第37話 柚葉への一品

約束通り、柚葉のために一品作った。


 何を作るか迷った。料亭仕込みの技を見せるべきか——いや、それなら柚葉自身が作れる。彼女が欲しいのはそういうものじゃない。


 結局、選んだのは——カレーライスだった。


 柚葉が来る三十分前に仕込みを始めた。玉ねぎを三つ、飴色になるまで炒める。にんじんは乱切り。じゃがいもは大きめに切る。鶏もも肉を一口大にして、表面に焼き色をつける。市販のカレールウを使う。料亭の人間がルウを使うのは反則かもしれないが——これは家庭料理だ。


 隠し味に、すりおろしリンゴと味噌を少々。


 チャイムが鳴った。


「先輩、来ましたー!」


「入れ」


 柚葉が入ってきた。玄関で靴を脱ぐ前に——鼻が動いた。


「……カレー?」


「うん」


「先輩が……カレー」


「何がおかしい」


「いや、おかしいっていうか——先輩の口からカレーって出ると、世界観が崩壊するっていうか」


「黙って座れ」


 テーブルに、カレーライスを並べた。二人分。ご飯は型抜きなんかしていない。しゃもじでこんもりよそって、隣にカレーをかけた。ラッキョウと福神漬けを添えた。


 柚葉は皿を見つめていた。


「……これが先輩の、家庭料理」


「ああ」


「氷室さんも、いつもこういうの食べてんですか」


「カレーの時もあるし、ハンバーグの時も、肉じゃがの時もある。普通の飯だよ」


「……普通の」


 柚葉がスプーンを手に取った。カレーをすくう。口に入れる。


 咀嚼。


 三秒。


 柚葉の目が——開いた。


 プロの板前として何千回と出汁の味見をしてきたはずの舌が、市販のルウのカレーに——反応している。


「……なんですか、これ」


「カレーだけど」


「カレーは、わかります。でも——なんでこんなに、美味しいんですか。ルウでしょう? 味噌と……りんご? この深みは——」


 スプーンの手が止まらなくなっていた。二口目、三口目。加速する。


「先輩。この味——板場では絶対に出せない味です」


「当たり前だろ。板場でカレーは作らない」


「そうじゃなくて。この——何だろう。技術じゃない何か。味に、ぬくもりがある」


 ぬくもり。


 鈴音が言っていた「あったかい」と、同じ言葉。柚葉ですら——この味に、技術とは別の何かを感じている。


 柚葉は皿を空にした。スプーンを置いて——ふっ、と息を吐いた。


「……ずるいです、先輩」


「何が」


「こんなの食べたら——帰れなくなるじゃないですか」


 声が、震えていた。泣きはしなかった。でも——危なかった。


「帰れよ。帰って、修行しろ」


「……はい」


「柚葉。お前の腕は本物だ。あと三年もしたら、俺を超える」


「超えませんよ。先輩は天才だから」


「天才じゃない。面倒くさがり屋の元跡取りだ」


 柚葉がまた、くしゃりと笑った。


「……先輩。最後に一個だけ」


「ん」


「氷室さんを——大事にしてください。あの人、先輩が思ってる以上に、もろいです」


「……わかってる」


「わかってるなら——ちゃんと言葉にしてください。先輩、いつも料理で伝えようとするけど、時には声も出さなきゃダメです」


 痛い指摘だった。


 柚葉は立ち上がって、スニーカーを履いた。リュックを背負った。


 振り向いた。


「先輩。ごちそうさまでした」


「お粗末さまです」


 柚葉の目が——一瞬だけ、光った。


「……お粗末さまです、って言ってもらえたの——初めてです」


 ドアが閉まった。


 足音が遠ざかっていく。階段を降りる。アパートの外に出る音。そしてもう、聞こえなくなった。


 テーブルの上に、二つの空いた皿。


 一つは柚葉の。一つは俺の。


 柚葉の分の皿を洗いながら——明日鈴音が戻ってきた時のために、カレーの残りを温め直す段取りを考えていた。


 ひどいやつだ、俺は。

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