第11話 復讐の連鎖、断絶。
休日の電車内には、平日の通勤ラッシュとは違う、穏やかな朝の余白があった。
窓から差し込む朝日が、座席や床を淡く照らしている。
それとは対照的に、朱音の目には光がなかった。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、空の一点だけを見つめている。
肩から下げたショルダーバッグに、そっと手を触れた。
ファスナーは閉じている。
そのことを確かめると、朱音は小さく息を吐いた。
バッグの奥底には、ナイフが潜んでいる。
目的地は、国家出生支援センター。
そこには久我誠一が収容されている。
啓太には、もう二度と会えない。
けれど、久我はまだ生きている。
「許せない……。あいつも、あの人も……」
誰にも聞こえないほど小さな声で、朱音は呟いた。
◇
国家出生支援センターに到着した。
高層ビルの上空には、雲ひとつない青空が広がっている。
こんなにも晴れているのに、朱音の心はどこまでも暗かった。
まずは、一人。
久我誠一を手にかける。
そう決めて、ゆっくりと歩を進めた。
「朱音ちゃん!」
突然、背後から肩を叩かれた。
朱音は瞬時に後ずさる。
振り返ると、真琴が立っていた。
以前と変わらない、友好的な笑顔。
「今日、休みでしょ?」
「……真琴さん?」
「休日出勤なんて見られたら、女性のための職場がイメージダウンになっちゃうよ」
そう言って、真琴は周囲に目を配る。
「ただでさえ、今は時の人の職場で張り込みされてるんだし」
確かに、通行人を装いながらこちらを窺っている人間が数名いる。
「で、でも……私、やることが……」
「それ、今日じゃなきゃ駄目?」
「……」
「別に平日でも大丈夫でしょ!」
真琴はにっこりと笑った。
「せっかくだし、ドライブでも行こう!」
「え、ちょっと……」
朱音の返事を待たず、真琴はその手を引いた。
半ば強引に助手席へ押し込む。
「こんなに天気がいいんだから……海がいいかもね」
真琴は何事もなかったように車を走らせた。
◇
肌寒くなり始めた季節のためか、海は閑散としていた。
堤防に腰を下ろすと、真琴がホットコーヒーを差し出した。
「はい」
「ありがとうございます……」
朱音は礼を言って受け取る。
温かい液体が喉を通った。
そこで初めて、朝から何も口にしていなかったことに気づいた。
「人のいない海も、広くて風情があるよねえ」
「……そうですね」
返事は生返事だった。
心はここにない。
もし、真琴に会わなかったら。
あのままセンターへ入っていたら。
自分は、本当に久我に手をかけていたのだろうか。
想像しただけで、身体が震えた。
「良からぬこと考えてた?」
真琴の声に、朱音はすぐに反応できなかった。
「……真琴さんには、関係ないでしょ」
「そう?」
真琴は朱音の顔を覗き込んだ。
「目が、復讐を果たした篝みたいになってたからさ」
「あの化け物と一緒にしないで!」
朱音の声が荒くなる。
「久我が……篝さんがいなければ……!」
胸の奥から、押し殺していた感情が溢れ出した。
「弟は……啓太は死なずに済んだのに!」
吐き出した言葉が、自分自身の胸を抉る。
真琴は何も言わなかった。
ただ、朱音を見つめていた。
「うん」
静かな声だった。
「違うね」
朱音が顔を上げる。
「あのまま行ってたら、あんたは殺人者という化け物になってたね」
「……!」
朱音は真琴の胸ぐらを掴んだ。
「何も知らないくせに……!」
指に力が入る。
「社会に奪われたら……私は、どこにこの無念を果たせばいいの!」
声が震える。
「どうして……どうして啓太が死なないといけないの!」
真琴は何も言わなかった。
ただ、朱音を見つめている。
その目に浮かんでいたのは、怒りではなかった。
恐怖だった。
――まただ。
真琴の脳裏に、あの日の少女が蘇る。
「……篝」
ぽつりと、その名前がこぼれた。
朱音の手が止まる。
「あの子も、最初はそうだった」
「……」
「自分から大切なものを奪った奴を許せない。自分だけがこんな目に遭って、どうして何もせずにいられるんだって」
真琴は苦しそうに笑った。
「私も、分かってたつもりだったんだけどね」
声が震える。
「でも……止められなかった」
朱音は黙って真琴を見た。
「復讐を果たせば、それで終わると思ってたのかな」
真琴は海へ視線を向ける。
「でも……終わらなかった」
篝は復讐を果たした。
それでも、終わらなかった。
憎しみは消えるどころか、次の憎しみを生んだ。
真琴は、それを知っている。
「……朱音ちゃん」
「何……ですか……」
「今度は、社会に復讐するつもり?」
「違う……!」
朱音は反射的に叫んだ。
「私は篝さんとは違う!」
「うん」
真琴は頷いた。
「違うよ」
そして、朱音の目をまっすぐ見つめる。
「朱音ちゃんは、篝じゃない」
その声は優しかった。
だからこそ、続く言葉が痛かった。
「だから……今度こそ、止めたい」
「……え?」
「私は、あの子を止められなかったから」
真琴の目から、一筋の涙がこぼれた。
「もう、同じことを繰り返したくない」
乾いた音が響いた。
真琴の平手が、朱音の頬を打つ。
朱音の身体が崩れ落ちた。
頬が熱い。
何が起きたのか分からず、呆然と真琴を見上げる。
真琴は、泣きそうな顔をしていた。
「……あんたを、篝と同じところまで行かせたくない」
「……」
「でもね」
真琴はしゃがみ込み、朱音の目線に合わせる。
「大切な人を失った悲しみまで、否定するつもりはないよ」
朱音の瞳が揺れる。
「悲しいよね」
「……」
「悔しいよね」
「……っ」
「怒って当然だよ」
真琴は、ゆっくりと朱音へ手を伸ばした。
「だから、その気持ちごと……私に預けて」
そして、朱音を強く抱きしめた。
「朱音ちゃん」
背中を優しく撫でる。
「あんただけは、一人にさせない」
その瞬間。
朱音の中で張り詰めていたものが、崩れた。
「……っ、ぁ……」
声にならない。
唇が震える。
堪えようとしても、涙が止まらない。
朱音は真琴の胸に顔を埋めた。
子どものように泣いた。
啓太が死んだこと。
誰も救えなかったこと。
自分まで、誰かを殺そうとしていたこと。
それまで胸の奥に押し込めていたものを、朱音はすべて吐き出すように泣いた。
海の波音だけが、いつまでも二人のそばで響いていた。
◇
「……少し落ち着いた?」
車へ戻ると、真琴が優しく笑った。
朱音の泣き腫らした目は赤く染まっている。
「実はね、朱音ちゃんに会わせたい人がいるんだよね」
「……誰ですか?」
「会ってからのお楽しみ」
◇
一方、その頃。
玲、花梨、篝は、お好み焼き屋へ来ていた。
鉄板の上で、ソースがじゅうじゅうと音を立てている。
「篝ちゃん、見て!」
花梨が笑った。
「ハートみたい!」
焼けた生地を指差している。
篝は少しだけ笑った。
「ほんとね」
玲はその様子を見て、安堵したように息を吐いた。
「ここんとこ、篝はずっとメディアやったからなぁ」
「あなたたち親子との時間も久々ね」
篝が小さく笑う。
その顔だけを見れば、どこにでもいる優しい女性だった。
花梨は嬉しそうにお好み焼きを頬張る。
「ねえねえ、今日ね!」
「ん?」
「たくやくん、一人だけ違うお部屋だったの」
玲が顔を上げる。
「そうなん?」
「うん……」
花梨は少し寂しそうだった。
「皆と別で、一人だけ……」
玲が困ったように笑う。
「それは、かわいそうやなぁ」
しかし。
「そう。それはいい判断ね」
篝が静かに言った。
空気が止まる。
「男って危険だからね」
花梨がきょとんとする。
「……え?」
「男の子は将来、女の子を傷つける側になるかもしれない」
篝は真剣だった。
「小さい頃から距離感を教えるのは大切よ」
花梨の顔から笑顔が消える。
「たくやくん……優しいよ?」
「今はね」
篝は自然に返した。
その表情には、悪意がなかった。
本気で、花梨を守ろうとしている。
だからこそ、怖かった。
「ちょっと、あんた!」
玲が思わず声を荒げる。
鉄板の上で、ソースが弾けた。
「こんな子どもに何言うてんねん!」
篝が僅かに目を見開く。
「私は、花梨を守ろうと――」
「男の子全員を怖がらせて、それが守ることなん!?」
玲の声が震える。
花梨が怯えた顔で玲にしがみついた。
篝は、その様子を見つめていた。
まるで、自分が拒絶されたかのように。
胸の奥に、小さな痛みが走った。
◇
真琴に連れて来られたのは、見覚えのある小さなマンションだった。
朱音は周囲を見回した。
(ここ……あの子が住んでるところと一緒……)
もしかしたら、偶然会えるかもしれない。
そんな期待が、ほんの少しだけ胸をよぎった。
けれど、泣き腫らした目を見られるのはためらわれた。
真琴はそんな朱音の気持ちなど気にする様子もなく、ある部屋の前で足を止める。
インターホンを押した。
ピンポーン。
「……え?」
朱音が驚く。
奥から足音が聞こえてきた。
ドアが開く。
「え!? 真琴さんと朱音が何で一緒に?」
驚いた顔を見せたのは、朱音の親友――美咲だった。
「美咲……?」
真琴は悪びれる様子もなく言った。
「美咲ちゃんは、私のゴーストライター」
「……え?」
「篝の記事や著書も、美咲ちゃんがかなり手伝ってくれてる」
朱音は驚いた。
美咲は呆れたようにため息をつく。
「もう、真琴さん。何も説明せずに連れてきましたね」
「へへ。ビッグサプライズでしょ?」
真琴は両手を軽く合わせる。
美咲は観念したように笑った。
「あの事件の後、やっぱり家から出るのが怖くてね……」
美咲は、以前よりも穏やかな顔になっていた。
「家でできる仕事があればって、ずっと模索してたの」
そして、少し照れたように笑う。
「文章を書いたら、『励まされました』って言ってもらえて」
「……」
「私でも、誰かの役に立てるんだって思えた」
真琴が笑う。
「で、私が引っ張り出した」
「無理やりですけどね」
二人が顔を見合わせ、小さく笑った。
その様子を見ていると、朱音の胸が少しだけ温かくなった。
美咲が朱音へ向き直る。
「ありがとう、朱音」
「……え?」
「朱音がずっと、誰かに寄り添える人だって真琴さんから聞いたよ」
優しい声だった。
「あの時、朱音が寄り添ってくれたから、私はこうして生きている」
美咲の言葉が、胸に刺さった。
けれど、朱音はそれを受け入れられなかった。
「でも……助けたのは篝さんだよ」
視線を落とす。
「私は、助けられなかった……」
美咲は、朱音の両手を取った。
そして、優しく握る。
「朱音。私の手を、こうやって握っていてくれたでしょ?」
「……」
「私の恐怖を受け止めてくれたんだよ」
朱音は静かに涙を流した。
その瞬間、先ほど真琴に抱きしめてもらったことを思い出す。
――真琴さんは、こうやって私の悲しみを受け止めてくれてたんだ。
「……もう、あれだけ泣いたのに」
涙はなかなか止まらなかった。
「ええっ、ちょっと! 大丈夫?」
美咲が慌てる。
「今、冷やしタオル持ってくるから!」
そう言って、冷蔵庫へ駆けていった。
◇
しばらくして。
真琴が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや、変なことがあったのさ」
「……何ですか?」
「久我の戸籍を調べたんだけど……おかしいんだよ」
真琴の表情から笑みが消える。
「篝と久我……親子になった記録がない」
朱音が顔を上げた。
「……え?」
「母親との婚姻記録もない」
美咲も驚いた顔をする。
「じゃあ……篝さん、本当は……」
真琴は静かに頷いた。
「篝の戸籍には、『天宮』って旧姓が出てきた」
朱音の胸がざわつく。
「篝の母親と、本当の父親」
真琴は二人を見つめた。
「調べてみない?」
◇
帰り道。
車窓から見える夜景を、朱音はぼんやり眺めていた。
少し前まで、全部壊してしまいたかった。
久我を殺せば、この苦しみが少しは晴れると思っていた。
けれど、今は違う。
「……今からでも」
朱音が、ぽつりと呟いた。
「篝さん、止められますか?」
真琴が小さく笑う。
「朱音ちゃんなら、助けられるよ」
赤信号で車が止まる。
朱音は静かに目を閉じた。
テレビの中で、篝が微笑んでいる。
その笑顔の奥に、朱音には泣いている少女が見えた。
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