ECHO ~自己愛と狂気の蜜月~

火之元 ノヒト

水鏡のナルキッソス

プロローグ「零れゆく錠剤」

「水底に沈んだ彼を憐れむ必要はない。息をすることを忘れた代わりに、彼は決して裏切られることのない、永遠の口づけを手に入れたのだから」――作者不詳の詩篇『水鏡の底』より



 息継ぎの仕方は、とうの昔に忘れてしまった。


 視界を満たしているのは、どこまでも深く澄んだ青紫色の水底だ。

 指先から零れ落ちていったあの小さな錠剤たちは、水に溶けるようにして私の意識を浸食し、世界の輪郭を融解させてしまった。

 重力はとうに消え失せ、上も下もない。ただ、羊水のように温かく粘度のある液体が全身を包み込み、毛穴という毛穴から甘い痺れを浸透させてくる。

 肺呼吸の代わりに、微睡むような恍惚が血管を巡り、心臓の拍動を静かに熱くさせていた。


「――……」


 鼓膜を震わせるのは──水に溶けた角砂糖のように甘く、鼓膜の奥の柔らかな粘膜を直接撫で回すような、ひどく耳慣れた声だった。


 ゆっくりと重い瞼を押し上げると、すぐ目の前に彼はいた。

 濡れた黒曜石のような瞳が、狂おしいほどの慈愛と独占欲を湛えてこちらを見下ろしている。

 滑らかな頬の稜線、薄く形の良い唇、そして、微かに熱を帯びた白い肌。どれもこれも、見間違えるはずがない。

 それは、世界で最も美しく、最も恐ろしい、私という人間のイデア――垂直の湖面の向こう側に立つ、完全なる自己の姿だった。


 彼が、ゆっくりと指先を伸ばしてくる。

 その手が頬に触れた瞬間、背筋が跳ねた。そこにあったのは、間違いなく血の通った、生々しく熱い体温だった。


「……さく……」


 熱に浮かされたようにその名を呼ぶと、彼は満足げに目を細め、私の唇を親指の腹でゆっくりと擦った。

 ぞっとするほど官能的なその手つきは、どこをどう触れられれば私が最も歓喜するかを、細胞レベルで熟知しているようだ。


『もう、外の音は聞こえないだろう?』


 声に出さずとも、彼の意志が直接脳内に流れ込んでくる。

 私は、恍惚の中で深く頷いた。


 そうだ。もう、何も聞こえない。


 かつて望を苛み続けた、濡れたアスファルトを叩く灰色の雨音も、

 行き交う人々の、無関心で冷酷な靴音も、

 私に完璧な反響エコーを求めた、母親の冷たい金切り声も、

 理不尽な悪意で私の自尊心を噛み砕き、唾を吐きかけてきたあの男の怒声も、

 ひどく押し付けがましい善意で、私の境界線を侵そうとしてきた後輩の生々しい体温も、


 零れゆく錠剤がもたらした永遠という名の揺り籠には、そんな不純物は一切届かない。ここにあるのは、熟れきって今にも弾けそうな無花果の甘い腐敗臭と、彼が吐き出す──私と同じ匂いの吐息だけだ。


 彼の顔が近づく。まつ毛が触れ合うほどの距離で、二つの顔が完璧な対称性を保って重なり合った。

 開かれた唇の隙間から、熱い舌が滑り込んでくる。他者の唾液の匂いなら吐き気がするはずなのに──彼のそれは、どんな極上の蜜よりも甘く、私の理性をあっけなく溶かしてしまった。


「ん……ぁ……」


 舌が絡み、互いの境界が曖昧になっていく。

 上顎の柔らかな粘膜をなぞられるたびに、下腹部の奥底に火の粉が散るような快感が走る。

 私は彼の背中に腕を回し、その引き締まった肉体に爪を立てた。

 彼もまた私の細い腰を引き寄せ、二人の身体は、境界線を失って一つの美しい肉塊のように溶け合っていく。


 痛いほどに愛されている、これ以上ないほど深く。

 何の見返りも求められず、どんな欠点も咎められず、ただ「そこに在る」という事実だけで、絶対的な肯定を与えられている。


 ふと、足元で微かな音がした。

 視線を落とすと、青紫の空間の底に、無数の鋭利なガラス片が散らばっていた。

 その破片の一つ一つに、血まみれになって横たわる自分の姿が映り込んでいるような気がしたが、私はすぐに目を逸らした。


「……あぁ、世界はなんて美しいんだろう」


 私は、彼の口づけを貪りながら、恍惚とした笑みを浮かべた。


 これが、ラカンが提唱した虚構の水槽か。

 それとも、ニーチェが警告した深淵の底か。

 あるいは、脳が魅せるケミカルな逃避行に過ぎないのか。

 そんな哲学的な問い掛けすら、もはや意味を成さない。


 ここは、他者が一切立ち入ることのできない、完全なる自己完結の世界。

 指先から零れ落ちた錠剤が、床に到達するまでの――決して終わることのない、最期の刹那。

 水鏡の底で溺死するナルキッソスの、永遠に終わらない、甘美で凄惨な蜜月の始まりだった。

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