第九話 お似合いだね
教授からいただいた特別休暇が終わって、平日はラボに通う日々に戻った。
「せっかくだから」と教授が言って、彼女にも出入りの許可が出た。彼女がビーカーを洗ってくれるぶんだけ、僕はまだ明るいうちに家に帰れた。
「今日、何食べる?」
帰りの車で、必ず僕が言う側だった。
「レストラン以外は何かある?」
「デリバリーはつまらないよね。テイクアウトなら、中華とタイカレーがあるね」
「あ! タイカレー! 面白いかも!」
いつも、そんな風に夕飯は決まった。
「あー、お腹いっぱい。あー、コーヒー入れてぇ」
「あいな」
お腹をさする彼女を横目に、コーヒーを沸かした。
その間に、テレビをつけて、ネットの日本ドラマを流した。
「へぇ、アメリカで日本のドラマ見れるの?」
「リアルタイムじゃないけどね。でも阪神戦はみれないんだよなぁ……」
彼女がドラマから目を離さずに言った。
「……初めての同棲がアメリカって、なんかいいね」
少し照れたような表情だった。僕は何も言わず、彼女の手に自分の手を重ねた。
次の土日、僕らは一泊二日のニューヨーク旅行へと向かった。これを終えて、彼女は帰国する。
スペンサーから車で片道四時間の道のりだ。ひたすら真っすぐ、何も変化のないハイウェイを走り続けた。やがて遠くの地平線の上に、灰色の蜃気楼のようなビルの群れが唐突に浮かび上がった。
「この景色……本当だったんだ……」
助手席で彼女が息を呑んだ。
橋に差しかかると、車の流れが一段速くなり、クラクションが遠くで鳴り、風が窓の隙間を抜けた。
彼女は膝を揃え、髪を整えた。僕はバックミラーに目をやり、自分の顔を一度だけ確かめ、ハンドルを右に切った。
巨大な橋を渡りきると、僕らはマンハッタンの喧騒に飲み込まれていった。
彼女の立てた計画は、有名な観光地をスタンプラリーのように回ることではなく、ただこの街の空気を吸いながら歩くことだった。セントラルパークの緑を歩き、五番街のショーウィンドウを眺め、屋台の安いホットドッグを頬張った。
メトロポリタン美術館の前を通り過ぎる時、彼女は建物を指して、さらりと言った。
「あそこは、次にする!」
『次』が聞こえて、僕の足が止まった。巨大な円柱を見上げた。円柱のてっぺんの葉の装飾を見て、また歩き出した。
マンハッタンのホテルはあまりに高すぎたから、宿はブルックリンに取っていた。
車をホテルに預け、夕暮れのブルックリンブリッジを見に行った。空は焦げたようなオレンジ色に染まり、背後にそびえる摩天楼が巨大なガラス細工のように夕陽を反射していた。
僕らは腕を組んで歩いていた。すれ違いざま、見知らぬ通行人が僕らに向けて片手を上げた。
“Aww, you two look perfect together.”
僕はそれに応えてハイタッチした。
「……なに? なんて言われたの?」
すぐさま彼女が聞いてきた。照れくさかったけど、今度は、そのまま伝えた。
「ふたり、すごくお似合いだね、だってさ」
彼女は一瞬、ぱちくりとまばたきをした。返事の代わりに、僕の肩を軽く叩いた。
二日目は、朝から自由の女神を観に行った。
快晴。
フェリーのデッキに立つと、切るような海風が吹き抜けた。潮の香りと、彼女の髪の匂いが混ざり合って鼻をくすぐった。
巨大な緑の像が近づくにつれ、彼女は「うわぁ……」と、子供のように声を漏らした。
女神の足元に立つと、アメリカの空はいっそう高く、果てしなく感じられた。
あまりの大きさに呆気に取られて空を見上げていた僕に、彼女が不意に声をかけた。
「誕生日おめでとう!」
……今日は僕の二十六歳の誕生日だった。忘れていた。
「日本時間で日付が変わるその瞬間に、一緒に来たかったんだ」
彼女はいたずらっぽく笑って、像を指さした。
「ほら、ここが『自由』の象徴なんでしょ。今日からが、君の『自由』のはじまりなのだ!」
キャラクターのような大げさな言い回しが、かえって胸の奥にまっすぐ落ちた。何か言おうとしたけど、息だけが漏れた。
彼女は急に真顔になって、僕の目を見た。視界が、急に滲んだ。
「あれ? 嬉しくない? 間違っちゃった?」
不安そうに首を傾げた顔が、たまらず近くて、僕は抱きしめていた。
「ちょ、恥ずかしいって……ま、いっか」
彼女も小さく笑って、僕の背中に手を回した。
周囲には大勢の観光客がいた。だけど、僕には見えなかった。しばらくの間、そのまま抱き合っていた。
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