第9話 出力不足の元生徒は、消えかけた魔灯を直す。だが黒霧は地面の下を流れていた
王立学院が、失った記録を集め始めた頃。
ルーウェン辺境領の北の柵では、消えかけた魔灯の下で、黒い湿りが土に染みていた。
水ではない。
雨の跡でもない。
まるで、黒霧の流れが地面の下を通ったような跡だった。
その前に、エルナ・リードがしゃがみ込んでいる。
王都では、出力不足と呼ばれていた元生徒。
今はこの辺境で、魔灯と結界杭を守っている。
作業着の膝が土で汚れることなど気にしない。
手袋をはめた指で魔灯の外枠を軽く叩き、耳を近づける。短く結んだ髪が頬に落ちたが、彼女はそれも払わなかった。
「……芯は生きています」
エルナは小さく呟いた。
ロイドが肩の力を抜く。
「直せそうか?」
「はい。完全に沈んでいたら交換でした。でも、これはまだ間に合います」
その言葉に、ミナが小さく顔を上げた。
ガルドは腕を組んだまま、少し離れた場所で見ている。口では何も言わないが、視線は魔灯とエルナの手元を行ったり来たりしていた。
レオンは、エルナの作業を見る。
手つきは昔と変わっていない。
派手さはない。
魔力を一気に流し込むこともない。
ただ、細く、長く、乱さずに流す。
王都では評価されにくい力だった。
◇
「先生」
エルナが魔灯を見たまま言った。
「この子が、さっき揺れを止めたんですか」
「ああ」
レオンは頷く。
「三秒だけな」
「三秒あれば十分です」
エルナは短く答えた。
ミナが驚いた顔をする。
「じゅ、十分……なんですか?」
「はい」
エルナは振り返り、ミナに微笑んだ。
「魔灯は、魔石の芯に細い魔力を流して光らせる道具です。芯が沈んでしまうと、外からどれだけ魔力を入れても光りません。水に落ちた火種みたいなものです」
ミナは、魔灯の奥を見た。
小さな魔石の中心で、濁った光がかすかに揺れている。
まだ灯りではない。
けれど、完全な闇でもない。
「さっき黒霧が入りかけた時、この芯が沈みそうになっていました。あなたは、それを三秒だけ止めた」
「でも、私……光らせられませんでした」
「光らせるだけが、魔灯を守ることではありません」
エルナは当たり前のように言った。
ミナは、その言葉をうまく受け取れなかったようだった。
「光らせるだけじゃ、ない……?」
「はい。芯が完全に沈めば、今日は直せませんでした。夜までこの周辺の灯りが消えたままになります。でも、あなたが三秒止めたから、火種が残ったんです」
ロイドが横から補足する。
「この辺りの魔灯が消えると、夜は本当に危ない。荷車が溝に落ちる。子どもが道を間違える。小さい魔獣も柵の近くまで寄ってくる」
ミナの指が胸の前でぎゅっと絡まる。
「灯りが消えるだけで……」
「辺境では、それだけで人が怪我をする」
ロイドの声は淡々としていた。
大げさな脅しではない。
ここでは、それが日常なのだ。
エルナは頷く。
「だから、この魔灯が沈まなかったことには意味があります」
ミナの目が揺れた。
できなかったことは、数えきれないほどあった。
点けられなかった。
動かせなかった。
みんなと同じように、魔力を流せなかった。
でも。
消さなかった。
その言葉だけが、ミナの胸の奥で何度も灯った。
◇
ガルドが横からぼそりと言う。
「でも点いてねえじゃん」
ミナの肩がびくりと跳ねる。
レオンはガルドを見た。
ガルドはすぐに顔を背ける。
「いや、別に責めてねえよ。ただ、点いてないのは本当だろ」
「本当です」
エルナが静かに答えた。
ガルドが少し意外そうに彼女を見る。
「今は点いていません。でも、壊れてもいません。辺境では、それが大事なことがあります」
「壊れてないだけで?」
「はい。壊れていなければ、直せます」
エルナは工具を取り出した。
「王都なら、明るく光らせた子が褒められます。でもこの村で本当に困るのは、夜に一本だけ道が暗くなることです」
工具の先が、魔石の周りにある細い金具へ触れる。
「派手でなくても、消えかけた灯りを戻せる魔力が必要になるんです」
ミナは黙って聞いていた。
その横顔に、レオンは見覚えがあった。
昔のエルナも、同じ顔をしていた。
自分の力は地味だと思っていた。
役に立たないと思っていた。
王都の評価で、自分の価値を決めていた。
「エルナ」
レオンが声をかける。
「その話は、君自身のことでもあるな」
エルナの手が一瞬だけ止まった。
それから、少し困ったように笑う。
「先生は、そういうところだけ昔から変わりませんね」
「見えたことを言っただけだ」
「それです」
エルナは魔灯に視線を戻した。
「昔の私は、それが怖かったです」
ミナが小さく問いかける。
「あの……エルナさんも、王立学院にいたんですか?」
「はい。王立学院の実技課程にいました。魔道具保守や調律を学ぶ、目立たない課程です」
「王立学院に……」
「でも私は、出力が弱かった。攻撃魔法も大きな結界も苦手で、魔灯を点けるのも遅かった。だから、ずっと“出力不足”と呼ばれていました」
ミナは、ぎゅっと胸元を押さえた。
その言葉が、自分にも刺さったのだろう。
「でも先生は、私の魔力を見て言ったんです」
エルナはレオンを見る。
その目には、静かな敬意があった。
「細く流せるなら、長く支えられる。急に光らなくても、消えかけたものを戻せるかもしれない、って」
ガルドが鼻を鳴らす。
「また先生かよ」
「また先生です」
エルナは平然と答えた。
ガルドが顔をしかめる。
「先生に教わったやつ、多すぎだろ」
「多くはありません」
エルナは工具を動かしながら言った。
「ただ、先生に見つけてもらった人は、たぶん忘れないんです」
ガルドは返す言葉を失った。
ミナも、レオンを見上げる。
レオンは少し困った。
「大げさだ」
「大げさではありません」
エルナは即答した。
「王都で“出力不足”と言われていた私が、ここでは魔灯を守っています。結界杭を直しています。夜に道を歩けるのは、私が流した細い魔力のおかげだと言ってもらえます」
言葉は静かだった。
だが、その奥には確かな誇りがあった。
「王都では、私の魔力は地味でした。でも辺境では、必要でした」
ミナは何も言えなかった。
ただ、消えた魔灯を見ている。
自分が光らせられなかったもの。
けれど、自分が少しだけ沈ませなかったもの。
その違いを、初めて知った顔だった。
◇
エルナは魔石に細い針のような器具を差し込み、ゆっくり魔力を流した。
淡い光が、魔石の奥に細く伸びる。
派手な光ではない。
強い魔法でもない。
しかし、さっきまで沈みかけていた芯が、少しずつ浮かび上がってくる。
ミナは目を見開いた。
「すごい……」
「すごくはありません。慣れればできます」
エルナはそう言ったあと、少し考えて付け足す。
「でも、向いていない人が無理にやると、魔石が割れます」
ガルドが小さく笑った。
「それ、俺がやったら割れるやつだな」
「割れると思います」
「そこは否定しろよ」
「火属性の人が芯を触ると、熱で歪みやすいんです。力が強いほど、向かない作業もありますから」
ガルドは妙な顔をした。
馬鹿にされたと思ったのではない。
向いていないことがある、と当たり前のように言われたのが意外だったのだろう。
それは同時に、向いていることもあるという意味だから。
レオンは言った。
「ガルドには、ガルドの使い方がある」
「……分かってるよ」
「まだ分かっていない」
「言い切るなよ」
「分かっていれば、そんな顔はしない」
「どんな顔だよ」
ガルドが噛みつく。
だが、以前のような棘だけではない。
ミナが小さく笑いそうになり、慌てて口を押さえた。
エルナは魔灯の調整を続ける。
魔石の奥の揺れが、少しずつ整っていく。
「ミナさん」
「は、はい」
「少しだけ、見てもらえますか」
「私が、ですか?」
「はい。触れなくていいです。奥の揺れが、さっきと同じかどうかだけ」
ミナは緊張した顔で魔灯を覗き込んだ。
肩が固まる。
息が止まりかける。
レオンは言う。
「息を止めるな」
「は、はい」
「それから、今の光を覚えようとしなくていい」
ミナが瞬く。
「光を、覚えなくていいんですか?」
「ああ」
レオンは魔灯の奥を指した。
「君が見るべきなのは、点いた後じゃない。消える前だ。揺れが戻る直前の濁りを覚えろ」
「消える前……」
「そこが見えるなら、消える前に止められる」
ミナは小さく息を吸った。
それは、光らせるための言葉ではなかった。
守るための言葉だった。
ミナはゆっくり息を吐き、魔灯の奥を見る。
「……さっきより、震えが小さいです」
「どのあたりが?」
エルナが尋ねる。
ミナは驚いたようにエルナを見た。
「私に聞くんですか?」
「見えているのでしょう?」
「見えてる、というか……そんな気がするだけで」
「十分です」
エルナは言った。
「最初は、そんな気がする、でいいんです。私は昔、それすら言えませんでした」
ミナは少し迷ってから、魔灯の下側を指さした。
「ここです。下の方が、まだ少し沈みそうで……でも、真ん中は戻ってきています」
エルナは針の角度を変えた。
「合っています」
「え……」
「今、私が見ていた場所と同じです」
ミナの目が大きくなる。
「私、合ってたんですか」
「はい」
エルナは微笑む。
「あなたは、光らせる前に揺れが見えるんですね」
ミナは言葉を失った。
その言葉は、魔力ゼロと呼ばれた少女にとって、初めての別の名前だった。
できない子。
壊す子。
迷惑な子。
そうではなく。
揺れが見える子。
「先生」
エルナが言った。
「この子、魔灯係に向いています」
「まだ早い」
レオンは即座に答えた。
「ですよね」
エルナはあっさり引いた。
ミナが目を白黒させる。
「え、あの」
レオンはミナを見る。
「向いていることと、今すぐ任せることは違う」
「はい……」
「今日は、見えた。それでいい」
ミナは胸の前で手を握った。
「……はい」
その返事は、昨日より少しだけ強かった。
◇
エルナは最後の調整を終え、外枠を戻す。
「ロイドさん、点火確認を」
「おう」
ロイドが魔灯の基部にある小さな起動札を押す。
一拍、沈黙があった。
それから、魔灯の奥に淡い光が灯った。
強くはない。
昼間では、ほとんど目立たないほどの光。
だが、確かに点いている。
ミナが息を呑んだ。
「点いた……」
「はい」
エルナは頷いた。
「あなたが沈ませなかった灯りです」
ミナは何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、魔灯を見つめている。
昨日の三秒の光とは違う。
自分が点けたわけではない。
でも、自分が少しだけ守った光。
その事実が、ゆっくり彼女の中に入っていく。
ガルドが照れ隠しのように言う。
「まあ、昼間じゃ明るいかどうか分かんねえけどな」
「夜になれば分かります」
エルナが言った。
「こういう小さな灯りが、道を一本守ります」
ガルドは黙った。
その言葉は、きっと彼にも刺さっていた。
小さくても、役に立つ。
派手でなくても、誰かを守る。
そんな話を、彼は嫌いそうな顔をしながら、ちゃんと聞いていた。
レオンはエルナに尋ねる。
「魔灯の状態は?」
「応急修理としては十分です。ただ、数日以内に結界杭も確認した方がいいと思います」
「結界杭も?」
ロイドの表情が変わる。
「そこまで悪いのか?」
エルナは魔灯の足元に指を伸ばした。
魔灯の下に染みていた、黒く湿った細い筋。
普通なら、ただの水の跡に見える。
だが、エルナの表情は硬かった。
「古くなっただけなら、魔石は上から沈みます。でもこれは、下から引かれています」
ミナが不安そうに聞く。
「下から……?」
「黒霧の流れが、地面の下を通ったのかもしれません」
ロイドが顔をしかめた。
「黒霧の森からか」
「断定はできません。ただ、少しおかしいです」
エルナは立ち上がり、森の方角を見た。
「これ、ただ古くなっただけじゃありません。黒霧の流れが、少し変です」
風が北の柵を抜けた。
灯りは点いた。
魔獣も去った。
誰も怪我をしていない。
それでも、レオンは黒霧の森の方を見る。
辺境では、ひとつの灯りが戻っただけで終わりではない。
むしろ、そこから始まることがある。
ガルドがぼそりと言った。
「……次は、見るだけじゃ済まねえかもな」
少し間を置いて、彼は自分の手を見た。
「俺も、割る以外の使い方を覚えねえと」
レオンは答えた。
「だから、今のうちに見ておく」
ミナは点いた魔灯を見た。
ガルドは森を見た。
エルナは工具袋を閉じる。
先生に見つかった子どもは、もう落ちこぼれのままではいられない。
ミナの前で、小さな魔灯が揺れている。
消えかけた火種は、まだ夜を知らない。
だが、その下で。
黒霧はもう、地面の下を流れていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
9話まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
続きが気になると思っていただけましたら、フォローや★で応援していただけると励みになります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます