第四話 名を得る
寧に連れられ、私を拾った男の部屋に向かっていた。呼ばれたのは、いつもの狭い
井戸のある庭を左に見ながら、別の建物へ渡った。寧が持つ油皿の灯火が、渡る廊の板を細く照らしていた。
奥の白壁に沿って折れると、板の鳴り方が変わった。広い
一番立派な室の前で、寧が一度だけ私の袖を引いた。板戸の隙間から、橙の灯りが細く漏れている。
胸に巻いた布が、息を吸うたび浅く軋んだ。その下で、鼓動が速くなっていた。
寧は最後の戸の前で膝をついた。
「おやじさま、連れてまいりました」
中から低い声で返事があり、寧が戸を引いた。私はそのまま中へ入り、寧は下がって戸を閉めた。
部屋の中央に大きい机があった。文字で埋め尽くされた
壁際には弓、剣、短い丸太、
あの男が、机の向こうに座っていた。手元の木簡を閉じ、脇へ置く。
「話せるようになったか?」
喉が少し縮んだ。私は頭を下げた。
「……少しは」
男は頷きもせず、次を聞いてきた。
「名は?」
「穂泉と言います」
男は「ほずみ」と低く口にしてから、机の端の板を一枚引き寄せた。墨で丸や線が書かれている。車輪、軸、
「年はいくつだ?」
「十八になります」
「どこで育った」
「……分かりません」
男は顎に手を置き、しばらく黙って私を見ていた。
「では、これはどこで習ったのだ?」
私は答えなかった。男の指が、梃の下へ入る支えの位置を押さえた。
「長い木を差し込んで車輪を起こすことは、珍しくない。荷を扱う者なら知っている。わしが知りたいのは、この位置だ」
指先が、車輪へ寄った一点へ移る。
「皆はもっと外へ差していた。お前の絵は、支えを内へ寄せてあった。押す手も、出ていた人数で足りている」
私は板へ目を落とし、記憶と照らし合わせた。
「車輪の沈みが深かったので、荷の重みはかなりこちらへ寄っていると見ました。あとは、石が潜ることと、梃の長さを見て、そこになると考えました」
男は分銅をひとつ持ち上げ、板の上へ置いた。小さな音がした。
「わしには、その算が分からぬ」
それだけ言って、板を伏せた。
「だが、お前は分かっている……」
室内が静かになった。火鉢の底で炭が崩れ、赤いところが少しだけ覗いた。私は膝の上で指を組み直した。
男は机の上の帳へ手を置いた。
「ここは郭家だ。祖父の
――雁門。たしか、北の端……
郭縕は、一度、身体を乗り出し、私の顔を覗き込んだ。
「郭の名の下へ入るなら、助けてやろう。食わせるだけではない。兵と政を覚えさせる。帳にも近づける。雑役の列へ混ぜたままにはせぬ」
私は黙っていた。胸に巻いた布の結び目が、いつもより硬く感じた。そこに高鳴る鼓動が撥ね返った。
郭縕も黙っていた。机の脇に置かれた薬碗の縁に、乾いた褐色が残っている。細い筆が一本、そのそばに伏せてある。
私は膝に手をつき、頭を下げた。
「お願いします」
それから頭を上げなかった。外の風が、雨戸を叩きつける音が響いた。
「頭を上げよ」
私が頭を上げて、郭縕の目を見た時、郭縕は短く頷いた。
「名を改める」
手元にあった木簡を取り、裏返して私に見せた。
「
木簡の文字を見てから、膝に手をついた。
「……はい」
郭縕は短く頷いた。
「郭の者になるなら、半端な所で止まるな。名に恥じぬ者となれ」
私は膝に手をつき、深く頭を下げた。
「よし。下がれ」
戸を閉める前に、もう一度だけ机の方を見た。薬碗、細い筆、伏せられた木簡。その三つが、同じ机の上に残っていた。
廊へ出ると、寧が柱のそばで待っていた。何も聞かず、油皿を持ち直して歩き出す。帰り道の井戸は暗く、白い縄だけが浮いていた。甕の蓋はどれも伏せられ、薪の山も昼と同じ形のままだった。
房へ戻ると、盆はもう置かれていた。粥の表面にうすい膜が張り、塩菜は少し乾き、干し肉の脂が白く固まっている。寧が戸を閉め、油皿を机へ置いた。
「おやじさま、なんて?」
私はしばらく盆を見ていた。
「名をもらった」
寧の指が、盆の縁で止まった。
「なんて?」
「淮」
寧の手が止まった。盆の縁に置いていた指先が、そのまま動かない。油皿の火が小さく鳴り、壁へ映る影が揺れた。
「……ほんとうに?」
私は頷いた。寧は目を伏せた。
「淮様は、おやじさまの二番目の子」
取ろうとした匙を落とした。寧は、それを拾い上げ、私に手渡しながら話した。
「少し前に病気で亡くなった。歳は穂泉より少し上」
寧は声を落としたまま続けた。
「淮様は聡明で、おやじさまにも、たいそう目をかけられてた」
寧はそこで粥の椀を見た。釣られて私も見た。膜の張った表面に火が映っていた。私は冷めた湯をひと口飲み、唇を潤した。
「その方の名を、なぜ私に?」
寧はすぐには答えず、干し肉の皿を少しだけこちらへ寄せた。
「私は、おやじさまの考えまでは分からない」
そう言ってから、私の胸元へ目をやった。
「……けど、穂泉が助かったことが、私は嬉しい」
私はようやく匙を取り、固くなりはじめた粥をすくった。冷えた表面の下には、まだ温かいところが残っていた。
「もう穂泉って呼べないね、淮様」
寧が新しい茶を椀に入れながら言った。私はその茶を一気に飲み干した。
「なんで?穂泉って呼んでよ」
寧は頷き、盆を持って部屋を出ていった。
戸が閉まると、房の中には火鉢の残り香だけが残り、口には干し肉の塩気があった。私は胸の布の上へ手を当てた。結び目は固いままだった。
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