第2章「寄り添う指」
「ミユさん、いますか?」
いつもの時間、画面にひかりの名前が現れる。
短い一文。
何度も打っては消した痕跡が、にじんでいた。
心が少しだけ温かくなる。
待っていてくれたんだな、と。
誰かが待っている——それだけで、生きていける気がした。
「いますよ。こんばんは、ひかりちゃん。今日もおつかれさま」
打ち込む指は、"ボク"ではない。
優しい女性、"ミユ"だ。
言いすぎない。
踏み込みすぎない。
近すぎない。でも、遠くもない。
彼女が安心できる誰かでいるために。
「今日は、学校でちょっと嫌なことがあって……」
ぽつぽつと話し始めるひかりの言葉が、
どこかで自分自身に聞こえてくる。
今日、クラスの女子たちが僕のことを笑っていたのを知ってる。
前の席の奴が教科書を足元に落として、
僕が拾うのを無言で見下ろしていたのも知ってる。
でも、ミユは笑わない。
ミユは、ただ静かにそこにいる。
「ひかりちゃんはちゃんと頑張ってるよ。
大丈夫、ここには私がいるから」
──そんな言葉を、自分がいちばん欲しかった。
でも、それを言えるのは"ミユ"だけだった。
──
「ミユさんって、本当に優しいですね」
「リアルにいたら、絶対に友達になりたい」
感謝されるたびに、胸の奥が軋む。
──僕のままじゃ、誰にも愛されない。
──でも"ミユ"としてなら、生きていける。
どちらが本当の自分か、もう分からなかった。
嘘をついているときの方が、よほど素直だった気がした。
──
「今日は、ちょっと調子悪いかも」
ひかりの一文に、いつもの明るさがなかった。
こういうときは、本当にしんどいときだ。
「大丈夫? 無理しないで、ゆっくり休んでね」
少し間があって、返ってきた。
「……生理痛、ひどくて。寝てたけど、全然よくならなくて」
スマホの光が、鋭くなった気がした。
僕には関係のない話だ。
"ミユ"でなければ、立ち入れない話だ。
それでも、彼女は"ミユ"にだけ話してくれる。
「病院、行ってみたほうがいいかも。
私も昔、倒れたことあるから」
もちろん、倒れたことなんてない。
でも、彼女が"わかってもらえた"と思えるなら。
それは嘘ではない、と思いたかった。
「……病院行くの、怖いんだよね。
自分の体のこと話すのって、恥ずかしくて」
その言葉の奥に、年齢よりも深い孤独があった。
僕は初めて、ひかりが本当に女の子なんだと実感した。
同時に、恐ろしいほどの罪悪感が来た。
僕は、男だ。
彼女の一番繊細な場所に、"ミユ"のふりをして触れている。
「私でよければ、いつでも話してね。誰にも言わないから」
打ちながら、指が冷えていった。
「ミユさんがいてくれて、よかった」
「今日、誰にも話せなかったから……ありがとう」
嬉しかった。
吐き気がするほど、胸を締めつけた。
彼女は"ミユ"に感謝している。
存在しない誰かに。
それでも僕は、止められなかった。
──
夢を見た。
ひかりがベッドにうずくまって、息を荒くしている。
「ごめんね、ミユさん」と泣きながら、僕にだけ弱さを見せる。
僕はその背中を撫でている。
髪がシャンプーの香りで、指先にまとわりついた。
目が覚めたとき、シーツが濡れていた。
冷たくて、重くて、惨めだった。
「最低だ」
声は、ひどく弱かった。
"ミユ"として彼女の痛みに寄り添った夜のあとに、
"ボク"として欲望に溺れた。
同じ指で慰めた。
同じ目で見ていた。
でも、彼女は何も知らない。
洗面台の鏡を見た。
そこにいたのは、目の死んだ痩せた少年だった。
"ミユ"は、どこにもいなかった。
心のどこかで思っていた。
つながっていくうちに、少しずつ"ミユ"が本物になっていくんじゃないか、と。
"ミユ"として誰かを救えるなら、それが僕の価値になるんじゃないか、と。
でも、違った。
彼女がくれた信頼も、涙も、「ありがとう」の言葉も、
全部、塗りつぶされてしまった。
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