の感覚も、まだ体に残っていた。
ハルトはわずかに視線を逸らし、それから短く息を吐く。
「まぁ、そうです」
完全に嘘ではないが、本来言うはずだった言葉とも違う。
それでもダンテは特に追及することなく、あっさりと頷く。
「そうか。明日の朝出発だ。遅れるなよ」
それだけ言って、再び手元の書き付けへ視線を戻す。
話は終わった、という空気だった。
ハルトはその場に立ったまま、少しだけ遅れて自分の返事を反芻する。
――まぁ、そうです。
軽く答えたその一言で、選択はすでに済んでいた。
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