第11話「怒れなくなった」
春日蒼介は今日も、やらかした。
午前八時十分。
手術室の準備室で、滅菌パックを三つ床に落とした。
拾おうとして棚に頭をぶつけた。
よろけて、隣にいた桜田の持っていたバインダーを巻き込んだ。
バインダーが床に落ちて、 書類が盛大に散らばった。
「春日さん……」桜田が疲れた声で言った。
「すみません」春日は頭を押さえながら言った。「大丈夫ですか」
「私より春日さんが大丈夫じゃなさそうです」
そこへ玲奈が入ってきた。
散らばった書類を見た。
棚の端を押さえている春日を見た。
床の滅菌パックを見た。
息を吸った。
怒鳴ろうとした。
言葉が、出なかった。
玲奈は自分でも驚いた。
出ないはずがない。いつもなら「春日くん!」の一言が反射的に出る。 いつも、それをやってきた。
なのに。
春日が頭を押さえている顔を見た瞬間、言葉が喉の手前で止まった。
「……大丈夫ですか」
出てきたのは、それだった。
春日が目を丸くした。 桜田も目を丸くした。
「え?」と春日が言った。
「頭」玲奈は視線を逸らした。 「ぶつけたでしょう」
「あ、はい。ちょっと」
「氷、持ってきなさい」
「いや、大丈夫です」
「持ってきなさいと言ってます」
春日が氷を取りに行った隙に、 桜田が玲奈の袖を小さく引いた。
「先生」
「何ですか」
「怒らないんですか」
「怒ってます」
「怒ってないですよ」
「怒って……」
玲奈は口を閉じた。
怒っていなかった。
書類が散らばっていても、 滅菌パックが落ちていても、 春日の間抜けな顔を見た瞬間、 怒りが消えた。
——おかしい。
「書類、拾いなさい」と玲奈は桜田に言って、準備室を出た。 廊下を歩きながら、玲奈は考えた。
怒れなくなった理由は、わかっていた。
わかっていたから、厄介だった。
人は、大切に思う相手には怒れなくなる。
それを玲奈は知っていた。 医者だから、人間を見てきたから、知っていた。
知っていたのに、自分のことと して考えたことがなかった。
——大切に。
その言葉を頭の中で転がして、 玲奈は足を止めた。
廊下の窓から、秋の空が見えた。
高くて、青かった。
昼過ぎ、ナースステーションで春日が玲奈の前に現れた。
頭に小さな保冷剤を当てていた。
自分で持ってきたらしかった。
「先生、書類の件、後で書き直します」
「そうしなさい」
「あと、滅菌パック、確認したら無事でした」
「よかったです」
「……先生、今日怒らないんですか」
玲奈は春日を見た。
「怒ってます」
「怒ってないですよ」
「怒って……」
また、言葉が止まった。
春日が、小さく笑った。
玲奈は「仕事に戻りなさい」と言って、カルテに視線を落とした。
耳が、少し熱かった。
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