第4話 部長と、名前
神保貴子は、辞表の文面を考えながら歩いていた。
拝啓、時下ますます。このたび一身上の都合により。
決まり文句だ。一身上の都合という言葉が、これほど嘘くさく感じたことはない。一身上の都合ではない。会社の都合だ。辻本部長の都合だ。二十六年間積み上げてきた信頼を、三ヶ月の工作で足元から崩した、あの男の都合だ。
でも、そんなことは書けない。
書けないから、一身上の都合、になる。
ヒールの音が、石畳に落ちる。いつもより重い音がした。気のせいかもしれない。でも自分の足音が、こんなに重く聞こえたことは、なかった気がする。
バッグが重かった。資料が詰まっている。今夜中に目を通して、明日の朝一番の会議に備えなければならない資料。でも、明日の会議に自分がいるかどうか、もうわからない。それでも資料を持ち帰っているのは、二十六年間の習慣だ。
スマートフォンが鳴った。
画面を見た。部下の梅田からだった。出なかった。今夜は、誰の声も聞きたくなかった。梅田には悪いが、今夜だけは。明日になれば、また部長の顔を作れる。今夜はまだ、作れない。
路地に入った。
人気の少ない、古い商店街の裏通り。ヒールで石畳を歩くのは、少し歩きにくい。でも大通りを歩く気になれなかった。人に顔を見られたくなかった。こんな顔を、誰にも見せるわけにはいかない。
明かりのついた店の前を、通り過ぎようとした。
* * *
「あの」
声がした。
扉の内側から。振り返ると、若い女性が静かに顔を出していた。白いエプロン姿の。落ち着いた、急かさない目をした女性。
「少し、お疲れのように見えます」
貴子は立ち止まった。
お疲れ。その言葉が、予想外の場所から飛んできた矢のように、胸に刺さった。そうだ、疲れている。疲れているに決まっている。でも今日一日、誰もそれを言わなかった。会議室では「部長、どうお考えですか」と聞かれ、廊下では「部長、少しよろしいですか」と呼び止められ、帰り際には「部長、明日の件ですが」と追いかけられた。
疲れていませんか、と言った人間は、一人もいなかった。
「よろしければ」と女性は言った。「少しだけ」
貴子は答えなかった。断ろうとして、でも声が出なかった。
重いバッグを、まだ持っていた。
女性がすっと扉を開けた。それだけだった。強いることも、引っ張ることも、何もしない。ただ、開けた。
貴子は、中に入った。
* * *
店の中は静かだった。
本棚が壁一面にある。本は一冊もない。不思議な店だとは思ったが、今夜の貴子には、それを深く考える気力がなかった。
「バッグをお預かりしましょうか」
女性が言った。
貴子は一瞬躊躇した。書類が入っている。機密文書もある。でも女性の目を見て、手から離した。バッグを誰かに預けたのは、いつぶりだろう。出張のとき空港のポーターに頼んで以来か。それ以外は、いつも自分で持っていた。全部自分で持っていた。
奥のテーブルに通された。椅子に座ると、体がため息をついた。体だけが、正直だった。
しばらくして、女性がカップを持ってきた。
薄い緑色の液体。ほんのり甘い、草の香り。
「白茶です」と女性は言った。「淡くて、静かなお茶です。よろしければ」
貴子は受け取った。口に含んだ。
不思議な味がした。紅茶でも緑茶でもない。苦みがない。甘みもほとんどない。ただ、何か、湯の中に空気が溶けているような、静かな味がした。
飲んでいると、肩が、少し下がった。
気づいていなかった。ずっと肩を張っていたことに。今日一日どころか、ずっと。どれだけ前からか、もう思い出せないくらい、ずっと肩を張って歩いてきた。
「……白茶というのは」と貴子は言った。「珍しいですね」
「産毛のついた若い葉だけを使うんですよ」と女性は言った。「手をかけすぎずに、そのままにしておくんです。そうすると、こういう味になりますの」
手をかけすぎずに、そのままにしておく。
貴子は、その言葉をカップの中で転がした。
「お名前を聞いてもいいですか」と女性は言った。
「……神保です。神保貴子」
「貴子さん」
その呼び方で、貴子は少し考えた。
貴子さん。いつ以来だろう。職場では「部長」。家族の前では「お母さん」か「ねえ」か。夫は十年前に亡くなった。夫は「たかこ」と呼んだ。名前で呼ぶ人間が、夫しかいなくなって、その夫もいなくなって、以来誰かに名前を呼ばれる機会が、どれだけあっただろう。
「朝比奈 紬と申します」と女性は言った。「紬とお呼びいただけますか」
「紬さん」
「はい」
紬は一歩引いて、でも遠くへ行くのでもなく、ちょうど良い距離にいた。話しかけてくる圧力がない。でも、ひとりにするわけでもない。この距離感が、今の貴子には、ありがたかった。
「ここは」と貴子は言った。「本屋ですか」
「はい」
「本が、ないのね」
「地下にございますの」
「地下に」
「店主が、貴子さんに合った一冊をお選びします」
貴子はカップを置いた。
「私が何も話していなくても」
「ええ。それで大丈夫なんですよ」
大丈夫。
その言葉の意味が、入ってくるまでに少し時間がかかった。何も話さなくていい、ということが。二十六年間、何かを伝えるために言葉を選び続けてきた。会議でも、交渉でも、部下への指示でも、言葉は常に武器だった。でも今夜は、何も言わなくていい。
そう思った瞬間、奥の扉が開いた。
* * *
男が現れた。
背の高い、銀髪の男。黒いジャケット。静かな所作。貴子はこういう人間を知っている。職場にもいる、静かなのに存在感のある種類の人間。でも御子柴のそれは、職場のそれとは少し違った。職場の静けさは、計算された静けさだ。御子柴の静けさは、ただ、静かだった。
男はテーブルの前に立ち、名刺入れを出した。両手で一枚を差し出した。
「みこしば じん、と申します」
貴子は受け取った。職業的な反射で、すぐに自分の名刺入れに手が伸びた。
「いいえ」と御子柴は静かに言った。「名刺はよろしいです」
貴子は手を止めた。
名刺はよろしい。その一言が、何かを解いた。二十六年間、初対面の相手には必ず名刺を出してきた。役職を出してきた。部長、神保貴子、という肩書きを盾にして、自分を守ってきた。今夜はそれをしなくていい。
御子柴は向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。
貴子を見た。
見透かされる感じがした。でも不快ではなかった。この目は、弱点を探す目じゃない。ただ、見ている。貴子がここに持ってきたもの全部を、静かに受け取っている目。
辻本のことを、言おうかと思った。嵌められたことを。二十六年間守ってきたものが崩された夜を。
言わなかった。
言わなくても、この人には届いている気がした。根拠はない。でも、そう感じた。
御子柴は立ち上がった。
「少々、お待ちください」
奥の扉へ歩いていった。
* * *
扉が閉まると、静寂が戻った。
紬が白茶を注ぎ足してくれた。音もなく、さりげなく。
「貴子さん」
「はい」
「お仕事は、長いのですか」
「二十六年です」と貴子は言った。言ってから、自分でも驚いた。知らない人間に年数を言うつもりなどなかった。
「二十六年」と紬は繰り返した。静かに、噛みしめるように。「それは、長い旅でしたわね」
旅。
仕事を旅と表現されたことは、なかった。苦労とか、キャリアとか、実績とか、そういう言葉で語られることはある。でも旅、とは言わない。旅という言葉には、終わりがある。寄り道がある。疲れたら宿に泊まる、という概念がある。
「貴子さんは」と紬は言った。「今日、どこかで白いものをお召し上がりになりましたか」
「......え?」
「お食事です。今日の」
貴子は考えた。今日、何を食べたか。朝は駅のホームでサンドイッチを立ち食いした。昼は会議が重なって食べていない。夕方に部下が差し入れてくれたチョコレートを一かけ。それだけだ。
「......食べていないですね、ほとんど」
「そうではないかと思いましたわ」紬は言った。心配でも責めるでもなく、ただ確認した、という声で。「少し、お持ちしますね」
しばらくして、小さな皿が来た。白いご飯を丸めた、小さなおにぎりが二つ。塩だけ。シンプルな、それだけのもの。
貴子は一つ手に取った。
温かかった。
口に入れると、米の甘みがした。咀嚼するうちに、体のどこかから力が抜けていく感じがした。食べる、ということが、こんなに体に直接届くことを、忘れていた。
もう一つも、食べた。
「ありがとうございます」
「いいえ」と紬は言った。「お代わりもございますよ」
貴子は、少し笑った。
* * *
足音がした。
御子柴が戻ってきた。手に、一冊の本を持っている。
深い紺色の表紙。布張りで、角が丸みを帯びている。大判だが、厚みは薄い。背表紙に金色の文字が入っている。タイトルは、こちらからは読めない。古い本の気配があるが、傷んでいない。大切にされてきた本だ、とわかった。
御子柴はテーブルの前に立ち、両手で差し出した。
貴子は受け取った。
軽かった。薄い本だから当然だが、それ以上に軽かった。今まで持ってきたものの重さと、あまりにも対照的な軽さ。バッグの書類の重さ。二十六年の実績の重さ。今夜の辞表の重さ。それらと比べると、この一冊は、拍子抜けするほど軽かった。
タイトルを見た。
読んだ。
深く、息を吸った。
「責任」という文字は、どこにもなかった。「損失」も「キャリア」も「仕事」もなかった。でも、この本が今夜の自分に向けて選ばれたことは、わかった。
なぜわかるのか、説明できない。でも、わかった。
「お買い上げありがとうございます」
御子柴の低い声が、静かに落ちてきた。
「あなたに最高のひとときを、お約束します」
貴子は、その言葉を聞いて、目を閉じた。
一秒か、二秒か。
お約束します、という言葉の重さを、受け取るための時間が必要だった。この言葉を、今夜言えた人間は、この店の男だけだった。
目を開けた。
「......ありがとうございます」
今日一日で、一番、自分の声がした。
* * *
帰り際、紬がバッグを丁寧に手渡した。
「貴子さん」
「はい」
「今夜、帰ったら」紬は少し間を置いた。「靴だけ、脱いでくださいな。まず靴を脱いで。それだけでいいんですよ、最初は」
靴を脱ぐ。
ただそれだけのことだ。でも紬の言い方は、靴を脱いだ先に、少しだけ違う夜がある、と告げているようだった。
「また、いらしてくださいな」
貴子は頷いた。言葉が出なかった。代わりに、深く頭を下げた。
扉を出ると、夜の路地があった。
ヒールの音が、石畳に落ちた。
行きより、一音、軽かった。
貴子は本を、バッグには入れなかった。書類と一緒にしたくなかった。脇に抱えて歩いた。深い紺色の表紙が、外灯の光を受けて、少し光った。
今夜は、帰ったら靴を脱ごう。
それから、この本を開こう。
辞表は、明日考えればいい。明日の自分は、今夜の自分より、少しだけ違うかもしれない。そう思うだけの理由が、今夜できた。
* * *
## 御子柴 尋 —— 独白
名刺を受け取ろうとした手を、止めた。
肩書きを盾にしてきた人間に、肩書きを要求するのは、今夜は違うと思った。今夜この人に必要なのは、神保貴子という人間として扱われることだ。部長でも管理職でもなく。
地下へ降りながら、考えた。
嵌められた、ということは、見えた。詳しい事情はわからない。でも、バッグの重さ、肩の角度、スマートフォンを握りしめる手、何も言わないまま全部を一人で持ち続けてきた人間の気配——それが、にじみ出ていた。
この人の痛みは、孤立でも消耗でも疲弊でもない。
孤高、だ。
強くあることを選んできた。選んできたから、弱さを見せる場所がどこにもない。弱さを見せる習慣がない。見せてはならないと思ってきた。その二十六年が、今夜一気に押し寄せている。
棚の前に立ったとき、手は一冊に向かった。
薄い本だ。難しい本ではない。有名な本でもない。でも、この本を書いた人間は、同じ種類の孤高を知っている。強くあることを選んだ人間が、ある夜、ひとりで読んで、泣く本だ。泣いていいと思える本だ。
渡したとき、彼女はタイトルを見て、目を閉じた。
その一秒が、答えだった。
紬さんがおにぎりを出していた。
私には思いつかなかった。でも、正しかった。言葉より先に、体が必要としているものがある。あの人は今日ほとんど食べていなかった。空腹の体に本を渡しても、半分しか届かない。
紬さんは、私が気づかないところで、いつも先に気づいている。
帰り際、靴を脱いでくださいな、と言っていた。
それは、鎧を脱ぐ、ということだ。玄関で靴を脱ぐとき、人は少しだけ外の世界と切り離される。その一瞬が、今夜のあの人には必要だ。
明日、あの人が辞表を書くかどうか、私にはわからない。
でも今夜、少しだけ違う自分で眠れるだろう。
それで十分だ。
この店は、答えを出さない。
ただ、今夜を渡す。
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