第16話 考えるべきこと
それからどれ程の時が過ぎ去ったのだろう。はたと目を覚ますと、僕は見覚えのある部屋の中で横になっていた。頬に触れる赤い絨毯からは、陽に焼けた毛織物の匂いがする。目線の先には文机の脚がある。朧げな意識が次第に明瞭になっていくにつれて、僕はここがどこであるかを思い出していった。先の祭りの日の夜、気絶した僕が例の少年によって運び込まれた部屋であった。
幸いなことにも(!)今の僕は所謂"身体的機能"を失っているので、一般的な人間であれば気だるさや倦怠でも感じるところであろうけれども、至って達者に身体を起こすことが出来た訳である。文机に肘をつき手で顔を支えるようにして、僕はこれまでの経緯をなんとか想起しようと試みることにした。
窓の向こうには、夜明け前のほの暗い闇が広がっていた。朝森へ入っていったので、それからおそらく一晩が経ったのだろう。少女と湖から出てきたとき、辺りはそれほど暗くは無かった。不可解なのは、少女と別れてからの半日の記憶が無いことだ。あれから、どうしたのだろう。思い出そうとすると、頭の芯に釘が埋め込まれるような痛み、無論それは比喩であって実際に痛みを感じているのではないけれども、何か考えが確信に思い至るのを拒んでいるかの如く、得体の知れぬ苦痛が僕を襲うのである。
仕方なく当てずっぽうに推測するに、僕は無意識のうちに自分の足でもってここまで帰って来たのだろうと思う。何の根拠もないけれども、それは決してあり得ない話ではないのではないだろうか。例えば、小児や若年の正常人は、ごく稀に眠りながらも発作的に行動したり話をしたりする。所謂夢遊病という症状である。精神に何らかの異常を抱えている人は元より、正常人であってもそのような不可思議な言動は為し得るのだ。ましてやあの時の僕が完全に自分を制御出来ていたかと言えば、答えるまでもない。
僕は立ち上がって窓辺へと歩き、窓外の景色を眺める。暁闇は深閑に統治され、規律正しく世界を包んでいる。そして、それはより一層この世界を不気味に見せている。
事態は喫緊している筈なのに、これほどまでに穏やかなのはどうにも落ち着かない。耳を劈くような悲鳴や、狂気に満ちた陰惨な光景が眼前に広がれば、あるいは僕はこの世界における現実感を取り戻すことが出来たかもしれない。しかし現実は往々にしてそうであるようにやはり叶わぬ夢に過ぎなかった。尤も、それは真意の願いではないけれども。
ともなく、今僕が考えなければならないのは、黒い人たちが少年を一体どこへ連れ去っていったのかだ。まず最初にいえるのは、彼らは町の外には出たがらない。あの町は謂わば彼らの聖域なのだろう。とすると、やはり彼らは町のどこかに連れていったのではないか。そう考えるのが自然だ。おそらく、今も少年は町のどこかで監禁されているのだろう。しかるべき時が来るのに備えて。
そこまで考えて僕は絶望せざるを得なかった。あの、彼らの聖域であるところの町の中へ入って行って、目敏い黒い人たちに見つからぬうちに、果たして少年を見つけることが出来るだろうか。そんなことは僕には到底無理なことのように思われた。何の策略もめぐらさないで行動することの危険性は、以前にわが身をもって思い知ったばかりである。けれども、策略といっても、圧倒的一方的に不利な立場にある僕に、なす術などあるのだろうか。
考えるほどに虚しさに苛まれ、半ば自暴自棄になって部屋に寝ころんだ僕の目に、何やら白いものが部屋の入り口に置かれているのが入った。起き上がって確認すると、それは何者かからの置手紙のようだった。
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