第3話 無能教師が消えた翌日、王立学院の実技演習室が止まった
警鐘が鳴ったのは、レオン・アークライトが王立学院の門を出てから、半刻ほど後のことだった。
王立学院で警鐘が鳴ること自体は、珍しくない。魔法を教える場所だ。火皿が割れる。結界が歪む。杖が焦げる。生徒が魔力酔いを起こす。
小さな事故なら、教師が収め、治癒符で処置し、報告書を書いて終わる。
だが、この日の第二実技演習室は違っていた。
扉が開かれた瞬間、焦げた匂いが廊下に流れ出した。三つの火皿はすべて割れ、補助石は砕け、床の安全術式には黒い焦げ跡が走っている。
演習室の端では、ルカ・ノートンが座り込んでいた。
右手には治癒符が巻かれている。意識はある。会話もできる。後遺症も残らない。
それでも、顔は真っ白だった。
「人的被害は?」
教務主任マルクス・ヴェインが、演習室に入って最初に確認したのはそれだった。
「ルカ・ノートンに右手の軽度火傷と、魔力逆流による痺れ。防護幕内の生徒二名が転倒。いずれも軽傷です」
アルベルト・フォン・レイナードが答えた。
声は落ち着いている。だが、その顔からはいつもの余裕が消えていた。
「演習室は」
「本日の使用は不可能です。安全術式にも焦げが入っています。点検と修復に、最低二日は必要です」
軽傷。
しかし、軽い事故ではない。
王立学院の実技演習室が二日止まる。それだけで十分に大きな問題だった。
マルクスは床に落ちた杖の破片を拾った。芯が裂けている。外から折れたのではない。内側から割れていた。
「ノートン。話せるか」
ルカは肩を震わせた。
「……はい」
「何が起きた」
「三発目を、出そうとして……」
「二発目までは成功していたな」
「はい」
「三発目の前に、魔力を戻す指示は受けていたか」
「受けていました」
「なら、なぜ押した」
責める声ではなかった。だが、問いは鋭かった。
ルカは治癒符の巻かれた右手を見つめた。
「できると思いました」
演習室が静かになる。
「昨日、止められたから。今日は、止まらずにできると思って……。二発目も、昨日より安定していたから」
「止められた?」
マルクスが問う。
ルカは少し遅れて答えた。
「アークライト先生に、です」
その名が出た瞬間、エリス・ハートは手元の紙を握りしめた。
レオンが残していった写し。
三連続点火時、二発目の魔力が右手に残る。三発目で追加出力すると逆流の危険。火力不足ではなく、戻り道不足。三発目前に右手を開かせること。
エリスは読んでいた。
何度も読んでいた。
だから、余計に怖かった。
読んでいたのに、止めきれなかった。
「エリス先生。その記録は」
「アークライト先生が残した写しです」
「見せなさい」
エリスは紙を差し出した。
マルクスは読み始めた。表情は変わらない。だが、最後まで読み終えたあと、しばらく黙った。
「記録通りだな」
その一言が、演習室に重く落ちた。
アルベルトが、割れた杖を見つめたまま言った。
「私も要点は聞いていました」
「どう指示した」
「火力を落とすな。ただし、握り込むな。二発目の後に息を吐け、と」
「標準指導としては悪くない。昨日の件を踏まえた修正としても妥当だ」
アルベルトの喉が動いた。
「では、なぜ事故になったのでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
アルベルトは無能ではない。指示も雑ではない。防護も遅くはなかった。
それでも、ルカの杖は割れた。
エリスは、事故の瞬間を思い出していた。
一発目。成功。
二発目。成功。
ルカは右手を開こうとしていた。息も吐いていた。昨日より、明らかによかった。
だから、アルベルトは三発目を許した。
普通なら、それでいい。
だが、レオンなら止めていた。
たぶん、二発目が灯った直後に。
ルカの視線が三つ目の火皿へ吸われる前に。右手の親指が杖に食い込む前に。
いや、もっと早く。
二発目の火が揺れた、そのほんの小さな乱れで。
「私は」
エリスが呟いた。
「青白くなってから、気づきました」
マルクスの目が彼女へ向く。
「記録には、青白くなる前のことが書いてありました。右手、呼吸、視線。なのに私は、火が青くなってからしか動けませんでした」
エリスの声が震えた。
「読んでいたのに、見えていませんでした」
その言葉に、アルベルトが眉を歪めた。
彼も同じだった。
記録は聞いていた。注意もした。
だが、自分が見ていたのは、三発目が成功するかどうかだった。
レオンが見ていたのは、三発目を出してよい状態かどうかだった。
似ているようで、まったく違う。
「アークライト先生は、これをいつから記録していた」
アルベルトが尋ねた。
「去年の冬からだそうです」
「去年の冬……?」
アルベルトの声が低くなる。
「それほど前から分かっていたのなら、なぜ正式な指導計画に上がっていない」
その問いには、マルクスが答えた。
「上がっていた」
アルベルトが顔を上げる。
「会議では、三発目の出力低下として扱われた。火力維持訓練の対象として処理された」
「出力低下ではない」
「公式記録上は、そう見える」
マルクスの声は冷静だった。
しかし、その冷静さの奥に、わずかな苦さがあった。
「三発目で火が弱まる。だから出力低下。評価としては間違っていない」
「ですが、指導としては逆だった」
アルベルトが言った。
「追加出力してはいけなかった」
その言葉に、誰も反論しなかった。
◇
事故報告会議は、その日の夜に開かれた。
学院長グレイム・ロズウェル。教務主任マルクス・ヴェイン。火属性担当のアルベルト・フォン・レイナード。補助教師エリス・ハート。
会議室の中央には、ルカの割れた杖と、砕けた補助石が置かれていた。
グレイム学院長は、レオンの記録の写しを読んでいた。
「私的記録か」
「はい」
マルクスが答える。
「公式記録には」
「三発目の出力低下、とあります」
「なぜ違う」
エリスは、少しだけ息を吸った。
「公式記録は、結果を見ています。三発目の火力が落ちた、という結果です。でも、アークライト先生の記録は、その前を見ています」
エリスは、手元の紙を見た。
「右手に魔力が残る。息が止まる。親指を握り込む。三発目の前に、もう詰まっている」
「君はそれを読んでいた」
「はい」
「ならば、なぜ止められなかった」
逃げたくなる問いだった。
けれど、逃げてはいけなかった。
「止める場所が分かりませんでした」
エリスは言った。
「記録に従っているつもりでした。でも、アークライト先生がどの瞬間を見ていたのかが分からなかった。私が危ないと思った時には、もう火が青くなっていました」
会議室が静まり返る。
アルベルトが口を開いた。
「私も同じです。記録は聞いていました。指示も変えました。しかし、私は三発目を成功させるために見ていた。アークライト先生は、おそらく三発目を出させていいかどうかを見ていた」
グレイムは黙って聞いていた。
マルクスが低く言う。
「だから、制度にはならないと言った」
その言葉に、エリスが顔を上げる。
マルクスは続けた。
「アークライト先生の記録は有用だ。今回、それは証明された。だが、同時に別のことも証明された」
「別のこと?」
グレイムが問う。
「少なくとも、記録を写しただけでは、彼の代わりにはならないということです」
その一言に、会議室の空気が変わった。
レオン・アークライト。
上位成績者を育てられなかった教師。
一人に時間をかけすぎる教師。
制度にならない教師。
その教師がいなくなったその日に、実技演習室が止まった。
偶然と言うことはできる。
だが、偶然で済ませるには、机の上の記録が正確すぎた。
グレイムは長く沈黙した。
やがて言う。
「一人の教師が消えた程度で、授業が揺らぐ組織であってはならない」
学院長として正しい言葉だった。
しかし、その正しさは会議室の誰も安心させなかった。
マルクスが静かに言う。
「下位および中位生徒の応用課題について、直近一年の事故・未遂記録を洗い直します」
「必要か」
「必要です」
マルクスは、はっきりと言った。
「今回と同じように、出力不足や応用力不足として処理されたものの中に、魔路の詰まりが含まれている可能性があります」
グレイムの目が細くなる。
「アークライト先生の担当生徒を中心に、ということか」
「はい」
その言葉は、重かった。
学院が低く評価した教師の担当生徒を、今になって洗い直す。
それは、学院の評価が何かを見落としていたかもしれないと認めるに近い。
グレイムは、机の上の記録をもう一度見た。
「調査を許可する。ただし、外部には出すな。学院内で処理する」
「承知しました」
「アークライト先生には連絡を取る必要はない。彼はもう学院の人間ではない」
「承知しました」
マルクスは頷いた。
だが、エリスは思った。
もう学院の人間ではない。
だからこそ、あの声はここにない。
三発目を出すな。
二発目を逃がせ。
右手を開け。
息を吐け。
それだけの声がないだけで、演習室が一つ止まった。
◇
翌朝、王立学院の掲示板には短い通知が貼られた。
第二実技演習室、安全術式点検のため二日間使用停止。
火属性応用演習、一部延期。
生徒たちは、それを見てざわついた。
「昨日、何かあったらしいぞ」
「ノートンの杖が割れたって」
「火皿も吹っ飛んだらしい」
「でも怪我は軽かったんだろ」
「アルベルト先生が止めたって聞いた」
「アークライト先生がいなくなった日に?」
誰かがそう言った瞬間、周囲の声が少しだけ小さくなった。
偶然。
そう思う者もいた。
関係ない。
そう言う者もいた。
だが、ルカと同じ応用班の生徒たちは笑えなかった。
彼らは知っている。
アークライト先生の授業は、派手ではなかった。褒め方も地味だった。成績がすぐ上がるわけでもなかった。
だが、失敗する直前に止めてくれることがあった。
自分でも気づいていない癖を、先に言われることがあった。
何度も同じことを言われて、うるさいと思ったこともある。
けれど、その声がない演習室を想像すると、少し怖かった。
その声がないだけで、演習室の空気が少し変わっていた。
◇
その日の昼。
資料室で、エリスは一つの記録に手を止めた。
ミリア・フォード。
完全詠唱成績、上位。術式筆記、上位。短縮詠唱課題、反復失敗。
評価。
応用力不足。
実戦適性に疑問。
エリスは、隣に置いたレオンの記録を開いた。
完全詠唱時の術式精度は高い。
短縮詠唱では、省略した第二節を魔路内で補おうとして詰まる。
詠唱速度不足ではない。
削る訓練ではなく、残す核を決める訓練が必要。
エリスは息を呑んだ。
ルカだけではない。
ミリアも同じだ。
評価語の下に、別の理由がある。
その時、資料室の扉が開いた。
アルベルトだった。
彼は一晩眠っていないような顔をしていた。
「エリス先生。ミリア・フォードの記録を見せてください」
「どうして」
「今日の午後、短縮詠唱演習があります」
アルベルトは言った。
「昨日と同じことを、繰り返したくありません」
その声に、いつもの自信はなかった。
だが、逃げる気配もなかった。
エリスは、ミリアの記録を差し出した。
アルベルトは読み始める。読み進めるほどに、表情が険しくなっていく。
「詠唱が遅いのではない……丁寧すぎるだけ……」
彼は小さく呟いた。
「削る場所ではなく、残す核を決める……」
「先生の記録です」
「分かっています」
アルベルトは記録から目を離さなかった。
「だから、厄介なんです」
「厄介?」
「正しい」
彼は苦しそうに言った。
「たぶん、これも正しい。だが、どうすればこの通りに見えるのかが分からない」
エリスは何も言えなかった。
それは、自分も同じだった。
記録は読める。意味も分かる。
だが、レオンが見ていた瞬間が分からない。
どこで止めるべきか。どこで待つべきか。どの失敗を許し、どの失敗を止めるべきか。
そこが分からない。
アルベルトは記録を閉じた。
「午後の演習は、課題を変更します」
「短縮詠唱をやめるんですか」
「いいえ」
アルベルトは首を横に振った。
「短縮させる前に、核だけを唱えさせます。アークライト先生の記録が正しいなら、ミリアに必要なのは速さではない」
エリスは、少しだけ目を見開いた。
アルベルトは悔しそうに笑った。
「不本意ですが、学ばなければなりません」
「誰からですか」
「いなくなった先生からです」
そう言った後、アルベルトは窓の外を見た。
「……もっとも、本人はもういませんが」
資料室に沈黙が落ちた。
王立学院は、まだ立派だった。
教師もいる。設備もある。制度もある。
だが、昨日まで当たり前にそこにあった一人の教師の目だけが、もうない。
その欠落は、思ったよりも大きかった。
そしてたぶん、まだ誰もその大きさを測れていない。
王立学院の綻びは、ルカだけでは終わらなかった。
その日の午後、ミリア・フォードの短縮詠唱演習も、誰も予想していなかった場所で止まった。
そのころ、レオン・アークライトを乗せた馬車は、すでに王都の外へ出ていた。
彼はまだ知らない。
自分が去った学院で、実技演習室が止まり始めていることを。
そして学院もまだ知らない。
その教師が向かう先で、別の「止まった魔力」を見ることになるのだと。
◇◆◇◆◇◆◇◆
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