第3話 雨の匂い
放課後、空は朝よりさらに低くなっていた。
灰色の雲が街全体へ重たく垂れ込め、風の中には湿った雨の匂いが混じり始めている。教室の窓から外を見た瞬間、千紗は理由の分からない息苦しさを覚えた。
雨の日が苦手だった。
昔からそうだった気もするし、最近そうなっただけのような気もする。
その曖昧さが、自分でも怖い。
教師の終礼が終わると同時に、生徒たちは一斉に立ち上がり始める。部活へ向かう声、帰宅を急ぐ足音、椅子の擦れる音。教室の空気は急速に騒がしくなっていくのに、千紗だけが席から立ち上がれなかった。
窓ガラスへ、小さな雨粒がひとつ落ちる。
その瞬間だった。
頭の奥で何かが弾ける。
濡れたアスファルト。
夕暮れの滲んだ光。
赤いブレーキランプ。
そして、誰かの声。
『寒いんだけど』
笑っていた。
その声は確かに笑っていたのに、次の瞬間には激しい耳鳴りみたいなノイズへ飲み込まれ、輪郭を失ったまま消えていった。
千紗は反射的に机の端を掴む。
呼吸が浅い。
胸の奥がざわつき、うまく息が吸えなくなる。
「千紗?」
友人の声で、ようやく現実へ引き戻された。
千紗は慌てて顔を上げ、小さく笑う。
「ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「平気」
そう答えながら、自分でも嘘だと思った。
平気なはずがない。
最近、自分の中で何かがおかしくなっている。
記憶の断片だけが突然浮かび上がり、掴む前に消えていく。しかもそのどれもが、胸の奥へ妙な痛みを残していく。
千紗は鞄を抱え、逃げるように教室を出た。
廊下には雨の匂いが流れ込んでいる。
昇降口へ向かう途中、窓の外ではついに本格的な雨が降り始めていた。細い雨粒が白く街を滲ませ、グラウンドの輪郭まで曖昧に変えていく。
千紗は下駄箱の前で立ち止まる。
傘を持ってきていなかった。
小さくため息をつきながらスマートフォンを取り出した瞬間、画面へ表示された通知に視線が止まった。
着信履歴。
昨夜の知らない番号。
消していないことに気づき、千紗は無意識に唇を噛む。
なぜ消せないのだろう。
ただの間違い電話なら、気にする必要なんてないはずなのに。
けれど、その番号を消してしまった瞬間、本当に取り返しがつかなくなる気がした。
昇降口へ、生徒たちが次々と駆け込んでくる。
雨に濡れた制服の匂いが広がり、騒がしい声が反響する。その流れの中で一人だけ立ち尽くしていると、自分が世界から半歩ずれてしまったみたいだった。
「傘ないのか」
不意に背後から声がした。
振り返る。
悠真だった。
黒い傘を片手に持ち、濡れた前髪を軽く払っている。制服の肩には細かな雨粒が残っていて、外の冷たい空気まで一緒に連れてきたみたいだった。
千紗は小さく頷く。
「忘れた」
「天気予報くらい見ろよ」
呆れたように言うくせに、声音はどこか柔らかい。
悠真は少し黙ったあと、持っていた傘を軽く持ち上げた。
「駅までなら入るか」
千紗はすぐに返事ができなかった。
断る理由はない。
なのに胸の奥が妙に落ち着かない。
悠真とこうして並ぶこと自体が、久しぶりだった。
以前はもっと自然だった気がする。隣を歩くことも、くだらない話をすることも、特別な意味なんてなかったはずなのに、今はその距離が妙に近く感じる。
外へ出ると、雨は思っていたより強かった。
傘へ当たる雨音が絶え間なく響き、灰色の空が街を薄暗く包み込んでいる。二人は並んで歩き始めたが、会話はほとんどなかった。
肩が触れそうで触れない距離。
その曖昧さだけが、妙に意識へ残る。
歩道橋が見えてきた瞬間、千紗の胸が強くざわついた。
まただ、と思う。
あの場所を見るたび、呼吸が浅くなる。
理由は分からない。
けれど身体だけが覚えている。
雨に濡れた歩道橋は、夕暮れの中でぼんやり光って見えた。金網には無数の雨粒が張り付き、下を流れる車のライトを歪ませている。
千紗は無意識に足を止めた。
悠真も立ち止まる。
「どうした」
千紗は答えられない。
その瞬間、頭の奥へ鋭い痛みが走った。
雨の匂いと、途切れることなく鳴り続ける着信音が、突然胸の奥へ蘇る。夕暮れの赤信号が滲み、その向こう側で誰かがこちらを見ていた。
『待ってるから』
その声が耳へ触れた瞬間、心臓が強く脈打つ。
呼吸が乱れる。
胸の奥を強く掴まれたみたいに苦しくなり、うまく息が吸えなかった。
視界の奥で、歩道橋の景色と知らない記憶がゆっくり重なり始める。
千紗は思わず手すりへ触れた。
冷たい。
その温度が現実なのか記憶なのか、一瞬分からなくなる。
悠真が静かに千紗を見る。
その目には心配だけではなく、何かを恐れる色まで混じっていた。
「千紗」
呼ばれた瞬間、千紗ははっと顔を上げる。
雨音だけが響いている。
車のライトが濡れた道路を滑り、赤い光がぼんやり滲む。
その景色を見た瞬間、千紗は唐突に理解した。
自分は、この場所で何かを失った。
まだ名前も形も思い出せない。
それでも、その事実だけは胸の奥へ静かに沈んでくる。
雨は止まない。
まるで忘れることを許さないみたいに、静かに降り続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます