3.侵毒

翌日。

今日は絶対に来ないつもりだった。

……なのに、結局こうして錆びた滑り台の下に座っている。


昨夜スーパーで万引きした安物の焼酎を煽りながら、苛立ち紛れに鉄柵を殴りつけたせいで、右の拳は紫色に腫れ上がっていた。


「……あ、来た。よかった、今日は来ないかなって思ってたから」


頭上から声がした。滑り台のてっぺんに、泉明がいた。

言葉とは裏腹に、今日は最初から俺が来るのを確信していたような顔をしている。

昨日のことなんてなかったかのように軽やかに滑り降りてくると、俺から拳一個分ほど距離を置いた場所に座った。


「手の甲、酷い色だね。誰かと喧嘩したの?」

俺の怪我を恐れる風でもなく、ただじっと見つめている。


「…うるせぇ。お前に関係ねーだろ。チクりでも何でも好きにしろ」

「しないよ。…旭くん、今日はお酒飲んでるんだね。それ、あんまり美味しくないでしょ」

泉明は膝を抱えて、俺の横顔を覗き込んできた。


「美味い不味いじゃねぇんだよ。酔ってねーとやってらんねぇだけだ。お前みたいな奴にはわかんねぇだろ」

「わかんないよ、そもそも未成年だし。…そうじゃなくても、私の周りの大人は、お酒を飲むのも『汚れ』って言うけど」

「だろうな」

「うん。…でもさ、学校のみんなでさえ、私の前では絶対汚いことしないの。丁寧にお礼言って、優しく笑って、絶対に怒らない。

私が間違ったことをしても、みんな笑って流しちゃう。みんな怖いんだよ、私の後ろにいる『あいつら』を怒らせるのが」


諦めたような声色だった。


「…知るかよ、お前が何者だろうが関係ねぇ。大人ですらあんな気色悪い連中にビビって文句も言えねーのか。情けねぇな」

「言えないよ。誰だって面倒事は避けたいもん。…だから、すごく嬉しかった。あんただけだよ、私を特別扱いしないで、ちゃんと一人の人間として嫌ってくれるの」

「…やっぱお前おかしいわ。普通は引くだろ。俺みたいなゴミには関わんねーほうがいい」

「ゴミじゃないよ。ただタイヤがボロボロなだけ」

「…それムカつくからやめろ」

泉明は笑いながら、ポケットから一粒の飴を取り出し、自分の口に放り込んだ。


俺は溜息をつき、新しいタバコに火をつけた。

「……なあ」

「ん?」

「お前もずっと学校サボってんのか。

その格好で、平日の二時にこんなとこいるってことはさ」

「旭くんに言われると新鮮だね。

えっとね、最近は一応午前中だけ行ってる。そろそろちゃんと行かなきゃなーとは思ってるけど…」

「……けど?」

「学校のみんなと話すより、旭くんと話してるほうが楽しくて」

「…はぁ? おめでてーな。俺なんかセンコーからも親からも害悪扱いされてるゴミだぞ。教室でまともな奴らと一緒の方がよっぽどマシだろ」


俺は吐き捨て、地面に転がった石ころを苛立ち紛れに蹴飛ばした。

だが、泉明は茶化す風でもなく笑った。


「マシじゃないよ。あそこにいるほうが息苦しくなる。…旭くん。あんた、昨日私が話したこと、本当は全部わかってるでしょ?」

「何がだよ」

「宗教のこととか、パパの頭の中が原油みたいだって話。普通あんなの聞かされたら、かわいそうって同情するか、怖がって距離置くかの二択なんだよ。

でもあんたは昨日、気色悪いって一言で切り捨てたじゃない。

…上手く言えないけど、余計なとこ全部飛ばして、一番痛いとこだけ触れてきてる感じがする」

「考えすぎだ。俺はただ思ったことを口にしただけだよ」

「それができるのが頭のいい証拠。勉強だってそうでしょ?あんた授業受けてないくせに、たまにテスト受けると妙に点数いいって噂聞いたことあるよ。数学とか」

「……っ、それは……」


図星だった。

公式なんて一文字も覚えていない。ただテスト用紙に並ぶ数字の羅列を見ていると、あるべき場所にあるべき数字が収まっていない違和感が、勝手に浮かび上がって見えるだけだ。パズルを解くのと大差ない、退屈な作業だった。


「あんなもんただのパターンだろ。数学だけじゃねぇ、国語の読解だって一緒だよ。…それを一時間もかけて偉そうに説明してるセンコーの面が、ただ気に入らねーんだよ」


俺が不貞腐れてそっぽを向くと、泉明は飴を噛み砕く口を止めて、まじまじと俺の顔を覗き込む。今までにない真剣な表情だった。


「いやいや…国語なんて何も考えないで生きてたら特に難しくない?答えだってひとつじゃないパターンあるし。

…やっぱあんたさ、そのエンジンもっとすごいことに使いなよ!ボロボロのタイヤで空回りさせてる場合じゃないって」

「何だよ急に」

「あんたみたいな本質を突けるお人好しがさ、本気で誰かの話を聞いたら…たぶん私みたいな迷子の子猫ちゃん、一瞬で救われちゃうよ」

「は…?」


自分が誰かを救う?

自分の人生すら泥沼に沈んでいるっていうのに?


「…言ってろ。俺は一生ここで煙に巻かれて終わるんだよ」

「あはは、どうかな。私の直感結構当たるんだよ? 旭くんはいつか、私との約束を守るために、すごく真面目で真っ直ぐな人になる気がする」


人生で初めて人と交わした、未来の話だった。


「真面目で真っ直ぐな人ぉ……?きめぇ。飴の食いすぎで脳みそ溶けたんじゃねーの?」

俺は悪態をつきながら、短くなった吸い殻を地面に押し付けた。

泉明はそんな俺の反応を楽しむように、

「ひどーい!」と笑いながら滑り台の淵に足をぶらつかせている。


「ねぇねぇ、明日さ、一日学校サボってどっか行かない?」

「は? 明日もここに来るんじゃねーの?」

「うーん…なんか、この景色に飽きてきちゃった。もっとこう、色がたくさんあって、誰も私たちのことを知らない場所……海とか!行ってみたいなぁ」


彼女はそう言って、遠くの、住宅街の屋根の向こう側を指差した。

中学生が行くには少し遠いけれど、電車を乗り継げば届かない距離じゃない。「海」という言葉が、今の自分たちから最も遠い、

不釣り合いなほど眩しいものに聞こえた。


「…金ねーぞ。電車賃くらいなら、ボコった奴から巻き上げたやつあるけど」

「あはは、最低だね!でもいいよ。私もお小遣いなんてないから、集会所の掃除したときに椅子とか畳の隙間に落ちてたやつ、何ヶ月もかけて集めたの。

…ね、行こうよ。明日の十二時、駅の裏側で待ち合わせ。遅刻したら私一人で海に飛び込んじゃうからね」


泉明はそう言い残すと、カバンを掴んで軽やかに駆け出した。

夕暮れの街に消えていく彼女の背中は、

教団のお人形でも、学校の腫れ物でもない、

ただの十四歳の少女のそれだった。


「…海か。似合わねーよ、お前も俺も」


俺はポケットの中で冷たくなったライターを弄んだ。

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