復讐。されど人生は続く

雪静

1-1 彼氏の結婚


 彼氏が結婚を発表した。


 私ではない女との。





 いつもと同じ朝礼だった。気だるい月曜の朝いちばん、覇気のないオフィスの真ん中で、一人だけ明るく声を張り上げ活き活きと話す課長。

 今日やる仕事はなんだったっけ。早く話終わらないかな、と、眼鏡を軽く掛け直しながら聞き流していた矢先のことだ。

「ところで今日は、非常におめでたい報告があるのです。……田崎くん、こちらへ!」

 そう言われて前へ進み出たのは、私の恋人の田崎陽介。年は三つ上の二十八歳、私の隣の席で働く、気さくな言動と頼りがいのある性格が素敵な人だった。仕事はできるし教え方も上手で社内での評判も良好。そんな彼からの告白だったから、幼稚な私が一瞬で舞い上がってしまったのは言うまでもない。

 さて、陽介さんがみんなの前へと進み出るのを、私は特に驚きもせず落ち着いた瞳で眺めていた。おめでたい話ならきっと出世かな、陽介さんなら当然だろうと――この時の私は無邪気にも、そう信じ込んでいた。

 でも。

「実は俺、結婚しました。相手は前川香織さんです!」

 よく知るはずの自分の恋人の、見たこともないはにかむ笑顔。

 そしてその隣に並び立つ、幸せそうな友人の姿。前川香織は私の同期であり、二人で何度かご飯に行く程度には仲の良い関係だった。

 朗らかな空気と優しい拍手がオフィスに広がっていく。若干のどよめきはあるけれど、「美男美女じゃん」とか「お似合いだ」とか、中には「やっとか」なんて声もあって、いずれにしろ人々の眼差しには純粋な祝福が見え隠れしている。

 笑っていないのは私だけ。

 自分一人が違う世界に隔離されてしまったみたい。拍手する皆の手の動きが、おめでとうを言う口の動きが、幸せそうな彼の笑顔がスローモーションで流れていく。

(どうして)

 乾いた唇から雨露みたいにぽろりと零れ落ちた言葉は、けたたましい拍手の音にあっという間にかき消された。

 言葉の意味がわからない。理解が全然追いつかない。

 でも、この部屋の中で私だけが、のはわかる。

 そして私は隣に並ぶ先輩の、

「おめでたいね」

 という言葉に気圧されたみたく、

「そうですね」

 と力なく笑って震える両手をそっと叩いた。





逢子あこには本当、申し訳なく思ってるよ。でも、香織には俺が必要だし、俺にも香織が必要なんだ」

「ごめんね、逢子。でも私たち、本気で好きになっちゃったの」

「逢子なら、わかって……くれるよな?」

 わかるわけねえだろ。

 なんて、スパッと言えたらどんなに楽だろう。ついでにこのレモン水をこいつらの顔にぶっかけられたなら。

 会社近くのカフェレストランで聞かされた二人の釈明は、くだらない、馬鹿馬鹿しい、つまらないと三拍子そろった惚気話だった。

 どんな事情があるのかと思えば、なんてことないただの浮気。私を通じて知り合った二人が私を除いて飲みに行くようになり、そのまま深い仲へ陥って戻って来られなくなっただけ。

「……わかったよ。二人とも、結婚おめでとう」

 テーブルの下で爪が食い込むほど強く握り締めたこぶしは、それでも振り上げられることはなかった。

 穏やかに朗らかに、波風を立てないように。

 自分の気持ちを押し殺し、へらっと無理やり頬を緩ませる。

 同じ会社で働く相手だ。ここで揉めても損をするだけ。

 このどす黒い感情だって、時さえ経てばいずれ静かに風化していくのだろう。今は黙って涙を隠し、ひとりで我慢すればいい――。

「ありがとう! ……そうだ、会社の人を集めてお祝いパーティをやるんだけど、逢子も来てくれるよね?」

 ……は?

 場違いなほど明るい香織の声が、頭の中で反響していく。聞き違い……かと思ったけど、そういうわけでもないようだ。

 少し冷や汗を流しながら、「おい」と香織に耳打ちする陽介さん。しかし香織は両手を顎に添え「別に良いでしょ? 来てほしいんだから」と、何が悪いのかも見当がついていないような有様だ。

(行きたくない)

 何が悲しくてこんな奴らのお祝いパーティに行かなきゃならないんだ。というか誘うな。元カノだぞ。祝福なんてできるはずがない。

(でも、会社の人を集めたパーティって言ってたし……私だけ参加しなかったら、変な噂を立てられるかも)

 急に喉がカラカラになって、手元のレモン水を口に含む。柑橘の爽やかな香りでかろうじて理性を保たせながら、私は頬を引き攣らせつつ二人の方へと目を向ける。

「す……少し、顔を出すくらいなら」

「本当!? わぁい、嬉しい!」

 日時は後で連絡するねと上機嫌に話しながら、香織は隣の陽介さんを恍惚とした目で見上げた。陽介さんは戸惑いながらも、横目でちらと私を伺う。

 ……青白い顔でうつむく私を見て、彼は何か感じてくれただろうか。早く終われと心で唱える私を嘲笑うかのように、テーブルの側へ現れた店員が「パンケーキの焼き上がりまで30分です」と地獄を告げた。





 午後の仕事がひと段落して、ちょっと休憩、と席を立つ。

 見積書の用意はしたし、返すべきメールも全部返した。会議室も無事に押さえられたし、ひとまず仕事は順調と言えるだろう。

 営業事務は楽じゃないけど、やりがいがあって向いていると思う。むしろ仕事に楽しさがあるから、陽介さんと香織がいるこの会社でも通おうと思えるのかもしれない。

(さて、ちょっと休憩しよう)

 ふらりとオフィスを出て廊下の先にある自販機へと向かう。仕事に休息は必要だけど、こういうふとした折にお祝いパーティのことが頭をよぎり、胃がきりきりと痛み出すから本当に困ってしまう。

 眼鏡を外して眉間を揉みながら転職サイトのCMを思い出していると、ふいに曲がり角の奥から話し声が聞こえてきた。

 自然と止まる私の足。だって、聞き間違えるはずがない……陽介さんと、香織の声。

「……でも、本当に来るって言うとは思わなかったね」

「まあな」

 まさかと思い様子を伺えば、自販機の前で談笑する二人の姿が見える。どうやら二人とも仕事の合間に飲み物を買いに来たようだ。

「でもさあ香織、あれは気まずいよ。俺、一応逢子ともちゃんとオツキアイしてきてたんだから」

「知ってる。だから呼ぶんでしょ、全部終わりだってわからせるために。それに、いつまでも未練タラタラだったら逢子の方も可哀想だし、パーティを通じてきっぱり諦めさせてあげるのが優しさだよ」

「別にそんなことしなくたって、俺、逢子とかもう興味ないからな? 香織がいるのにあんな……あんな女をキープしておく必要もないし」

 盗み聞きなんてしちゃダメだ。

 早くここから立ち去ろう。

 わかっているのに足が動かない。そして、全神経が左耳に一気に注ぎ込まれたみたいに、私の身体はひとことの声も聞き漏らすまいと集中してしまう。

「キープなんてひっどーい。逢子、きっと泣いちゃうよ?」

「でもさあ、仕事だから優しくしてやっただけなのに、勝手に勘違いされてさ。地味だし、暗いし、可愛げもないし、正直ウザかったんだよな。そういう香織だって、……名前なんだっけ? あの、猫背で暗い地味男に好かれてるって話じゃん」

「やめてよ、それこそ迷惑なんだって。ほら、喋っただけで好きになっちゃう陰キャ特有の誤解ってやつ」

「まあそうだよな。でも気をつけろよ? ああいう連中はちょっと優しくするとすぐ調子に乗るんだから」

「わかってるって。陽介も、これからはもう逢子に優しくするのはやめてあげなね。あの子、男に縁ないタイプだし、また勘違いしたら可哀想だよ」

「心配するなよ。別に大丈夫」

 はっ、と陽介さんは鼻で笑った。

「あいつは気が弱い良い子ちゃんだから。素直に従うだけが取り柄の女だよ」

 もー陽介ったら、それはさすがにシツレイだって。いいんだよ別に。本当のことなんだから。……じゃれ合うような笑い声を聞きながら、私は全身の血がふつふつと煮え滾っていくのを感じていた。

 膝がかすかに笑っている。わななく唇から漏れた吐息が、自分でもびっくりするくらい熱くなっているのがわかる。

 勝手に勘違いされていた?

 正直ウザかった、だって?

(冗談じゃない)

 自分から告白してきたくせに、どうしてそんな嘘を吐くのだろう。香織も香織だ。私は同期として彼女のことをきちんと尊重してきたはずなのに、どうしてああも見下されなければならないのか。

(私が何をしたっていうの)

 あのときテーブルの下できつく握りつぶしたはずの感情が、腹の奥底から這い上がってくる。

 こいつらをぶん殴りたい。蹴っ飛ばして、踏みつぶして、馬鹿にするなと怒鳴り散らしたい。

 でも、できない。

 そんなことをしたところで、得るものなんて何もない。ただ腫れ物扱いされて、職場にいづらくなるだけだろう。

 ――あいつは気が弱い良い子ちゃんだから。

 この言葉を弾き返すだけの、勇気も覚悟も私には無い――。

「あの」

「ひっ!?」

 突然耳元から低い声がして、私は危うく跳ね上がりそうになった。とっさに両手で口を抑える。向こうの二人は……お喋りに夢中。どうやら聞かれずに済んだようだ。

 いったいいつやって来たのだろう、私の背後に一人の男性が立っている。分厚いレンズの黒縁眼鏡、伸ばしっぱなしでぼさぼさの髪、お年寄りみたく露骨な猫背に、溢れる陰気で根暗なオーラ。

 一瞬間を置いて名前が浮かんだのは、この人が同じオフィスの、隣の部署で働く人だったからだろう。

 新倉にいくら淳紀じゅんき

 容姿も仕事ぶりも目立ったところのない、でも、取り立てて悪評も聞かない……去年転職してきたばかりの物静かな新入社員。私も仕事の関係で少し話したことはあるけど、それ以上の関わりは無し。というか彼が人と談笑しているところを見たことがない。

 そんな彼から声をかけられたものだから、私は驚きと混乱ですぐに反応ができなかった。間抜けに口を開ける私を分厚い眼鏡越しに見つめ、それから彼は曲がり角の奥の自販機の方を顎で指す。

「飲み物」

「へっ?」

「何が欲しいの。お茶? コーヒー?」

「え、え、ええと……お、お茶? お茶、です、はい」

 新倉さんはひとつ頷き、ぬうっと角を曲がっていった。うおっ、と陽介さんの声が聞こえて、それからピー、ゴトンが二回。

 再び影の中を這うように戻ってきた新倉さんの手には、麦茶と緑茶のペットボトルが一本ずつ握られていた。

「どっちがいいの」

「え!? あっ、私、どっちでも」

「そう」

 意味がまったく理解できずにたじろぐばかりの私の元に、麦茶と緑茶のペットボトルがぐいと優しく押しつけられる。

 それから彼は顔を近づけ、ほんの少しだけ声を落とすと、

「両方あげるから、今夜付き合って」

 ぞくっとするほど低い声で、囁くようにそう言った。


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