第1話 最後の夏休み
あなたは、神様を信じますか?
私は……そうですね。
信じております。
けれど、それは姿の見えない何かに、ただ祈りを捧げるという意味ではありません。
本当に困り果てた人がいるとき。
もう歩けないと、ひとりで立ち尽くしている人がいるとき。
その人を見捨てず、そっと隣に寄り添ってくださるもの。
私は、そういった優しい存在を、神様と呼ぶのだと思います。
……ふふ。
これは、あくまで私の考えです。
けれど、そんなふうに考えてみるのも、悪くはないでしょう?
きっと世界は、あなたが思っているよりも、ずっと優しいものですから。
*
バスを降りた瞬間、熱が落ちてきた。
照りつける日差しが、頭の上から容赦なく降り注いでくる。アスファルトは白く乾き、山の匂いを含んだ熱気が、むっと足元から立ち上がった。背中の半袖に、もう汗が張りついている。
蝉の声が、うるさいくらいに響いている。
ミンミン、ジリジリ、シャワシャワと、種類も距離もばらばらな鳴き声が、山全体を覆っていた。静かなはずの場所なのに、耳の奥だけは妙に騒がしい。
「あっつ……。降りたばっかだけど、もうバスが恋しくなるなぁ……」
思わずそうこぼして、俺は腕で日差しを遮った。
振り返ると、さっきまで乗っていたバスは、土煙を残して山道の向こうへ消えていくところだった。エンジン音が遠ざかるにつれて、代わりに蝉時雨がいっそう大きくなる。
そこに立っているバス停の標識は、ずいぶん古びていた。
丸い看板の端は錆び、白かったはずの文字は日に焼けて薄くなっている。時刻表を覆うプラスチック板も曇っていて、指でこすれば粉っぽい埃がつきそうだった。
終点。
そう書かれた文字だけが、妙にはっきり目に残った。
正面には、ゆるやかな下り坂が続いている。
その先に、海があった。
山の緑を抜けた向こう側で、夏の海がまぶしく広がっている。陽光を反射して、青というより白くきらめいて見えた。その手前、坂の下に、ぽつんと村がある。
瓦屋根の家々。細い道。海へ向かって低く集まった建物の群れ。
遠くから見れば、どこにでもありそうな小さな海辺の村だった。
けれど、俺は知っている。
──俺は、
高校三年生の夏休みに、こんな山奥の終点バス停まで来てしまった。
理由は、まあ、簡単に言えば自由研究だ。
高校最後の夏を、何かで盛大に飾ってやろうと思った。
別に甲子園を目指していたわけでも、誰かに告白して青春の一ページを作ろうとしているわけでもない。ただ、何かを成し遂げたかった。自分で選んで、自分で決めて、自分の足でどこかへ行って。あとから振り返ったときに、あの夏だけは確かに俺のものだったと、そう言える何かがほしかった。
生まれてこの方、俺にはどうにも熱というものが足りない。
みんなが当たり前みたいに持っている熱を、俺だけがどこかに置き忘れてきたような感覚が、ずっとある。
だから、最後の夏くらいは。
せめて高校三年生の夏くらいは、自分から何かに手を伸ばしてみたかった。
そんな俺が選んだ自由研究のテーマが――
『
だった。
あの坂の下にある村。あれが、空蝉村だ。
きっかけは、夏休みに入る少し前。
学校帰りに立ち寄った古本屋で、たまたま一冊の観光雑誌を手に取った。
タイトルは『
旅行先や遊び場、地元の穴場スポット、知る人ぞ知る秘境なんかを紹介する、よくある情報誌だった。もっとも、その号が出たのは数年以上前で、発行していた会社はすでに倒産していた。
つまり、その雑誌はもう新しく出ることがない。
誰かが更新することもない。
そこで紹介されていた場所が、今どうなっているのかもわからない。
普通なら、そこで終わりだった。
少し古い観光雑誌を見つけた。それだけの話だ。
けれど、その中にあった小さな記事が、妙に頭から離れなかった。
地図にも載らない秘境。
夏になると、海と山の境目で蝉の声が途切れる村。
そして、かつて何人もの人間が忽然と姿を消したという噂。
空蝉村の神隠し。
記事の扱いは、ほんの数ページだった。
写真も粗く、文章もどこか古くさい。観光記事なのか怪談特集なのか、はっきりしない半端な内容だった。
だけど、俺はそのページを見た瞬間、なぜか思ってしまった。
ここへ行ってみたい、と。
そして今、俺は本当にその村を見下ろしている。
古びたバス停。
うだるような暑さ。
途切れることのない蝉の声。
坂の下には、海に抱かれるようにして眠る小さな村。
俺はリュックの肩紐を握り直し、ゆっくり息を吐いた。
「……さて」
カーキ色の半ズボンのポケットから、折りたたんだ雑誌のコピーを取り出す。
そこには、色あせた文字でこう書かれていた。
――空蝉村。
訪れた者の記憶に、夏だけを残す村。
胡散臭い。
正直、かなり胡散臭い。
だけど俺は、その胡散臭さに惹かれてここまで来た。
何もない夏にするくらいなら、少しくらい変な方がいい。
そう思って、俺は坂道へ一歩踏み出した。
足元で、乾いた砂利が小さく鳴る。
その瞬間、山の奥から吹いた風が、ほんの少しだけ蝉の声をさらっていった気がした。
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