第5話 『Hi there.』
「……ということがあったの」
夕食の後、私は動共研での出来事を含む一部始終をお父さんに報告していた。
伴生動物霊をどうするかについては、最終的には本人の意思を尊重して決めることになるらしい。
けれど、私のような未成年の場合は保護者にも相談したうえで判断し、後日あらためて本人と保護者の意向を確認する決まりになっていると、我如古さんは説明してくれていた。
もし親御さんに信じてもらえないようなら、自分が電話で直接話をするから時間を気にせず連絡してほしいと、我如古さんは業務用携帯の番号まで教えてくれていた。
お父さんは特段驚くような様子も見せず、黙って私の話を聞いていた。
否定もしないし、妙に慌てることもない。
ただ、その顔は初めて聞く話をそのまま受け止めているというより、何かを思い起こしながら、じっくりと考えているようにも見えた。
お父さんからのリアクションを待つ間、スマホを握る手に込める力が心なしか強まっていく。
「香織に憑いているっていう、その動物の霊は……今もそこにいるのかな?」
お父さんは確かめるようにそう尋ねてきた。
「うん。今は食器棚の上からこっちを見下ろしてる。高いところが安心するみたい」
「そうか」
お父さんは食器棚のほうへ目を向けた。
自分には視えないと言いながら、そこに本当に何かがいるのかを探るような目つきだった。
「その子のことが怖いかい?」
「どうだろう? 動共研でいろいろ説明してもらったおかげかな……今はそんなに」
「そうか……」
お父さんはすぐには続けず、しばらく食器棚のほうを見たままだった。
「香織は自分で今、どうしたいと思っている?」
「私は……」
祓えば、今まで通りの自分に戻れるのかもしれない。
けれど、その先に起こるかもしれないことを思うと、どうしても祓うことを選びきれなかった。
それでも一つだけはっきりしていたのは、ビントロングの霊に対する漠然とした恐れが、もう私の気持ちの中心ではなくなっていたことだった。
「香織は自分で判断をつけられる年頃だとお父さんは思っている。それにどんな選択をするにせよ、あとで香織が後悔しないよう、お父さんにできることは何でもする。だから、安心しなさい」
「うん……」
ふと視線を上げると、仏壇のおばあちゃんの遺影とも目が合った。
いつもと変わらぬその笑顔に励まされた私は小さく会釈するように、思わず頭を下げていた。
◇ ◇ ◇
「ふぅ……」
お風呂から上がり、自分の部屋まで戻った私は大きく息をついた。
「あのボディソープ、本当に効くのかな?」
動共研からの帰り際、我如古さんに渡されたボディソープを私はさっそくお風呂で使ってみた。
体臭に変化が出てしまう伴生作用を抱えた相談者によく勧めている品らしい。
ついでに、出かける前に衣類へ軽く振りかけるといいというボディミストまで持たせてくれた。
今日、動共研から帰ってきてからというもの、ビントロングの霊はずっと視えたままだった。
我如古さんの話では個人差はあるものの、人間側の認識がいったん安定すると、伴生動物霊はそのまま視え続けるようになるらしい。
ビントロングは本棚と天井のあいだにある隙間に身を縮こまらせ、こちらの様子を警戒するように凝視し続けている。
思わぬ形でスメハラ対策が必要になってしまったことに私は文句の一つでも言ってやりたい気分だった。
でも、どこか怯えているようなビントロングを必要以上に怖がらせたくはないという思いから、それはやめておいた。
それに、そもそも文句を言って通じる相手でもない。
そういえば我如古さんはビントロングの目がきれいだと言っていたが、本当だろうか。
そんなことを考えている時点で、少し前の自分とはもう違っているのかもしれない。
私が本棚へ近づいていくと、ビントロングはしなやかな動きで本棚から降り、反対側の壁にある洋服ダンスの上へ移動してしまった。
ビントロング側の警戒心は相変わらずだったようだ……そう察した私は、これ以上近づくのはやめて正面の本棚へ視線を戻した。
何か気を紛らわせたくて背表紙を目で追っていると、端の方にしまってあったアルバムが目に入る。
懐かしいな、と思いながら手に取って開くと、それは小学生時代にインドネシアのジャカルタにあるインターナショナルスクールへ通っていた頃のものだった。
しばらくパラパラとアルバムをめくりながら、小学生時代の思い出を振り返った私は、やがてそれを本棚に戻すとベッドに入った。
今日はいろいろありすぎてさすがに疲れていたのか、ベッドに入ってから眠りにつくまで大した時間はかからなかった。
◇ ◇ ◇
――その夜。
私はジャカルタのインターナショナルスクールに転入して間もない頃の夢を見た。
白い壁に囲まれた教室には、いろんな肌の色や髪の色の子どもたちがいた。
くるくるの金髪の子、浅黒い肌の子、私と同じように黒い髪をした子。
教室にはエアコンが効いていたけれど、日本とは違った気候に慣れていない私にはそれでも蒸し暑く感じられた。
私は、のろのろと頼りない速さで回る天井のファンを、何度もうらめしく見上げていた。
先生が黒板の前で話している言葉は、全部英語だった。
周りの子たちはそれを当たり前みたいに聞いて、当たり前みたいに笑ったり答えたりしている。
けれど、当時の私には先生の言葉も、クラスメイトたちの会話も、知らない音が次々に飛び交っているようにしか聞こえなかった。
日本人学校に行くという選択肢もあったけど、お父さんと相談して、せっかくだから外国の言葉を勉強してみようとここへ来た。
そう決めたのは自分なのに、いざ教室の真ん中に放り込まれてみると、とても心細かった。
何を言えばいいのか分からない。
勇気を出して話しかけても通じなかったらと思うと、それだけでもう十分につらかった。
少し長めの休み時間に入っても私は席を立てず、授業内容をノートにまとめるふりをしながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
そのとき、向き合っていた机の横に影が落ちた。
“Hi there.”(こんにちは)と声をかけられ、顔を上げると、そこには同じクラスの女の子が立っていた。
黒い髪に、私と同じような色の目。
ただ、私はこのクラスにいる日本人は自分一人であり、つまり、自分と似た面立ちをした彼女が日本人ではないことも知っていた。
実際に話すのは、そのときが初めてだった。
彼女は私の隣の席を指さしながら、何かを訊いてきたが、私は戸惑ったまま言葉を返せなかった。
彼女は私の返事を待たずに隣の席へ座ると、微笑みながら見慣れない漢字が書かれたお菓子の袋を差し出してきた。
恐る恐る手を伸ばそうとした私を促すように彼女は何度も首を縦に振っていた。
彼女に勧められるまま、私は袋の中のスナック菓子を一つつまんで口に運んだ。
食べ慣れない風味が口いっぱいに広がり、思わず顔を少ししかめてしまう。
そんな私に対して彼女は特に気を悪くした様子も見せず、自分を指さしながら、“I’m Mei.”(私はメイ)と言った。
名前だ、と気づくのに少し時間がかかった。
私は慌てて自分を指さして“カオリ”と彼女に告げた。
それだけのやりとりだったのに、彼女はぱっと嬉しそうに笑った。
あとで知ったことだけれど、彼女――メイは台湾の出身だった。
英語は私よりずっと話せたけれど、メイもまだペラペラというほどではなかった。
同じように母国語が別にある者同士だったからか、うまく英語を話せずに固まっていた私のことを、からかうでもなく、面白がるでもなく、メイは自然に寄り添ってくれた。
次の日から、私は拙い英語でメイと少しずつ言葉を交わすようになっていった。
好きな食べ物。
好きな色。
犬と猫のどっちが好きか。
そんな他愛もないことばかりだったけれど、言葉がつっかえても、間違えても、彼女は何度でも聞き返してくれた。
そうした日々を過ごす中、英語で会話する力は自然に身に付いていき、それと同時に自分がよそ者という感覚も少しずつ薄れていった。
メイが微笑みながら私に声をかけ、受け入れてくれたあの日の出来事は、あの何とも言えないお菓子の味とともに私にとって忘れがたい思い出だった。
翌朝、目を覚ました私は軽く背中を伸ばしながら、本棚と天井のあいだへ目をやった。
ビントロングの霊は、ごく当たり前みたいにそこにいた。
“Hi there.”
小さく手を振りながら、私の口から思わずそんな言葉が漏れていた。
もちろん、英語で話しかけたところで通じるはずもない。
けれど、私の声の響きがいつもと違って聞こえたのだろうか。
ビントロングは疑念と好奇心が入り混じったような表情で、本棚から少しだけ身を乗り出していた。
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