戦場の燕は宮廷の玩具

マーフィー

春燕の巻

第1話 邂逅

 洛陽の春は、土の匂いから始まる。


 城外の演武場には、まだ朝靄が残っていた。靄の底で、白い小さな影がひとつ、木剣を振っている。振るたびに、足もとの土から薄い湯気のようなものが立ちのぼった。


 影の名を、白燕といった。


 大将軍・白雲の一子である。年はようやく八つ。だが、その朝もすでに、東の空が白むより早く床を抜け出して、ひとり演武場に立っていた。誰に命じられたわけでもない。父の振るう剣を一度見て、あれを己もやってみたいと思った――ただそれだけのことであった。


 白燕の振る木剣は、まだ風を切る音さえ立てない。腕は細く、握りは甘く、足は土の上で時おりよろけた。それでも、振り下ろすときの目だけは、妙にまっすぐであった。


「若。もうそのくらいに」


 演武場の端から、老いた従者が声をかけた。白燕は剣を下ろし、額の汗を手の甲で拭うと、にこりと笑った。


「うん。でも、もう少しだけ」


 逆らうのではない。ねだるのである。叱る気の失せるような、素直な笑い方をする子であった。家中の者は皆、この子をかわいがった。大将軍家の嫡子でありながら、白燕には驕ったところがまるでなかった。下働きの老婆にも丁寧に頭を下げ、厩の馬にまで名を呼んで話しかける。


「白燕さまは、お顔がおきれいだから」


 と、女中たちは言った。たしかに、白く整った面立ちは、男の子というより、よくできた人形のようであった。だが家の者がこの子を慕うのは、顔のためではなかった。この子の前に立つと、なぜか、自分がまっとうな人間であるような気がしてくる――そういう不思議な徳が、幼い白燕にはすでに備わっていた。


 その日、白雲が息子を呼んだ。


「燕や。今日は供をせよ。宮中へ上がる」


 白燕は目をまるくした。宮中、という言葉の重さを、八つの子なりに感じ取ったのである。


       ────


 車に揺られて、白燕は父の隣に小さく座っていた。


 白雲は寡黙な男であった。馬上で半生を過ごしてきたこの大将軍は、家でもあまり多くを語らない。だが車の中で、ぽつりと言った。


「燕。よく見ておけ。お前がこれから仕える御方が、おわす」


「ぼくが、お仕えする……」


「さよう。たとえ天地がひっくり返っても、お前が背を向けてはならぬ御方だ」


 白燕は、その言葉をうまく呑み込めなかった。だが父の声には、いつもと違う、祈りに似た響きがあった。幼い白燕は、それを胸の奥にそっとしまった。後年、この日の父の言葉が、己の生涯そのものになろうとは――そのときの白燕には、知るすべもない。


 宮城の門は、白燕が見上げても見上げても、てっぺんが空に溶けていた。


 長い回廊を、父に手を引かれて歩いた。磨かれた床に、自分の小さな顔がぼんやり映った。やがて通されたのは、奥まった一郭の、こぢんまりとした庭であった。


 白雲は、ある人物と短い言葉を交わすと、白燕の背に手を置いた。


「ここで待っておれ。粗相のないようにな」


 そう言い置いて、父は内へ消えた。


 白燕は、ひとり庭に残された。


 春の光が、池の面に散っていた。白燕は所在なく、しゃがんで水を覗き込んだ。小さな魚が、影におびえて石の下へ走った。


「――おまえ」


 声がした。


 白燕が顔を上げると、池の向こうに、ひとりの子が立っていた。


 歳は、白燕と同じほどであろうか。黒い衣を着ていた。子どもの着るには、いやに格式ばった、重たげな衣であった。その重さに着られているように見えながら、しかし、背筋だけはまっすぐに立っていた。


 白燕は、その子から目が離せなくなった。


 なぜ、と問われても、答えようがない。整った顔のためではなかった。白燕の周りには、美しい顔ならいくらもあった。そうではなく――その子の、まっすぐな背筋の奥に、なにか、ひどく寂しいものが畳まれている。それが見えた気がしたのだ。八つの子に、寂しさの正体などわかるはずもない。ただ、見えた。そして、見えてしまったからには、もう、そばを離れがたかった。


「魚を、おどろかせたな」


 その子は、池のふちまで来て言った。咎める口ぶりであったが、声は咎めていなかった。


「……ごめんなさい」


 白燕は素直にあやまった。それから、ふと思いついて、付け加えた。


「でも、すぐ出てきます。じっとしていれば」


「なぜ、わかる」


「待っていてあげれば、いいんです。こわくないって、わかるまで」


 黒い衣の子は、ふっと黙った。それから、白燕のとなりに、こつんと音を立ててしゃがんだ。重い衣の裾が、土に触れるのもかまわなかった。


 ふたりは、しばらく、ものも言わずに水を覗いていた。


 やがて、石の下から、小さな魚が一匹、おそるおそる出てきた。白燕は声を立てずに笑った。そのとなりで、黒い衣の子も、ほんの少し、口もとをほどいた。


 ――それは、笑うことに、慣れていない者の笑い方であった。


 白燕の胸の奥が、その瞬間、ことりと音を立てた。


 この方の力になりたい、と思った。この方から、目を離してはいけない、と思った。それが何という名の感情なのか、白燕は知らない。忠義というものかもしれぬ。憧れというものかもしれぬ。幼い白燕には、それらの区別がつかなかった。


 ――だが、後の世から見れば、それは、まぎれもなく恋であった。幼い忠義の顔をして、白燕の中にそっと根を下ろした、生涯ただ一度の恋であった。そして白燕は、相手が誰であるかも、相手が何であるかも、まだ何ひとつ知らない。知らぬまま、惹かれた。


「おまえ、名は」


「白燕です。あなたは」


 黒い衣の子は、すぐには答えなかった。水の面に映る自分の顔を、しばらく見つめていた。


 その子もまた――池の向こうに白燕の白い影を見たときから、胸の内で、同じ小さな音が鳴っていた。生まれてこのかた、誰も自分に「待っていてあげればいい」などとは言わなかった。皆、頭を下げるか、目を伏せるか、そのどちらかであった。この、魚におどろかれて謝るような子が、なぜか、まぶしかった。


 だが、その子は己の名を、軽々しく口にできる立場にはなかった。


「……鳳と、呼べばいい」


 とだけ、答えた。


 白燕は、その名を、口の中でそっと繰り返した。鳳。鳥の名だ、と思った。自分の名にも、燕という鳥がいる。それが、なんだか、うれしかった。


「鳳さま」


「さまは、いらぬ」


「でも」


「……好きにしろ」


 突き放すような言い方であったが、その子――鳳は、立ち去らなかった。立ち去るどころか、もう一匹魚が出てくるのを、白燕のとなりで待っている。


 春の光が、ふたりの小さな背を、等しく照らしていた。


 回廊の奥から、白雲ともうひとりの人影が、その様子を黙って見ていたことを、ふたりの子は知らない。大将軍と――その日、白燕に引き合わされるはずだった人物。やがてこの二人の子のために、世を欺くひとつの大きな企てを組むことになる、二人の父親であった。


 だが、それはまだ、先の話である。


 この春の朝、洛陽の小さな庭で出会ったのは、ただの八つの子がふたり。名を、白燕と、鳳といった。


 ふたりは、池の魚が出てくるのを待っていた。それだけのことが、後の天下を二つにも三つにも裂く長い物語の、いちばん最初の一行であったとは――そのときは、誰ひとり、知らなかった。

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