第17話
夜が来ない。
夢のような街の空は、血のような赤から次第に黒く濁り、やがて『沈黙』へと変わった。だが、朝も来ない。ただ、色のない光が、世界を薄く覆っているだけ。
木々は逆さに伸び、建物の輪郭は歪み、時の流れすら時計仕掛けのように途切れ途切れになる。人の気配はない。まるで最初から誰も存在しなかったかのように、風景だけが残されている。
悠斗は、真琴と慎一の三人で、その街を歩いていた。
「……翔太の声が、聞こえていた気がするのに」
真琴が呟いた。彼女の声は、風に溶けるように消えていく。
悠斗は何も言わなかった。彼もまた、さっきまで翔太が隣にいたような感覚を、消しきれずにいた。だが、振り返っても、そこに彼はいない。思い出そうとすると、輪郭がぼやける。声の響きも、笑い方も、少しずつ薄れていく。
「……忘れちゃいけない」
悠斗は拳を握った。爪が掌に食い込む。痛み。それだけが、自分を繋ぎ止める。
慎一は、そんな悠斗の横を、静かに歩いていた。彼はもう、周囲を観察することもない。ただ、前を見ている。その目は、何も映していないように見えた。
「慎一」
悠斗が声をかける。
「お前は……翔太を、覚えてるか」
慎一はしばらく答えなかった。足音だけが、乾いた地面を鳴らす。
「……覚えている」
彼は言った。
「だが、それは“記録”としてだ。彼がどんな声で笑ったか。どんな顔で怒ったか。すべて、データとして保持している。だが……」
「だが?」
「……それを“懐かしい”と感じる回路が、もう、俺の中にはない」
悠斗は、それ以上何も訊かなかった。
三人は歩き続けた。街の中心へ向かって。なぜそこへ向かうのか、誰も言わなかった。だが、足が自然とそちらへ向かう。まるで、引き寄せられるように。
やがて、真琴が立ち止まった。
「……私の影」
彼女は足元を見つめていた。確かに、彼女の影がそこにある。だが――動きが違う。真琴が止まっているのに、影はわずかに揺れている。
「……なに、これ」
影が、微かに笑った。
いや、笑ったように見えた。黒い輪郭が、口元だけ、ゆっくりと吊り上がる。
「真琴、離れろ」
悠斗が彼女の腕を引く。その瞬間、影はぱたりと動きを止め、ただの影に戻った。
だが、その代わりに――街路の向こうから、何かが現れた。
仮面をつけた人影だった。
人の姿をしているが、人間ではない。皮膚は滑らかすぎ、関節の動きはどこか機械的。仮面の表面には、無数の瞳がびっしりと並んでいる。すべての瞳が、別々の方向を見ている。そして、一つ一つが、三人を捉えている。
「……シ=ザリス」
真琴が呟いた。彼女の声は、かすれている。
「あの、夢の神……!」
仮面の口元が、わずかに開いた。そこから、もうひとつの『顔』が覗く。
それは、真琴自身の顔だった。
「やめて……やめて……!」
真琴が後ずさる。だが、足が動かない。仮面の影が、彼女の足に絡みついている。黒い触手のような影。冷たく、重い。
悠斗は走った。真琴と仮面の間に割って入る。そして、影を引き剥がそうとした。
「慎一! 手を貸せ!」
振り返って叫ぶ。
だが、慎一は動かなかった。
「……慎一?」
彼は、仮面を見ていた。いや、仮面の向こう側を。その目は、冷静に、正確に、この状況を観察している。
「……あれは、“夢の神”ではない」
慎一は言った。
「あれは、俺たちの恐怖が形を取ったものだ。シ=ザリスという“名”を与えられたことで、具現化した。つまり――」
彼は一歩、後退した。
「あれは、俺たち自身だ」
「……なに言ってんだよ!」
悠斗が叫ぶ。だが、慎一の言葉は、悠斗の胸の奥に冷たく突き刺さる。
仮面の無数の瞳が、一斉に瞬きをした。そして、真琴の顔をした『何か』が、口を開く。
「……あなたは、私」
「違う……!」
「あなたは、私を捨てた。涼太を。家族を。過去を。すべてを」
真琴の涙が、こぼれる。
「……違う……私は……!」
「あなたは、忘れたかった。だから、ここに来た。だから、私がいる」
仮面の影が、真琴を飲み込もうとする。
その時だった。
街の奥から、低い音が響いた。地響きのような、唸りのような。それは、仮面の動きを一瞬だけ止めた。
「……なんだ」
悠斗が顔を上げる。
街の中心。あの交差点の上に――黒い太陽が浮かんでいた。
巨大な瞳。いや、太陽の形をした瞳。それが、ゆっくりと開いていく。
『……観測を、開始する』
声が響く。天の声ではない。もっと重く、もっと深い。世界そのものが発しているような。
仮面たちが、一斉に空を見上げた。無数の瞳が、黒い太陽を見つめている。
その隙に、悠斗は真琴を引き寄せた。彼女はまだ震えているが、意識はある。
「慎一! 今のうちに……!」
振り返る。慎一は、もうそこにいなかった。
「……慎一?」
悠斗は周囲を見渡した。いない。どこにも。彼が立っていた場所には、ただ、冷たい空気が残っているだけ。
「……慎一……!」
声が虚しく響く。
代わりに、声が聞こえた。慎一の声。だが、どこからともなく。
『俺は、観測する側に立つ』
その声は、冷静だった。もう、仲間の声ではなかった。
『だから、もう“内側”には戻れない』
「……ふざけるなよ」
悠斗は拳を握った。
「お前は、俺たちの仲間だろ……!」
『仲間、という記録は保持している。だが、それはもう、俺を定義しない』
声は、遠ざかっていく。
『……翔太の消失も、真琴の恐怖も、すべて“現象”として記録した。そして――』
『君たちが消える瞬間も、俺は観測する』
「……ッ!」
悠斗は地面を蹴った。だが、どこへ? 慎一はもう、そこにはいない。
真琴が、悠斗の袖を掴んだ。
「……悠斗」
彼女の声は、掠れている。
「私……まだ、私でいられるかな」
悠斗は振り返った。彼女の目は、涙で滲んでいる。だが、その奥に――確かな光があった。
「……ああ」
悠斗は頷いた。
「お前は椎名真琴だ。俺の仲間だ。そして――」
彼は空を見上げた。黒い太陽。無数の瞳。仮面の群れ。
「俺は、まだ終わらない」
仮面たちが、動き始めた。無数の瞳が、三人を――いや、二人を捉えている。
慎一の声が、どこか遠くから聞こえる。
『……観測を、続行する』
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