第9話 出力不足の元生徒は、消えかけた魔灯を直す。だが黒霧は地面の下を流れていた

王立学院が、失った記録を集め始めた頃。


ルーウェン辺境領の北の柵では、消えかけた魔灯の下で、黒い湿りが土に染みていた。


水ではない。


雨の跡でもない。


まるで、黒霧の流れが地面の下を通ったような跡だった。


その前に、エルナ・リードがしゃがみ込んでいる。


王都では、出力不足と呼ばれていた元生徒。


今はこの辺境で、魔灯と結界杭を守っている。


作業着の膝が土で汚れることなど気にしない。


手袋をはめた指で魔灯の外枠を軽く叩き、耳を近づける。短く結んだ髪が頬に落ちたが、彼女はそれも払わなかった。


「……芯は生きています」


エルナは小さく呟いた。


ロイドが肩の力を抜く。


「直せそうか?」


「はい。完全に沈んでいたら交換でした。でも、これはまだ間に合います」


その言葉に、ミナが小さく顔を上げた。


ガルドは腕を組んだまま、少し離れた場所で見ている。口では何も言わないが、視線は魔灯とエルナの手元を行ったり来たりしていた。


レオンは、エルナの作業を見る。


手つきは昔と変わっていない。


派手さはない。


魔力を一気に流し込むこともない。


ただ、細く、長く、乱さずに流す。


王都では評価されにくい力だった。



「先生」


エルナが魔灯を見たまま言った。


「この子が、さっき揺れを止めたんですか」


「ああ」


レオンは頷く。


「三秒だけな」


「三秒あれば十分です」


エルナは短く答えた。


ミナが驚いた顔をする。


「じゅ、十分……なんですか?」


「はい」


エルナは振り返り、ミナに微笑んだ。


「魔灯は、魔石の芯に細い魔力を流して光らせる道具です。芯が沈んでしまうと、外からどれだけ魔力を入れても光りません。水に落ちた火種みたいなものです」


ミナは、魔灯の奥を見た。


小さな魔石の中心で、濁った光がかすかに揺れている。


まだ灯りではない。


けれど、完全な闇でもない。


「さっき黒霧が入りかけた時、この芯が沈みそうになっていました。あなたは、それを三秒だけ止めた」


「でも、私……光らせられませんでした」


「光らせるだけが、魔灯を守ることではありません」


エルナは当たり前のように言った。


ミナは、その言葉をうまく受け取れなかったようだった。


「光らせるだけじゃ、ない……?」


「はい。芯が完全に沈めば、今日は直せませんでした。夜までこの周辺の灯りが消えたままになります。でも、あなたが三秒止めたから、火種が残ったんです」


ロイドが横から補足する。


「この辺りの魔灯が消えると、夜は本当に危ない。荷車が溝に落ちる。子どもが道を間違える。小さい魔獣も柵の近くまで寄ってくる」


ミナの指が胸の前でぎゅっと絡まる。


「灯りが消えるだけで……」


「辺境では、それだけで人が怪我をする」


ロイドの声は淡々としていた。


大げさな脅しではない。


ここでは、それが日常なのだ。


エルナは頷く。


「だから、この魔灯が沈まなかったことには意味があります」


ミナの目が揺れた。


できなかったことは、数えきれないほどあった。


点けられなかった。


動かせなかった。


みんなと同じように、魔力を流せなかった。


でも。


消さなかった。


その言葉だけが、ミナの胸の奥で何度も灯った。



ガルドが横からぼそりと言う。


「でも点いてねえじゃん」


ミナの肩がびくりと跳ねる。


レオンはガルドを見た。


ガルドはすぐに顔を背ける。


「いや、別に責めてねえよ。ただ、点いてないのは本当だろ」


「本当です」


エルナが静かに答えた。


ガルドが少し意外そうに彼女を見る。


「今は点いていません。でも、壊れてもいません。辺境では、それが大事なことがあります」


「壊れてないだけで?」


「はい。壊れていなければ、直せます」


エルナは工具を取り出した。


「王都なら、明るく光らせた子が褒められます。でもこの村で本当に困るのは、夜に一本だけ道が暗くなることです」


工具の先が、魔石の周りにある細い金具へ触れる。


「派手でなくても、消えかけた灯りを戻せる魔力が必要になるんです」


ミナは黙って聞いていた。


その横顔に、レオンは見覚えがあった。


昔のエルナも、同じ顔をしていた。


自分の力は地味だと思っていた。


役に立たないと思っていた。


王都の評価で、自分の価値を決めていた。


「エルナ」


レオンが声をかける。


「その話は、君自身のことでもあるな」


エルナの手が一瞬だけ止まった。


それから、少し困ったように笑う。


「先生は、そういうところだけ昔から変わりませんね」


「見えたことを言っただけだ」


「それです」


エルナは魔灯に視線を戻した。


「昔の私は、それが怖かったです」


ミナが小さく問いかける。


「あの……エルナさんも、王立学院にいたんですか?」


「はい。王立学院の実技課程にいました。魔道具保守や調律を学ぶ、目立たない課程です」


「王立学院に……」


「でも私は、出力が弱かった。攻撃魔法も大きな結界も苦手で、魔灯を点けるのも遅かった。だから、ずっと“出力不足”と呼ばれていました」


ミナは、ぎゅっと胸元を押さえた。


その言葉が、自分にも刺さったのだろう。


「でも先生は、私の魔力を見て言ったんです」


エルナはレオンを見る。


その目には、静かな敬意があった。


「細く流せるなら、長く支えられる。急に光らなくても、消えかけたものを戻せるかもしれない、って」


ガルドが鼻を鳴らす。


「また先生かよ」


「また先生です」


エルナは平然と答えた。


ガルドが顔をしかめる。


「先生に教わったやつ、多すぎだろ」


「多くはありません」


エルナは工具を動かしながら言った。


「ただ、先生に見つけてもらった人は、たぶん忘れないんです」


ガルドは返す言葉を失った。


ミナも、レオンを見上げる。


レオンは少し困った。


「大げさだ」


「大げさではありません」


エルナは即答した。


「王都で“出力不足”と言われていた私が、ここでは魔灯を守っています。結界杭を直しています。夜に道を歩けるのは、私が流した細い魔力のおかげだと言ってもらえます」


言葉は静かだった。


だが、その奥には確かな誇りがあった。


「王都では、私の魔力は地味でした。でも辺境では、必要でした」


ミナは何も言えなかった。


ただ、消えた魔灯を見ている。


自分が光らせられなかったもの。


けれど、自分が少しだけ沈ませなかったもの。


その違いを、初めて知った顔だった。



エルナは魔石に細い針のような器具を差し込み、ゆっくり魔力を流した。


淡い光が、魔石の奥に細く伸びる。


派手な光ではない。


強い魔法でもない。


しかし、さっきまで沈みかけていた芯が、少しずつ浮かび上がってくる。


ミナは目を見開いた。


「すごい……」


「すごくはありません。慣れればできます」


エルナはそう言ったあと、少し考えて付け足す。


「でも、向いていない人が無理にやると、魔石が割れます」


ガルドが小さく笑った。


「それ、俺がやったら割れるやつだな」


「割れると思います」


「そこは否定しろよ」


「火属性の人が芯を触ると、熱で歪みやすいんです。力が強いほど、向かない作業もありますから」


ガルドは妙な顔をした。


馬鹿にされたと思ったのではない。


向いていないことがある、と当たり前のように言われたのが意外だったのだろう。


それは同時に、向いていることもあるという意味だから。


レオンは言った。


「ガルドには、ガルドの使い方がある」


「……分かってるよ」


「まだ分かっていない」


「言い切るなよ」


「分かっていれば、そんな顔はしない」


「どんな顔だよ」


ガルドが噛みつく。


だが、以前のような棘だけではない。


ミナが小さく笑いそうになり、慌てて口を押さえた。


エルナは魔灯の調整を続ける。


魔石の奥の揺れが、少しずつ整っていく。


「ミナさん」


「は、はい」


「少しだけ、見てもらえますか」


「私が、ですか?」


「はい。触れなくていいです。奥の揺れが、さっきと同じかどうかだけ」


ミナは緊張した顔で魔灯を覗き込んだ。


肩が固まる。


息が止まりかける。


レオンは言う。


「息を止めるな」


「は、はい」


「それから、今の光を覚えようとしなくていい」


ミナが瞬く。


「光を、覚えなくていいんですか?」


「ああ」


レオンは魔灯の奥を指した。


「君が見るべきなのは、点いた後じゃない。消える前だ。揺れが戻る直前の濁りを覚えろ」


「消える前……」


「そこが見えるなら、消える前に止められる」


ミナは小さく息を吸った。


それは、光らせるための言葉ではなかった。


守るための言葉だった。


ミナはゆっくり息を吐き、魔灯の奥を見る。


「……さっきより、震えが小さいです」


「どのあたりが?」


エルナが尋ねる。


ミナは驚いたようにエルナを見た。


「私に聞くんですか?」


「見えているのでしょう?」


「見えてる、というか……そんな気がするだけで」


「十分です」


エルナは言った。


「最初は、そんな気がする、でいいんです。私は昔、それすら言えませんでした」


ミナは少し迷ってから、魔灯の下側を指さした。


「ここです。下の方が、まだ少し沈みそうで……でも、真ん中は戻ってきています」


エルナは針の角度を変えた。


「合っています」


「え……」


「今、私が見ていた場所と同じです」


ミナの目が大きくなる。


「私、合ってたんですか」


「はい」


エルナは微笑む。


「あなたは、光らせる前に揺れが見えるんですね」


ミナは言葉を失った。


その言葉は、魔力ゼロと呼ばれた少女にとって、初めての別の名前だった。


できない子。


壊す子。


迷惑な子。


そうではなく。


揺れが見える子。


「先生」


エルナが言った。


「この子、魔灯係に向いています」


「まだ早い」


レオンは即座に答えた。


「ですよね」


エルナはあっさり引いた。


ミナが目を白黒させる。


「え、あの」


レオンはミナを見る。


「向いていることと、今すぐ任せることは違う」


「はい……」


「今日は、見えた。それでいい」


ミナは胸の前で手を握った。


「……はい」


その返事は、昨日より少しだけ強かった。



エルナは最後の調整を終え、外枠を戻す。


「ロイドさん、点火確認を」


「おう」


ロイドが魔灯の基部にある小さな起動札を押す。


一拍、沈黙があった。


それから、魔灯の奥に淡い光が灯った。


強くはない。


昼間では、ほとんど目立たないほどの光。


だが、確かに点いている。


ミナが息を呑んだ。


「点いた……」


「はい」


エルナは頷いた。


「あなたが沈ませなかった灯りです」


ミナは何も言わなかった。


言えなかった。


ただ、魔灯を見つめている。


昨日の三秒の光とは違う。


自分が点けたわけではない。


でも、自分が少しだけ守った光。


その事実が、ゆっくり彼女の中に入っていく。


ガルドが照れ隠しのように言う。


「まあ、昼間じゃ明るいかどうか分かんねえけどな」


「夜になれば分かります」


エルナが言った。


「こういう小さな灯りが、道を一本守ります」


ガルドは黙った。


その言葉は、きっと彼にも刺さっていた。


小さくても、役に立つ。


派手でなくても、誰かを守る。


そんな話を、彼は嫌いそうな顔をしながら、ちゃんと聞いていた。


レオンはエルナに尋ねる。


「魔灯の状態は?」


「応急修理としては十分です。ただ、数日以内に結界杭も確認した方がいいと思います」


「結界杭も?」


ロイドの表情が変わる。


「そこまで悪いのか?」


エルナは魔灯の足元に指を伸ばした。


魔灯の下に染みていた、黒く湿った細い筋。


普通なら、ただの水の跡に見える。


だが、エルナの表情は硬かった。


「古くなっただけなら、魔石は上から沈みます。でもこれは、下から引かれています」


ミナが不安そうに聞く。


「下から……?」


「黒霧の流れが、地面の下を通ったのかもしれません」


ロイドが顔をしかめた。


「黒霧の森からか」


「断定はできません。ただ、少しおかしいです」


エルナは立ち上がり、森の方角を見た。


「これ、ただ古くなっただけじゃありません。黒霧の流れが、少し変です」


風が北の柵を抜けた。


灯りは点いた。


魔獣も去った。


誰も怪我をしていない。


それでも、レオンは黒霧の森の方を見る。


辺境では、ひとつの灯りが戻っただけで終わりではない。


むしろ、そこから始まることがある。


ガルドがぼそりと言った。


「……次は、見るだけじゃ済まねえかもな」


少し間を置いて、彼は自分の手を見た。


「俺も、割る以外の使い方を覚えねえと」


レオンは答えた。


「だから、今のうちに見ておく」


ミナは点いた魔灯を見た。


ガルドは森を見た。


エルナは工具袋を閉じる。


先生に見つかった子どもは、もう落ちこぼれのままではいられない。


ミナの前で、小さな魔灯が揺れている。


消えかけた火種は、まだ夜を知らない。


だが、その下で。


黒霧はもう、地面の下を流れていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


9話まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

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