第3話 星守神社

3.星守神社

__その日の放課後。


星那は授業が終わると、急いで教室を出ようとしていた。


だが。


「島居さん」


後ろから声がする。


振り返ると、冬雪が立っていた。


夕陽が窓から差し込み、白い横顔を淡く照らしている。


「……どうしたの?」


「昨日の神社」


冬雪は少し言いづらそうに続けた。


「もう一回行ってみてもいい?」


星那の胸が小さく跳ねた。


「え?」


「なんか気になるんだよな、あそこ」


冬雪は困ったように笑う。


「変な話だけど」


星那は少しだけ迷った。


でも。


「……うん。案内する」


気づけば、そう答えていた。


二人は学校を出て、海沿いの坂道を歩いた。


夕方の星影島は静かだった。


漁港には船が並び、潮の匂いが風に混ざる。


空は薄い橙色に染まり始めている。


「いい島だね」


冬雪がぽつりと言った。


「何もないけど」


「そういうのがいい」


穏やかな声だった。


観光気分で言っているわけじゃない。


本当に、この島の空気を好きになり始めているみたいだった。


「島居さんはさ」


「ん?」


「ずっとここにいたいって思う?」


突然の質問だった。


星那は少し考える。


「……昔は、島の外に憧れてたよ」


「へぇ」


「でも最近は、この景色が好き」


夕暮れの海を見る。


「ここじゃないと駄目な気がするから」


それはきっと。


八年前の約束を、まだ待っていたからだ。


冬雪は何も言わなかった。


ただ静かに海を見ていた。


やがて二人は、星守神社へ辿り着く。


石段の下で、冬雪の足が止まった。


「……どうしたの?」


「いや」


冬雪は鳥居を見上げる。


夕暮れの中に立つ朱色の鳥居。


風に揺れる鈴の音。


その瞬間。


冬雪の表情がわずかに変わった。


苦しそうに眉を寄せる。


「志水くん?」


「……なんか」


額を押さえる。


「頭、痛い」


星那の心臓が跳ねた。


「だ、大丈夫!?」


「平気……ちょっとだけだから」


そう言いながらも、冬雪は鳥居から目を離せないでいた。


まるで。


そこに何かを見ているみたいに。


「……ここ」


小さく呟く。


「知ってる気がする」


星那は息を呑む。


冬雪はゆっくり石段へ足を乗せた。


一段。


また一段。


迷いなく上っていく。


初めて来た人間とは思えないほど自然に。


星那は後ろからその背中を見る。


__八年前。


__あの日も。


ゆきは同じように石段を上っていた。


境内へ着く頃には、空は群青色へ変わっていた。


提灯に灯りが入る。


社殿の前では、母の星里が片付けをしていた。


「あら、星那」


星里は冬雪を見る。


「お友達?」


「えっと……同級生の志水冬雪くん」


「はじめまして」


冬雪が軽く頭を下げる。


その瞬間だった。


星里の表情が、一瞬だけ固まった。


ほんのわずか。


本当に一瞬だけ。


でも星那は見逃さなかった。


「……どうかしました?」


冬雪が聞くと、星里はすぐ笑顔を作った。


「ううん。ごめんなさいね。少し知り合いに似てたから」


嘘だ。


星那には分かった。


母は何か知っている。


でも星里はそれ以上何も言わなかった。


「ゆっくりしていってね」


そう言って社務所へ戻っていく。


冬雪は境内を見回していた。


そして。


まっすぐ裏山の方を見る。


星那の鼓動が速くなる。


「……あっち」


「え?」


「行ったことある気がする」


星那は言葉を失った。


__裏山。


八年前、ゆきと出会った場所。


冬雪は無意識みたいに歩き始める。


__細い石段。


__木々の隙間。


__暗くなり始めた山道。


その全部を、迷わず進んでいく。


やがて。


小さな開けた場所へ辿り着いた。


海が見える場所。


星が一番綺麗に見える場所。


八年前と同じ景色。


風が吹く。


木々が揺れる。


その瞬間。


冬雪が突然立ち止まった。


「__っ」


苦しそうに息を呑む。


「志水くん!?」


冬雪は頭を押さえ、その場に膝をついた。


「……だれ」


震える声。


「なんで……」


星那は駆け寄る。


すると冬雪は、怯えたような目で周囲を見た。


「ここで……誰かが……笑って……」


その言葉に、星那の胸が強く締め付けられる。


思い出してる。


少しずつ。


あの日を。


すると冬雪はゆっくり顔を上げた。


そして。


泣きそうな目で、星那を見た。


「……俺」


「君に、会ったことある?」


かすれた声だった。


風が止まった気がした。


星那は言葉を失う。


心臓がうるさい。


胸の奥が熱い。


苦しいくらいに。


目の前の少年は、泣きそうな顔をしていた。


まるで、自分でも分からない何かを必死に掴もうとしているみたいに。


星那はすぐに答えられなかった。


「……っ」


喉が詰まる。


“あるよ”


その一言が、どうしても言えなかった。


もし違ったら。


もし全部、自分の思い込みだったら。


期待した分だけ、壊れてしまいそうだった。


だから星那は、震える指を握りしめながら、小さく息を飲む。


冬雪はまだ苦しそうに頭を押さえていた。


けれどその視線だけは、ずっと星那から離れない。


「……ごめん」


冬雪が目を伏せる。


「変なこと聞いた」


「ち、違っ……!」


星那は慌てて首を振った。


でも上手く言葉にならない。


胸の中にあるものが大きすぎて、自分でも整理できなかった。


夕暮れが少しずつ夜に変わっていく。


木々が揺れる。


遠くで波の音が聞こえる。


その全部が、八年前の記憶と重なっていく。


__『約束』


__『また来る?』


__『うん』


あの日の声が、何度も頭の中で響く。


星那はそっと冬雪を見る。


白い横顔。


静かな目。


少し寂しそうな表情。


全部同じだった。


違うのは、名前だけ。


“ゆき”じゃなくて、“志水冬雪”。


それだけなのに。


それだけのはずなのに。


「……島居さん?」


呼ばれて、星那ははっとする。


まただ。


また、“志水くん”を見ながら、“ゆき”を探してしまっている。


星那は小さく俯いた。


まだ呼べない。


“ゆきくん”とは。


その名前を口にした瞬間、本当に認めてしまいそうだった。


この人が、“ゆき”なんだって。


ずっと探していた人なんだって。


だから星那は、自分を落ち着かせるみたいに言う。


「……少し、休む?」


「え?」


「顔、悪いから」


冬雪は少し困ったように笑った。


「大丈夫。ちょっと頭痛しただけ」


そう言って立ち上がろうとする。


けれど少しふらついた。


星那は反射的に、その腕を掴む。


「……っ」


触れた瞬間。


冬雪の身体がわずかに震えた。


星那も息を呑む。


冷たい。


八年前と同じ。


あの日、指切りした時に触れた手と同じ温度だった。


冬雪は一瞬だけ驚いた顔をして、それから静かに星那を見る。


その目があまりにも真っ直ぐで、星那は耐えきれなくなって視線を逸らした。


「……ご、ごめん」


慌てて手を離す。


鼓動が速い。


どうしてこんなに苦しいんだろう。


どうしてこんなに嬉しいんだろう。


すると冬雪が、小さく呟いた。


「……不思議」


「え?」


「島居さんといると、落ち着く」


星那の胸が大きく揺れる。


「初めて会った感じしないんだよな」


その言葉に、泣きそうになる。


でも、まだ駄目だった。


まだ信じきれない。


期待してしまうのが怖い。


だから星那は、ぎゅっと制服の袖を掴んだ。


すると冬雪は、少しだけ笑って言った。


「……島居さんって、優しいよね」


その笑い方が。


昔と重なった。


星那の中で、“志水くん”という呼び方が少しずつ揺らぎ始める。


でもまだ。


あと少しだけ。


あと少しだけ、怖かった。


だから星那は、胸の奥に溢れそうになる想いを隠したまま、小さく笑う。


「……志水くんの方が、変だよ」


「ひどくない?」


「急に頭痛くなるし、初めての場所なのに迷わないし」


「それは……俺もよく分かんない」


冬雪は苦笑する。


その表情を見ていると、星那は少しだけ安心した。


全部を思い出したわけじゃない。


でも。


確かに何かは残っている。


記憶の奥に。


消えていない。


そう思えた。


夜風が吹く。


木々の隙間から、一番星が見え始めていた。


冬雪は空を見上げる。


「……綺麗だな」


その横顔を見ながら、星那は静かに思う。


もしかしたら。


本当に。


この人は、“ゆき”なのかもしれない。


その考えが、今までよりずっと自然に胸へ落ちてきていた。

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