ある仕事の日
薄暗い待機室で、ももかはスマホを閉じた。
次の客のプロフィールが送られてくる。
『中川 38歳 リピート』
思わず、小さく息を吐く。
またか。
「メルちゃーん、お願いしまーす」
源氏名が呼ばれる。スタッフの声。
「はーい」
鏡を見て笑顔を作る。
仕事の顔。
もう何百回もやってきた。
◆
部屋に入ると、中川はいつものように異様に嬉しそうだった。
「メルちゃん~! やっと会えた!」
「久しぶりー」
甘えた声を出す。
本当は久しぶりでも何でもない。
二週間前にも会っている。
でも、中川はそれだけで顔を赤くする。
「今日も可愛いね……」
「ありがと」
「いやほんと、店辞めたら俺と付き合ってほしいくらい」
ももかは笑う。
笑うしかない。
「またまたー」
「いや本気だよ? 俺、メルちゃんのこと他の嬢と違うと思ってるし」
内心、溜息をつく。
恋愛経験の少ない客は毎回こうだ。
数回優しくされたくらいで、“自分は特別”だと思い込む。
ももかの事なんて何も知らない癖に。
なのに、“愛してる側”の顔だけはする。
「メルちゃんってさ、ほんとはこういう仕事向いてないよね」
「そうかなー?」
「うん。だって優しいもん」
薄っぺらい。
本当に。
中川は、自分に都合のいい幻想を愛しているだけだ。
良太は違った。ふとももかは思い出す。
職業を知っても態度を変えなかった。
説教もしなかったし、勝手に救おうともしない。
変に理想化もしない。
ただ、普通に接してくれる。
ももかが何を考えているか分からなくても、ももかの様子をちゃんと見ている。
この間も、私の様子がおかしい事を、敏感に察知した。
同じ未経験でも、ここまで違うのか。
人間って、同じカテゴリに入れてまとめて考えちゃいけないんだな、と、妙に真面目なことを思った。
「ねぇメルちゃん、今度店の外で会わない?」
中川が距離を詰めてくる。
ももかは反射で微笑んだ。
「えー、どうしよっかなー」
営業用の声。
媚びた笑顔。
慣れ切った反応。
中川は、それだけで嬉しそうにする。
簡単だ。
簡単すぎて、虚しくなる。
◆
仕事を終えて店を出る。
夜の十二時を回っていた。駅に向かう道は静かで、コンビニの光だけが白く浮いていた。
ももかは疲れ切った顔で駅へ向かった。
耳にイヤホンを差して、歩きながら、ももかは今日のことを頭から消していった。
仕事が終わったら、仕事のことは考えない。切り替えないと、やっていられない。それも三年で身についた習慣だった。
中川の顔が、すうっと薄れた。
良太の顔が、少し浮かんで、また沈んだ。
残ったのは、拓海だった。
会いたい。
思う前に、もう思っていた。考えるより先に体が思い出す感じ。拓海の部屋の匂いとか、あの低い声とか、眠たいときの顔とか。
今日、機嫌はどうだろう。
ももかが帰るまで起きてるだろうか。
怒ってたら嫌だな、と思う。思いながら、怒ってても会いたいな、とも思う。
自分でも意味が分からない。怒られるのが怖いのに、その怖さごと含めて引き寄せられている感じ。近づきたいのに傷つく、でもその傷つきごと欲しい、みたいな。
おかしい、とももかは思った。
おかしいけど、足は自然と、拓海のいるマンションの方角に向いていた。
今日、客に「本気で好き」と言われた。来週もたぶん同じことを言われる。
良太は、いつかもう一度、告白しようとするだろう。あの、言いかけてやめた続きを。
拓海は、ももかが帰ったら、不機嫌かもしれないし、珍しくやさしいかもしれない。どっちか分からない。
分からない方が、好きなんだよな、あたし。
良太といる時、自分はちゃんと人間になれる。
中川みたいな客を見た後は、なおさらそれが分かる。
なのに。
帰りたい場所は結局、拓海のいる部屋だった。
ももかはコンビニの明かりを見ながら、小さく笑う。
「ほんと、終わってんなぁ…私」
口ではそう嘯きながら、ももかは早く帰りたくてしょうがなかった。
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