第2章 料亭の技術と令嬢の舌、そして崩壊する語彙力

第16話 スーパーの鑑定士

五月半ば。GWが明けてからも、鈴音との夕食は続いていた。


 変わったことが一つある。食材の買い出しに、鈴音が付いてくるようになった。


 きっかけは些細なことだった。日曜日の午後、俺が出かけようと玄関を開けたら、鈴音がちょうど廊下にいた。散歩にでも行くのかと思ったが、彼女はこちらを見て——買い物袋を確認するように視線を落とした。


「……買い出し、ですか」


「うん。スーパー」


「……」


 五秒の沈黙。


「……一緒に、行ってもいいですか」


 断る理由がなかった。


 ◇


 駅前のスーパー。日曜の午後で、そこそこ混んでいた。


 カゴを一つ取って、まず野菜コーナーに向かう。鈴音が半歩後ろをついてくる。距離感は五十センチくらい。近い。だが彼女は気にしていないようだった。視線は——俺ではなく、野菜棚に向いている。


「今日はアスパラの肉巻きにしようと思ってて。あと——」


「……みなとさん」


「ん?」


 鈴音が、俺の手を遮った。正確には、俺がアスパラガスに伸ばした手を、指先でちょんと触れて止めた。


「……それは、やめたほうがいいです」


「え?」


「……穂先の締まりが甘いです。収穫から三日は経っています。断面を見てください。乾燥して白くなっている」


 言われて、アスパラの切り口を見た。確かに——白い。みずみずしさがない。


「……こちらのほうが」


 鈴音が隣の束を手に取った。見た目はほぼ同じだが——穂先がきゅっと締まっている。断面は緑がかっている。


「……これは昨日入荷です。穂先の紫がかった色と、茎のハリが違います」


 プロだ。ミシュランの審査員が市場で仕入れをしているのと変わらない目つきだった。無表情のままだが、視線だけが鋭い。食材を見る時だけ、彼女の目は刃物になる。


「……すげえな」


「……ずっと、見てきただけです」


 また、あの言い方だ。「してきた」ではなく「見てきた」。食べる側の人間。


 カゴにアスパラを入れた。鈴音が選んだやつを。


 ◇


 肉コーナーに移動した。


 豚バラのブロックを物色していると、鈴音がまた——手を伸ばした。今度は俺の手を止めたのではなく、自分からパックを手に取った。


 見ている。


 パックを傾けて、表面の脂の色を確認している。次に裏返して、ドリップの量を見ている。三つ目のパックを手に取り、同じ動作。四つ目。


 五つ目で——小さく頷いた。


「……これ」


 差し出されたパックを見る。正直、俺の目には違いがわからない。どれも同じ豚バラに見える。


「何が違う?」


「……脂の白さ。融点が低い脂は白が澄んでいます。赤身との境目のグラデーションが滑らかなものは、飼料が良い証拠です。ドリップがほぼ出ていないということは、冷蔵温度の管理も適切で、鮮度のピークに近い」


 ……怖い。


 いや、すごいのか怖いのかもう分からない。スーパーの豚バラに対して「融点」と「飼料」を語る大学二年生。


「じゃあ、これにしよう」


「……はい」


 鈴音がカゴにパックを入れた。その仕草が——少し嬉しそうだった。表情は変わっていない。けれど、パックをカゴに置く手つきが丁寧で、確認するようにもう一度そのパックを見つめていた。


 自分が選んだものを買ってもらえたことが——嬉しいのだろう。


 ◇


 鮮魚コーナー、乳製品、調味料。行く先々で鈴音は「鑑定」を続けた。


 鯵の目が澄んでいるかどうか。牛乳の製造日。味噌の成分表。


 俺は黙って、彼女の選定に従った。たぶん、彼女が選んだ食材のほうが——俺が選ぶよりも確実に質が高い。


 料亭の仕入れは、親父が信頼する仲卸業者から直接取る。築地——今は豊洲——の市場で、目利きの勝負をする世界だ。俺は親父について市場に行ったことはあるが、あの目利きの腕は親父のもので、俺のものじゃない。


 隣を歩いているこの女は——親父に匹敵するか、あるいはそれ以上の「見る目」を持っている。食べることに特化した目利き。


 ◇


 レジを済ませて、袋に詰めて、アパートまでの帰り道。


 鈴音がいつもより少し——本当にわずかだが——俺の近くを歩いていた。距離が五十センチから三十センチくらいに縮まっている。買い物袋が時々ぶつかる距離。


「……みなとさん」


「ん」


「……今日、楽しかったです」


 面食らった。


 スーパーに行っただけだ。日曜日の買い出し。主婦がやるような、日常中の日常。それを——彼女は「楽しかった」と言った。


「買い物が?」


「……食材を選ぶのが。……一人だと、選んでも意味がないので」


 ——選んでも意味がない。


 その言葉が刺さった。どれだけ目が良くても、一人で食べる分には何だっていい。誰かに食べてもらう料理のために選ぶから、食材選びは楽しい。


 それは——俺にも言えることだった。一人暮らしの俺が、なぜ二人前の食材を買い込み、料亭仕込みの出汁を引いて、副菜まで作るのか。


 食べてくれる人間がいるから——だ。


「また来いよ。毎回」


「……いい、んですか」


「お前が選んだほうが、食材の質は確実に上がるし」


「……」


 耳。赤い。


「……はい」


 アパートの階段を上がる。買い物袋からアスパラの穂先がはみ出ている。鈴音が選んだ、穂先がきゅっと締まった一束。


 二〇二号室のドアを開ける。鈴音は自分の部屋には入らず、そのまま俺の部屋に入った。


 着替えてくるとも言わない。自分の部屋に荷物を置くとも言わない。自然に——俺の部屋の台所に向かって、エプロン代わりのタオルを腰に巻いた。


 ……いつから、うちにタオルを常備してるんだ、この女。


「……洗います。食材」


「頼む」


 二人で台所に立った。鈴音がアスパラを洗い、俺が豚バラを切る。狭い台所で、肩が触れそうな距離。


 この距離が——三十センチが——どこまで縮まるのか。


 まな板に刃を走らせながら、その答えの出ない問いを、頭の隅で転がしていた。

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