第22話 ゼノフィリウス

風の強い午後。


ノルドは、馬の背に揺られて坂を進んでいた。


外套の肩には、いつの間にか雪がうっすらと積もっている。

顔は坂の上へ向けているものの、視線は落ちたままだった。


やがて坂は行き止まりに突き当たった。

低い崖が道を塞いでいる。


ここでノルドは静かに馬を降りた。

馬の首を軽く撫でてから、肩越しに振り返る。

伸びるにまかせた草の奥に、一軒の家があった。

屋根で風見がカラカラと音を立てる。


─相変わらずだな。


困惑にも似た苦笑を浮かべ、家の戸口に立つ。

しばらくの躊躇の後、ノルドは扉を叩いた。


ギギギ…と、耳障りな音を立てて、扉が開く。


薄暗い中、細身の男が現れた。


庭の草同様に、長く伸びた髪と無精髭。髪の間から見える高い頬骨がやけに目立っている。

俯き加減で戸口に立ち、目だけを上へ動かした。


「…思っていたより、お早いお着きでした」

わずかに頭を下げて見せる。


「お久しぶりです。殿下」


ノルドは、無言で小さく頷いた。



荒れ放題の庭に比べると、家の中はまだ片付いている方だった。

とはいえ、まともとは言い難い。


まず、目に入るのは本だった。


壁際だけでは収まらず、床の上にも積み上げられ、いくつもの塔を作っている。天井に届きそうなものすらあった。


その合間を埋めるように、用途の分からない道具や器具が無造作に置かれている。金属のもの、木製のもの…ガラス製もあった。


木の卓の上には、食べ残しが乗ったままの食器が放置され、そばにはインクに浸かったままの羽ペンと紙が散乱していた。


「とりあえず暖炉へ。火を入れておきました」

言いながら、男が椅子をすすめる。そのまま家の奥へ姿を消した。


ノルドは軽く室内を見まわし、腰を下ろした。


奥で、ガチャガチャと固いものがぶつかる音がする。

しばらくして、男が茶色い液体の入ったカップを持ってきた。

ノルドに差し出す。


「どうぞ。例の酒です。温まりますよ」


「悪いな。ゼノフィリウス」

そう言って、ノルドはカップを受け取った。


「この酒で、俺は救われたようなもんだ」


そう言って、ノルドはカップに口をつける。


ゼノフィリウスと呼ばれた男も、手近な丸椅子を引き寄せ、もうひとつのカップに酒を注ぐ。強い酒の香りが、埃の匂いを押し除けるように広がった。


「あれは夏の終わりでしたから…二年と少し経つのですね」


そう言いながらカップを覗き、一口飲んだ。視線を再び琥珀色の液体に戻す。


「…この酒の出どころをご存知なければ」

視線はカップの中のまま、言葉だけが続く。


「私とて、到底信じませんでしたよ」


とん、とかるい音を立てて、カップを机に置いた。そして顔をあげ、ノルドへ向き直る。


「突然、戸口に現れた大男が、自分はルドヴィク・ランデルだと、名乗ったところでね」


空気がわずかに張り詰めた。

ノルドは何も言わない。

ただ、ゆっくり目を閉じた。

カップを持つ手が、わずかに震えていた。




堕ち竜討伐の夜。


落馬した衝撃と、途切れる視界。


その瞬間を境に─俺は “ルドヴィク“ ではなくなった。


そばにいた連中は、俺が狂ったと知ったとたん姿を消した。


それから先は、曖昧だ。

どうやってここまでたどり着いたのか、思い出せない。ただ…。


ゼノフィリウスなら。


この男なら、何か知っているかもしれない。その一心だった。


「…あの時、お前が俺を追い返していたら」


目を瞑ったまま、カップを握る手に力がこもる。


「俺はこの首を掻き切っていた」


薄暗い部屋に、沈黙が落ちる。

暖炉の炎だけが、冴え冴えと明るい。


─あの時。俺は戸口の前を塞いでいた。


この男は、あからさまに迷惑そうな顔で扉を閉めようとした。しかしついに根負けしたように中へ招き入れ、驚くことに酒を勧めてきた。


狂人への同情か-それは分からない。


小ぶりの樽をテーブルに置き、目の前でカップに注ぐ。樽の側面で変色したプレートが、視界に飛び込んだ。


「良い酒なんだ。気分が落ち着くと思うよ」

そう言いながら、カップを差し出す。


俺は─受け取れなかった。


この酒は。


「…叔父上が、王の凱旋に用意したものだ」


掠れた声で言葉を押し出す。


「俺が、お前のために、ひとつくすねてやった」


ゼノフィリウスが、カップを手のひらに押し付けてくる。


「ひとまず飲んで」


「それから話を聞きます。ルドヴィク殿下」

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