午前三時の黒電話が鳴ると、俺の写真にだけ消された失踪事件が写る 〜妹を奪われた美人刑事と、記録から消された女たちを追うことになった〜 ダークプール・クロニクル

セト

第1話 午前三時、黒電話が鳴った

電話が鳴った。


最初、それが電話の音だとは思わなかった。


古い冷蔵庫が夜中に短く喉を鳴らすことはよくあったし、上の階の配管が、思い出したように水を吐くこともあった。隣の美容室の看板は、閉店後もときどき低く震えた。電気というものは完全には眠らない。目を閉じたふりをしながら、夜の底で小さく寝返りを打っている。


だから僕は、しばらく目を開けなかった。


音だけが、もう一度鳴った。


じりりりりん。


古い黒電話の音だった。


僕は目を開けた。


部屋は暗かった。カーテンの隙間から入る街灯の光が、床の上で細く伸びている。雨は降っていた。窓ガラスに細かい水滴がつき、遠くの道路を走る車の音が、濡れた紙を破るように部屋の奥まで届いていた。


枕元のスマートフォンを見る。


午前三時二分。


着信はない。通知もない。画面の中は、世界から切り離されたみたいに静かだった。


それでも、電話は鳴っていた。


じりりりりん。


リビングの隅に、黒電話がある。


前の住人が置いていったものだ。小さな木製のテーブルの上に、骨董品みたいな顔でずっとそこに座っている。大家に聞いたことがある。捨ててもいいですか、と。


大家は少し困った顔をした。


「まあ、邪魔ならいいですけどね。でも、なんとなく置いておく人が多いんですよ」


なんとなく。


人は、理由を言いたくないときによくその言葉を使う。


僕も結局、捨てなかった。


写真を撮る仕事をしていると、捨てられずに残っているものに妙な重さを感じることがある。壊れた椅子、閉店した店の看板、誰も吸わない灰皿、底に小銭だけが残ったレジスター。そういうものは、何かを語るわけではない。ただ、語られなかった時間を抱えたまま、そこにある。


黒電話もそうだった。


ただし、その電話に線は繋がっていない。


鳴るはずがなかった。


僕はベッドから起き上がった。


喉が渇いていた。口の中が妙に乾いている。まるで、誰かの夢を長いあいだ無断で吸い込んでいたみたいだった。


キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。白い光が足元にこぼれた。ゼロコーラのペットボトルを取り出し、直接飲んだ。炭酸が喉の奥で小さく弾ける。現実は、こういう安い刺激に弱い。飲み込むたびに、自分がまだこの部屋にいることを思い出す。


電話は鳴り続けていた。


じりりりりん。


僕はリビングへ歩いた。裸足の裏にフローリングの冷たさが触れる。部屋の隅、小さなテーブルの上で、黒電話が音に合わせてわずかに震えていた。


夢ではなかった。


そう思った瞬間、逆に夢のように感じた。


僕は受話器に手を伸ばした。


黒いプラスチックは、思っていたより冷たかった。冬の夜の石みたいに、こちらの体温を拒む冷たさだった。


受話器を取る。


ベルが止まった。


部屋が急に静かになる。


ただの静寂ではなかった。冷蔵庫の音も、雨の音も、車の音も、どこか遠くへ押しやられた。世界が受話器の向こう側とこちら側に分けられて、そのあいだに僕だけが取り残されたような静けさだった。


何も聞こえない。


僕は受話器を耳に当てたまま、しばらく動けなかった。


「……もしもし」


自分の声が、思ったより小さく出た。


返事はなかった。


ただ、奥の方に音があった。


水の音。


雨ではない。浴室でもない。もっと広い場所に溜まった水が、低い天井の下でゆっくり揺れているような音だった。室内プール。そういう言葉が、なぜか頭に浮かんだ。


僕はもう一度言った。


「もしもし」


沈黙の中で、何かが息をした。


それから女の声が聞こえた。


「……聞こえてる?」


若いとも、年を取っているとも言えない声だった。遠いのに、耳のすぐ内側にある。湿っているのに、妙にはっきりしている。


僕は答えた。


「聞こえてます」


長い沈黙。


そして女は、小さく息を吐いた。


「……よかった」


それだけで、部屋の温度が少し下がった気がした。


僕は誰ですか、と聞くべきだった。


どこからかけていますか。

どうしてこの電話が鳴るんですか。

あなたは誰ですか。


そういう言葉が頭の中で順番待ちをしていた。けれど、どれも口から出なかった。聞いた瞬間、何かが決まってしまう気がしたからだ。


女は言った。


「朝になったら」


そこで声が途切れた。


水音が少し大きくなる。


僕は受話器を握り直した。


「朝になったら?」


「濡れていない傘を見て」


「傘?」


「そこから、消える」


僕は息を止めた。


「誰が?」


女は答えなかった。


代わりに、遠くで金属が軋む音がした。プールサイドの椅子を引きずるような音だった。


「待ってください。あなたは誰ですか」


沈黙。


「どこにいるんですか」


女は少し笑ったように聞こえた。笑い声ではない。笑おうとして、途中でやめた声だった。


「まだ、沈んでない」


その言葉を最後に、通話は切れた。


ツーツーという音はしなかった。


ただ、何もなくなった。


僕は受話器を持ったまま立っていた。黒電話はもう震えていない。リビングの暗がりの中で、何事もなかったように黙っている。


冷蔵庫の氷が落ちる音がした。


その音で、世界が少しだけ戻ってきた。


僕は受話器を置いた。


時計を見る。


午前三時七分。


スマートフォンに着信履歴はない。録音もない。通知もない。つまり、この部屋で起きたことを証明するものは何もなかった。


記録がない出来事は、人に話した瞬間に弱くなる。


説明すればするほど、相手の中で小さくなる。最後には自分の方が間違っている気がしてくる。疲れていたんでしょう。寝ぼけていたんでしょう。そう言われれば、たぶん僕も少しはそう思っただろう。


でも、受話器の冷たさだけは、まだ手に残っていた。


僕はもう一度ゼロコーラを飲んだ。


炭酸は、さっきより苦かった。


それから窓際に立った。


雨はまだ降っている。街灯の光が雨粒に滲み、道路が黒く光っていた。隣の美容室のシャッターは閉まっている。入口の横には、いつもの傘立てがあった。


暗くて、傘までは見えなかった。


僕はカーテンを閉めた。


ベッドに戻っても、眠れなかった。


目を閉じると、女の声が戻ってくる。


聞こえてる?

よかった。

濡れていない傘を見て。

そこから、消える。

まだ、沈んでない。


言葉は、部屋の中に貼りついていた。壁紙の裏に染み込んだ湿気みたいに、見えないのに、たしかにそこにあった。


朝は、思ったより普通に来た。


窓の外が薄く明るくなり、新聞配達のバイクが通り、上の階で誰かが洗面所の水を出した。世界は何も知らない顔で、いつもの手順を始めていた。


僕は顔を洗い、歯を磨き、コーヒーを淹れた。


黒電話はリビングの隅にある。


昨夜と同じ場所で、昨夜と同じ形をしている。ただの古い電話だった。線の繋がっていない、鳴るはずのない電話。


僕は受話器を持ち上げた。


何も聞こえない。


昨夜のような深い沈黙ではなく、ただの無音だった。機械として死んだものの音。むしろ、それが普通だった。


受話器を戻す。


そのとき、外で人の声がした。


僕は窓際へ行った。


隣の美容室の前に、パトカーが停まっていた。


赤色灯は回っていない。けれど、そこにあるだけで朝の空気が硬くなっていた。雨は小雨になっている。道路は濡れていて、通行人の傘も濡れている。


美容室のシャッターは半分だけ下りていた。


開いているのでも、閉まっているのでもない。誰かが途中で何かをやめたような位置だった。


制服警官が二人。

店の奥に、私服の刑事らしい男。

そして、もう一人。


女がいた。


濃い色のコートを着て、髪を後ろでまとめている。背筋がまっすぐで、店内の白い床の上に立っているのに、その人だけ少し影の濃い場所にいるように見えた。


彼女は他の警察官と違って、すぐに動かなかった。


床を見る。

鏡を見る。

カウンターを見る。

店の奥へ続く扉を見る。


見る順番に意味があるように見えた。


僕は視線を入口横へ移した。


傘立てがある。


透明なビニール傘が一本だけ入っていた。


雨は降っている。


道路も、看板も、店のシャッターも、通行人の肩も濡れている。


でも、その傘だけが濡れていなかった。


僕の耳の奥で、昨夜の女の声が戻ってきた。


濡れていない傘を見て。


胃の底が冷たくなる。


カップの中で、コーヒーが小さく揺れた。自分の手が震えているのだと、少し遅れて気づいた。


僕は部屋を出た。


カメラを持つか迷った。


いつもなら持っていく。夜でも朝でも、外へ出るときはほとんど反射でカメラを手に取る。けれどその日は、持たなかった。カメラを持って出ると、何かを探しに行く人間になってしまう。


まだ僕は、自分が何を探しているのかわからなかった。


階段を下りる。


一階に近づくにつれて、外の音が大きくなる。濡れた道路を車のタイヤが撫でる音。遠くの踏切。コンビニの自動ドア。誰かの咳払い。朝はいつも、いくつもの小さな音でできている。


美容室の前まで行くと、制服警官の一人が僕に気づいた。


「すみません。こちらの方ですか」


「隣に住んでいます」


僕は答えた。


警官は手帳を出した。


「昨夜、何か変わった音や声を聞きませんでしたか」


黒電話。


女の声。


水音。


濡れていない傘。


それらが、頭の中で一列に並んだ。


僕はすぐに答えられなかった。


「気になることでも構いません」


気になることなら、いくらでもある。


けれど、線の繋がっていない黒電話が鳴りました、と言えば、この朝はどんな形になるのだろう。僕は事件の目撃者になるのか。変な隣人になるのか。それとも、自分でもわからないものを見た人間になるのか。


店の奥にいた女刑事が、こちらを見た。


まっすぐな視線だった。


信じる目ではない。


でも、聞かなかったことにはしない目だった。


彼女はゆっくり近づいてきた。


「午前三時頃」


その女は言った。


「起きていましたか」


僕は喉の奥が乾くのを感じた。


「……はい」


「電話が鳴りませんでしたか」


雨の音が、急に遠くなった。


僕は彼女を見た。


「どうして、それを?」


女刑事は表情を変えなかった。


ただ、手帳を開いた。


「十年前にも、同じことを言った人がいます」


それが、橘怜奈との最初の会話だった。


そしてその朝、僕はようやく理解した。


昨夜の電話は、終わった出来事ではなかった。


これから起きる出来事の、受話器だった。

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