第14話 「最後の器具」

 その日のオペは、最初から特別な重さがあった。

 患者は四十三歳の男性。    二児の父。肝臓の悪性腫瘍で、手術時間は六時間を超える見込みだった。              成功率は高くない。        それでも家族は「先生を信じます」と言った。

 玲奈はその言葉を、胸の奥にしまってオペ室に入った。

 器械出しは、春日だった。

 二人とも何も言わなかった。

 言葉は必要なかった。

 玲奈がメスを持った瞬間、   春日の目が変わった。

 玲奈はそれを見なくても、わかった。

 ——始めよう。

 一時間。

 二時間。

 無言のまま、息が合っていた。

 玲奈が次に動く前に、器具がある。

 視野が曇る前に、ガーゼがある。

 呼吸が乱れそうになる前に、   空気が変わる。

 助手の田中が後から言った。

 まるで二人が一人みたいだった、と。

 三時間が経った頃、難所に差し掛かった。

 腫瘍が血管に近い。ミリ単位の判断が要る。

 玲奈は息を止めた。

 そのとき、春日がそっと言った。

「先生」

 低い声だった。オペ中に春日が声を出すのは珍しかった。

「角度、少し」

 それだけだった。

 玲奈はわずかに手首を返した。

 視野が、開けた。

 ——そこだ。

 メスが、正確に動いた。

 五時間四十分。

「閉じます」と玲奈は言った。

 縫合を終えて、メスを置いた。

 深く、息を吐いた。

 手術室に、静かな空気が戻った。

 助手の田中が「お疲れ様でした」と言った。

 スクラブナースが数値を読み上げた。

 春日は最後の器具を静かにトレーに戻した。

 片付けが終わった頃、他のスタッフは先に出た。

 手術室に、二人だけが残った。

 玲奈はガウンを脱ぎながら、壁を見ていた。

 言葉を、探していた。

 六時間近く、言葉なしに動いた。

 でも今、言わなければならない気がした。

「春日くん」

「はい」

「今日の、角度の指摘」

 春日が玲奈を見た。

「助かりました」

 それだけだった。

 ありがとう、ではなかった。   助かりました、だった。

 五話ぶりに、玲奈は春日に感謝を伝えた。

 春日は少し間を置いた。

「先生のオペ、好きです」

 玲奈は春日を見た。

「集中してるときの先生は、   ぶれない。どんなに難しくても、 最後まで、ぶれない」

 春日は照れた様子もなく言った。ただ、思ったことを言った顔だった。

 玲奈は何も言えなかった。

 十二年間、メスを握ってきた。 褒められたことは何度もある。  でも今日の言葉は、どこか違う場所に届いた。

 ——胸の、奥に。

 手術室を出た後、廊下で二人並んで歩いた。

 夜の病院は静かだった。

 足音だけが響いた。

 エレベーターの前で、春日が先に乗った。

 玲奈も乗った。

 扉が閉まった。

 二人とも、何も言わなかった。

 でも沈黙が、苦しくなかった。

 六時間、言葉なしに通じ合ってきた二人の沈黙は、温かかった。

 一階に着いた。

 扉が開いた。

 春日が先に降りた。

 玲奈も降りた。

「お疲れ様でした、先生」

「……お疲れ様」

 春日は軽く頭を下げて、駐車場の方へ歩いていった。

 玲奈はその背中を見ていた。

 手術室での背中。

 廊下でモップを倒す背中。

 商店街のコーヒーショップで煮物の動画を見ていた背中。

 全部、同じ背中だった。

 ——好きだ。

 その言葉が、静かに、胸の中に落ちた。

 誰に言うでもなく。

 声に出すでもなく。

 ただ、落ちた。

 玲奈は冷たい夜風の中で、しばらく動けなかった。

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