第3話 雨の宿場に捨てられた兄妹
王都を追放されてから、二日が経っていた。
東へ向かう街道を、執拗な冷たい雨が叩きつけている。
アリシアは泥水を跳ね上げる馬車の轍を避けながら、重い足取りで歩を進めていた。
手持ちの金は、渡された僅かな馬車代の残りと、鞄の底に隠し持っていた数枚の銀貨と銅貨だけだ。これでは一週間も持たない。
何より彼女を不安にさせているのは、実家であるヴェルディーニ子爵家からの音沙汰がないことだった。
屋敷を出る直前、年老いた執事に託した手紙。あれが手渡されていれば、実家の兄はすぐにでも早馬を寄越すはずだった。どんなに遅くとも、丸二日も放置されることはあり得ない。
(手紙が、握り潰された……?)
その違和感は、アリシアの胸の中で不吉な冷たさとなって渦巻いていた。
空腹と疲労、そして濡れた衣服から奪われる体温。
限界に近い身体を引きずりながら、アリシアはようやく前方に立ち並ぶ建物の屋根を見つけた。
王都から東へ向かう街道で、最初に必ず通る大きな宿場町だ。王都から十分に距離がありつつも、王都へと引き返すための乗り合い馬車が頻繁に発着する、行き交う人の多い交通の要衝である。
雨上がり直後の湿った空気が漂う中、アリシアは軒を連ねる宿屋の一つに目を向けた。
その薄暗い軒下に、小さな影が二つ、うずくまるようにして立っていた。
最初は、疲労が見せた幻覚かと思った。
だが、近づくにつれて、その影の輪郭が鮮明になっていく。
「……嘘」
アリシアの口から、掠れた声が漏れた。
エミルとリリィだった。
エミルは、雨風から妹を守るように、小さな背中を庇って前に立っている。上等だったはずのよそ行き着は泥にまみれ、すっかり濡れそぼっていた。
その後ろに隠れるように立つリリィの足元を見て、アリシアは息を呑んだ。
彼女の小さな靴は片方しかなく、泥水に浸かった白い靴下は無残な土色に染まっている。二人とも、小刻みに震えていた。
* * *
なぜ、彼らがこんなところにいるのか。
あの夜、「私が連れていく」と宣言し、リリィの腕を強引に引き剥がしたはずの母親が、なぜ一緒にいないのか。
駆け寄ろうとしたアリシアの前に、宿屋の中から渋い顔をした中年の主人が出てきた。
「あんた、あの子たちの知り合いかい?」
警戒と、わずかな安堵が入り混じった主人の声に、アリシアは立ち止まって頷いた。
「……はい。あの、この子たちは、どうしてここに」
宿屋主人は大きな溜息をつき、首に巻いた手ぬぐいで頭を掻いた。
「あの女の人、迎えを寄こすって言って、もう二日来ねえんだ」
「え……」
「馬車から降りてきて、『王都に大事な忘れ物をしたから、すぐに迎えの者を寄こす』って言ってな。そのまま馬車に乗り直して、王都の方へ引き返しちまったんだよ。宿代も、この子たちの食費も置いてかなかった」
主人は気の毒そうに、しかし現実的な困惑を顔に浮かべてエミルたちを見た。
「最初は何かの事情かと思ったが、もう、戻ってこねえ気がする。俺も商売だ、慈善事業じゃねえ。けど、こんな雨の中に放り出すわけにもいかねえから、軒下だけ貸してやってたんだが……。あんた、知り合いなら、どうにかしてくれや。俺はちゃんと見てた。なんなら、後で誰に聞かれても同じことを言える」
この宿場町は、王都から東へ下る者が必ず通る場所。同時に、王都へ戻るのも容易い場所。
セレスティアにとってここは、「王都から十分に離れた、しかし王都に戻る馬車もすぐ拾える」絶妙な捨て場所だったのだ。
屋敷の玄関先で「私が育てる」と見栄を張り、子どもたちを連れ出したものの、馬車の中で泣き叫ぶ子どもたちが邪魔になったのだろう。
怒り、悲しみ、そして再会できたことへの安堵。
相反する巨大な感情が一瞬にしてアリシアの胸で爆発しかけ、激しい目眩を起こした。
だが、彼女は決して泣き叫んだりしなかった。
アリシアは泥だらけの地面に躊躇いなく膝を折り、子どもたちと目線を合わせた。
* * *
エミルは、何度も瞬きを繰り返した。雨に打たれて霞んだ視界の中で、目の前の人物が本当に実在するのかを確かめるように、震える指先をそっと伸ばす。
アリシアのスカートの裾に、その小さな指が触れた瞬間、エミルの大きな目から涙が一筋こぼれ落ちた。
「アリシア様……」
そのたった一言に、八歳の少年がこの二日間、どれほどの恐怖と絶望の中で妹を守り続けてきたかが凝縮されていた。
彼を抱きしめようと手を伸ばした時、エミルの背中からリリィがふらふらと顔を出した。
「おかあさま、もう、こない」
焦点の定まらない目で、リリィがぽつりと呟いた。
四歳児の拙い言葉が、最も残酷な事実を抉り出す。母親はもう戻ってこないということを、この小さな女の子は二日間の冷たい雨の中で、とっくに理解してしまっていたのだ。
その瞬間、アリシアの中で渦巻いていた熱い怒りが、スンと音を立てて冷たい場所へと降りていった。
(あの女は、子どもを外面のための小道具にし、不要になれば路傍に捨てた)
その事実が、氷の刃となってアリシアの胸に突き刺さる。
許さない。絶対に許さない。この冷たい怒りは、いつか必ずあの女を裁くための燃料になる。
だが、今は自分が怒りに身を任せて暴走している場合ではなかった。
アリシアは鞄を開け、自分用に残していた最後の硬いライ麦パンを取り出した。
それを手で二つに割り、エミルとリリィの小さな手に一つずつ握らせる。
「食べて。よく噛んでね」
「アリシア様は、食べないの?」
「私はお腹がいっぱいだから、大丈夫」
エミルは一瞬だけ躊躇ったが、すぐに妹の口元にパンを運び、自分も泥だらけの手でパンにかぶりついた。
その様子を見つめながら、アリシアは思考を研ぎ澄ませていく。
このまま感情に任せて子どもたちを連れ去れば、後になってセレスティアから「誘拐された」と主張される隙を与える。
彼女の武器は帳簿と記録だ。彼らを守るためには、情に流されるのではなく、法と記録という強固な盾を用意しなければならない。
「エミル、リリィ」
アリシアは穏やかに、しかし芯のある声で二人に語りかけた。
「今夜、一緒に泊まろう。それから、私と一緒に考えよう」
私が勝手に決めるのではない。あなたたちを二度と誰にも捨てさせないために、どうすればいいか。
明日の朝一番で役所に行き、宿屋の主人の証言と共に、彼らが遺棄されたという公的な記録を残す。すべてはそこからだ。
エミルが、パンを飲み込みながら小さく頷いた。
リリィが、安心したようにアリシアの膝へと倒れ込んでくる。その冷え切った小さな体を、アリシアは両腕でしっかりと抱きとめた。
雨上がりの空に、雲の隙間からわずかな光が差し込んでいた。
アリシアの胸の奥にある冷たい怒りの火種は、決して消えることはない。だが、そのすぐ隣で、この小さな命の重みが、確かな温かさとなって灯り始めていた。
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