第8話 ベッドと転生前
宿に着いて部屋へ戻ると、ベッドは相変わらず一つだった。
そりゃ、増えるわけがない。
私は、とりあえず二人きりの部屋から逃げたくなった。
転生前の私は、異性と親しくなった経験がなかったからだ。
この世界に来てから、ハズと同じ家で暮らしていても、基本的には部屋に一人で籠もっていた。
最初の頃はハズが付きっきりで世話をしてくれていたけれど、正直、今となっては毒や熱の影響であまり記憶がない。
回復した後は、食事の時や散歩の時はハズが一緒にいてくれた。
それでも、寝室で二人きりになることはなかった。
このまま二人きりでいる方が落ち着かなかった私は、着替えと手拭いを持って逃げるように部屋を出る。
「あの……身体を流してきます」
そう言って、一階のフロントへ向かった。
この世界にはお湯はあるけれど、浴室のような立派なものはないようだ。
ましてや宿だ。
宿で湯浴みをするには、フロントで沸かしているお湯を買い、男女別の掘っ立て小屋のような場所へ行き、水で薄めたお湯で身体を流すだけ。
家には石鹸もあったけれど、旅先まで持ってくるものではないようなので、ただお湯で流して手拭いで拭いただけだった。
それでも、一日歩き回った身体は十分さっぱりした。
身体がさっぱりすると、心も少しだけ軽くなった気がした。
先ほどよりも少し落ち着いた心持ちで部屋へ戻る。
――大丈夫。勘違いしない。
だって、ハズはイフの夫であって、私の夫なわけじゃない。
そう考えながら部屋へ戻ると、ハズも身体を流してきたようで、少し湿った髪のまま鞄の中を整理していた。
私は何気なくベッドへ腰掛ける。
ハズが一瞬こちらへ視線を向けた気がしたけれど、私は気にしなかった。
「今日は疲れましたね」
私は髪を手拭いで拭きながら言った。
ドライヤーのような電気製品は、この世界にはない。
「……そうだな。体調は大丈夫か?」
「ずっと心配掛けてすみません」
「いや……大丈夫ならいいんだ」
ハズは相変わらず優しい。
私は不意にハズの手元を見ると、鞄の整理をしているふりだったことに気付いた。
――ハズも、この部屋で戸惑ってたんだ。
一瞬、胸がドキッとした。
でも、ハズが優しいからって勘違いしないようにしないと。
「あの……ハズもベッドで休んでください」
私が状況に気付いたことで、ハズは気まずそうに鞄を置いた。
「いや……今、鞄の整理が終わったんだ。ありがとう」
そう言い訳をするように言うと、遠慮がちにベッドの端へ腰掛けた。
私は、転生前は仕事一筋だった。
恋なんて失敗ばかりだったから。
恋愛経験なんて、ないに等しい。
学生時代の恋では、両想いを期待したことは何度もあった。
私に優しくしてくれた人もいた。
でも、その人は優しい人だっただけ。
少しずつ距離が縮まったと思った人もいた。
でも、私は友達だった。
大人になって、自分は恋愛に向いていないと気付いた私は、仕事一筋で生きてきた。
だから私は、大人の男女が寝室で二人きりになった時、どうしたらいいのか知らない。
そんなことをぼんやり考えていたら、ハズの方から声を掛けてくれた。
「イフは……ニホンでは、どんな生活をしていたんだ? 子どもは? 結婚はしていたのか? 仕事は?」
ハズから、初めて私について尋ねられた。
これまで二人きりでいても、いつも私がこの世界について尋ねる側だった。
お酒が入って、ハズはいつもより少し饒舌になっているのかもしれない。
急な質問に、私は少し考える。
何から話そう。
「結婚はしてないです。子どももいませんよ」
「そうなのか」
「仕事は、ハズと同じ役人でした」
「役人だったのか?」
ハズは少し驚いた顔をした。
「はい」
私は少し笑う。
「でも、ハズみたいに立派じゃなかったですよ」
「……別に、俺は立派じゃ……ただ、毎日やることがあるだけだ」
ハズは少し照れたように頭をぽりぽり掻いた。
「私も、毎日やるべきことのためにいっぱい走り回りました」
「走り回った?」
「困ってる人がいると気になっちゃって」
「……」
「それで、上司によく怒られてました」
「……なぜだ?」
「目の前の人を助けようとして、他の仕事を後回しにするから」
「それで怒られるのか……ニホンの役人は大変なんだな」
「今日もまた、先に動いちゃいました。ソンさんに先に聞くべきだったのに、勝手に約束しちゃいました」
「約束?」
「明日も来ますって」
「別に構わないだろう。ソンさんも必要だって言ってたし」
「でも、ソンさんに先に聞くべきでした。ああいうのが昔からなんです」
ハズは眉を寄せる。
「私が働いていた場所は、村よりも大きな街だったから、子どももたくさんいて……私は、全ての子どもが伸び伸びできる社会になるよう調整しなくちゃいけなかったんです。でも……やりたいことと、できることの壁がいつも邪魔をして……」
「〝全ての子どもが〟か? そこに無理があったんじゃないのか?」
「……お金のある家の子も、ない家の子も。病気の子も、身体が不自由な子も、親がいない子も、ワガママな子も。役人がそれを選別してはダメでしょ?」
「……ワガママな子もか?」
「ワガママな子も。ワガママなのにも、必ず理由があるから。もっと早く気付いていたらって、今でも思い出す子がいるの……」
「……」
「子どもが育つには家庭が大事。だから、家庭の困ったことも見て、聞いて、できることを考えるのが私の仕事だった」
「……今日やったことみたいだな」
「ね。今日、ソンさんと一緒に歩いて、どこの世界でも同じなんだなって思った。私は前の世界では上手く役に立てなかった。だからこそ、シスタの姿を見て腹が立ったよ」
「腹が立ったのか? 誰にだ?」
「……分かんない。誰も悪くない。強いて言えば……何もできない私に」
「……そうか」
「シスタはまだ子どもなのに。あんな顔で笑う必要なんてない。私は、シスタが我慢しなくていい世界にしたい」
「イフは……何て言うか……イフじゃないんだな」
「え?」
「いや、イフなら……ずっと変えられなかったアーブ村を変えてくれる気がしてきたよ」
ハズの、不意討ちのような一言に喉の奥が詰まったように感じた。
ハズが、イフではなく私として見てくれている。
「ハズ……ありがとう」
ハズと話すうちに、何だか気持ちが少し前を向いてきた気がした。
ハズはこちらを見て柔らかく笑う。
「……イフ、敬語がなくなったな」
「へ? あ、ごめんなさい」
「いや、そのままがいい」
「え……?」
「夫婦なんだから、今さら敬語じゃなくてもいい」
「あ……うん。ありがとう」
ハズの優しさが、私の心をくすぐった。
本当に、勘違いしないようにしないと。
私はそう自分に言い聞かせた。
「……ところで、寝てもいいか?」
「あ、ごめん。うん。寝よっか」
「うん。おやすみ」
ハズは私に背を向けて横になった。
ハズがどんな顔で寝ているのかは分からない。
私はその背中へ向かって言う。
「おやすみなさい」
そう言って明かりを消した。
暗闇の中でハズの背中の気配が近い。
でも、それだけ。
それだけなのに、隣で眠るハズの気配が、「もう少しだけ、この人の隣にいてもいい」と言ってくれているような気がした。
そんな安心感に包まれながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。
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