第19話 異変
そうして、扉を少し開けた時、その隙間から何やら黒い影が次から次へと家の前の砂利道を横切っていくのが見えた。出し抜けのことで狼狽してしまった僕は、その慌てふためきのあまり仰け反るかたちで両手をつき、腰を落としてしまった。
"一体、今のは何だったのだろう"
冷静になって考えようとするけれども、あるはずの無い心臓が、あるはずのない鼓動を高鳴らせるので、僕は落ち着くことが出来なかった。すべては記憶の中にある感覚だというのに。
僕はそれでもゆっくりと立ち上がり、もう一度扉の隙間から外を覗く。
間違いない。黒い人たちだ。無数の黒い人たちが絶え間なく町から森へと続く砂利道を走っていく。
気付かれないようにそっと扉を閉じ、それに背を向けて玄関の地面に座り込んだ。背後からは足音が途切れることなく聞こえてくる。思うに、おそらく町に住んでいる黒い人の大半が森へ向かって走っている。何の理由があるのか、何の意味があるのかは分からない。
しかし、冷静に考えてみれば、これは思わぬ好機といえるかもしれない。何故なら彼らが森へ入ったころを見計らって町へ侵入すれば、僕は随分楽に町に入り少年の姿を探すことが出来る。
僕はそのまま彼らの足音がおさまるのを目を閉じてじっと待った。その間、輪郭のない思いや瞑想が浮かんでは消えていった。僕は自分が、がらんとた暗い空間に漂う時計の振子になったように感じた。空虚な闇に頼るところもなく漂い、無機質な音を立てて時を刻む。朧げに記憶されている心臓の音を想起する。愛おしい。今の僕には失われてしまった。切断したために今は既に失われているはずの腕が痛むという人の話を聞いたことがあるが、今の僕はそのような記憶の感覚のみを頼りにしてこの世界に存在している。本当の感覚はすべて失われてしまっているのだ。
――ハッ。
ふと目を開くと、辺りは静寂と闇に包まれていた。瞑想に耽っていて彼らの足音が消えたことに気付かなかった。今のような状況でうかつに自分の世界に入り込むのはよすべきだった。危うく自分を失ってしまうところだった。
徐に立ち上がり、扉の方へ向き直り再び少し開いてみる。ほの暗い砂利道を横切る影はもうない。恐る恐る家の外へ出て辺りを見回してみても、黒い人たちの姿は見えない。おそらく皆森の中へ入ってしまったのだろう。町へと入る好機は今しかない。
僕は町へと続く道を走り始めた。夜の湿った風が不安と恐怖のように僕に冷たく纏わりつく。黒光りする砂利を一歩一歩踏みしめて、僕は眼前に広がる邪悪で暗暗たる光景、虚空を貫こうとする鋭角の塔、そしてそれを中心に広がる城塞のような町の姿を睨みつけて離さない。
勿論すべては推測の上で行動、黒い人たちが森へ走って行ったのはそこで何かをするためで、それにはある程度の時間が掛かるはずであり、その間なら町での探索が可能だと考えて今走っている訳だけれども、もし仮にどこかの推測が外れて、例えば森へ行った黒い人の数は町にいる黒い人の中のほんの一部で、まだ町には無数の黒い人たちが潜んでいると考えられなくもないし、あるいは森での何らかの用事は実はすぐに済むもので、僕が町で探索をしている時に、あの大量の黒い人たちが今度は町へ一斉に駆け戻ってくるかもしれないのだ。
そしてもうひとつ考えられる最悪の展開は、すべては僕をはめる為の罠だったということだ。
そしてそれを考え始めると、どうしても少女が敵か味方かという議論に戻らざるを得ない。何故なら今の僕の行動はそもそも彼女に促されてたものだからだ。彼女は手紙で黒い人たちの騒動を予測し、その間に少年を探すことを提案した。そして現に僕は、彼女の提案に従っている。少女が味方なら、僕の思惑通りに事は進むだろう。少女が敵なら――そう考えた刹那、僕の脳裏にある瞬間の彼女の顔が浮かんだ。湖の外で僕が彼女に疑惑の目を向けた時、それを感じ取った時の彼女の顔だ。うら悲しげで寂しげな、哀れで切なく細められた彼女の瞳だ。
僕は胸が締め付けられるのを感じながら、それでもただただ走り続ける。僕にはそうすることしかできないのだ。
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