西町屋の西の町屋さん

「いらっしゃいませー!」

元気な挨拶が響く店内に、男はフラフラと足を踏み入れた。

空腹でもう限界だった。

限界の頭で「町屋」という文字だけを頼りに滑り込んだのだ。

男はカウンターを探したが、見当たらず、近くにいた若い女性店員にすがるように声をかけた。

「す、すみません……牛丼をください。頭マシの、つゆだくで……」

店員は一瞬、きょとんとした顔をした。

目の前にあるのは、山積みにされたベビー服や、可愛らしいキャラクターもののオムツだ。

「あの……お客様。大変申し訳ありませんが、ここは牛丼の『町屋』ではなく、子供服の『西町屋』です」

「そんな……。西に町屋があるから西松屋じゃないのか……」

「あ、いえ……。本当の町屋さんはここからずっと西の方にございますよ。ややこしくてすみません……」

「無理です……もう一歩も動けません。お腹がすいて死んでしまう。ここで牛丼を食べるまでは、絶対に動きません!」

男はその場にガックリと膝をつき、まるで小さな子供のように床でだだをこねてしまった。

若い店員が困り果ててオロオロしていると、奥からカツカツと力強い足音が響いてきた。


現れたのは、胸に「店長代理」のバッジを光らせた、見るからにベテランの女性店員だった。

彼女は床の男を鋭い目で見下ろした。

「ちょっと、どうしたの?」

「あ、先輩! 実は、このお客様が松屋と間違えて入ってこられて、牛丼を出さないと動かないって……」

若い店員が事情を説明すると、ベテラン店員はふっと不敵な笑みを浮かべ、バシッと自分の胸を叩いた。

「何を言ってるの! 我が西町屋のモットーを忘れたの? お客様は神様です! いかなるご要望にも応えなければプロ失格よ!」

「えっ!? でも、うちは子供服の専門店ですよ!?」

ベテラン店員は店内に響き渡る声で、全スタッフに向けて叫んだ。

「みんな! 業務中断! お客様のために、総力を挙げて牛丼を作るわよ!」

「「「はいっ!!!」」」

スタッフたちの目の色が変わった。

西町屋のプロフェッショナルたちの、驚異的なチームワークが回り始める。

「インファント担当! 大人の男を満足させるつゆだくにするわよ! 離乳食コーナーからお肉とお野菜のレトルトを贅沢に3パック持ってきて! キッズ担当は、ディスプレイ用のベビー食器を洗って消毒! レジ担当は、離乳食の『赤ちゃん用おかゆパック』を3個すべて全速力で温めるのよ!」

わずか数分後。男の目の前に、湯気の立つ器が差し出された。

「お待たせいたしました。西町屋特製、和風だし仕立ての『赤ちゃんも安心・つゆだく牛丼風おかゆ(大人サイズ)』でございます!」


男が顔を上げると、そこにあったのは可愛らしいウサギのイラストが描かれたピンク色のプラスチック製ベビー食器だった。

3個分のおかゆと3個分のレトルトが並々と注がれ、器からはみ出しそうになっている。

そして、添えられているのは、大人の指先ほどしかない小さな離乳食用スプーン。

「おおお……!」

男はなりふり構わず、小さなスプーンを握りしめてちびちびとかき込んだ。

細かく刻まれた柔らかいお肉と、お野菜が優しいお出汁で煮込まれ、3個分のおかゆの上にとろりと乗ったそれは、信じられないほど胃に優しく、そして大満足のボリュームだった。

「うまい……うまいです……!」

大男がウサギさんの器を抱え、小さなピンクのスプーンで熱心におかゆを高速で口に運ぶ姿は、店内に何とも言えないシュールな空気を生み出していた。

そんな様子を、オムツを選んでいた他のお客様の親子が遠巻きに目撃してしまう。

「ママ、みて! あの大きい人、あかちゃんのごはん食べてる!」

「しっ! 見ちゃいけません!……ほら、あっちのオモチャ見に行こうね」

母親は子供の手を引いて足早に立ち去り、店員たちは気まずそうに目をそらした。

しかし、当の男は涙を流して完食し、すっかり元気を取り戻して立ち上がった。


「ありがとうございました。命を救われました。お会計は……」

ベテラン店員はにっこりと微笑み、パチリとウィンクをした。

「お客様は神様ですからね。……はい、こちらがお会計になります」

差し出されたのは、レジから綺麗にプリントアウトされた長いレシートだった。

男が目を落すると、そこには驚異の内訳が並んでいた。

赤ちゃん用おかゆパック(3個パック)…… ¥398

離乳食・お肉とお野菜のレトルト×3パック …… ¥474

ウサギさんベビー食器セット(スプーン付き)…… ¥1,480

「合計で、2,352円になります。食器はお持ち帰りいただけますよ!」

「た、高っ……!!! 牛丼4杯食えるわ!!!」

男は財布から震える手でお札と小銭を出し、ウサギさんのピンクの器を小脇に抱えながら店を出た。

財布はすっかり軽くなったが、胃袋は合計6パック分のベビーフードでパンパンに満たされている。

男は手元に残った可愛いウサギの食器を見つめ、夕暮れの街で固く、固く誓った。

「西町屋の西には町屋がある……よし、覚えた。もう二度と、間違えないぞ……!!」

今はもう、牛丼をハシゴする余裕など一ミリもない。

男はピンクの食器を大切そうに抱え直し、お腹をさすりながら、今度こそ西にある本物の町屋……ではなく、自分の家へとトボトボと帰路につくのだった。

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