第6話

 芸能人の変装というものは、根本的に間違っている。


 目深に被った黒い帽子、顔の半分以上を覆う黒いマスク。あれは周囲に対して「私はここに隠れています」という看板を明滅させて歩いているようなものだ。


 本当に街の風景に溶け込みたいのなら、透明なレジ袋を下げ、そこから長ネギを一本突き出しておくべきだ。長ネギを持っている人間に対し、通行人は無意識に「今日の夕飯は鍋だろうか」という生活感を見出し、それ以上の関心を失う。長ネギこそが、現代社会における最強の光学迷彩である。


 深夜二時。定位置のベンチでそんな防犯理論を組み立てていた俺の視界に、まさにその「間違った変装」の典型例が現れた。


「……コンビニ強盗の下見なら、ここは管轄外だよ」


「違うよ! マネージャーさんに『夜出歩く時は絶対にこれを着けろ』って渡されたの」


 黒い帽子と黒いマスクをむしり取るように外すと、下から雫の不機嫌な顔が現れた。


 息を弾ませているところを見ると、どうやら走ってきたらしい。


 雫はベンチにどさりと座り込み、自販機の方をチラリと見た。俺は無言で立ち上がり、百円玉を弾いて激甘ココアを買い、彼女の膝に落とした。


「……ありがと」


「声が枯れているね。マンモス狩りの特訓でもしすぎた?」


「ボイトレの先生が鬼だったの。腹式呼吸がどうとかで、お腹に辞書三冊乗せられて歌わされた。私、歌手じゃなくてアイドルなんだけどな」


「物理的な重圧に耐えられれば、精神的な重圧にも耐えられるという前時代的なスポ根理論だね。辞書の角が胃に刺さらなかっただけマシだと思わないと」


 プシュ、とプルタブを開け、雫はココアを一口飲んで深くため息をついた。


「いよいよ来週、お披露目ライブだよ。……ねえ湊、もしお客さんが誰も来なかったらどうしよう。客席がガラガラだったら」


「その分、会場内の酸素濃度が高く保たれる。二酸化炭素中毒のリスクが減って、健康にいいライブになるね」


「そういうこと聞いてるんじゃないんだけど! もうちょっとこう、アイドルを励ます定番のセリフとかないの?」


「俺の脳内辞書にそんな便利な定型文は登録されていない。そもそも――」


 俺が言いかけたその時だった。

 ベンチから少し離れた公園の入り口付近。街灯の光が届かない暗がりに、見慣れないグレーのワンボックスカーが停まっていることに気づいた。


 エンジンはかかっていない。だが、運転席の窓が数センチだけ開いており、そこから黒く細長い円筒形の物体が、真っ直ぐこちらを向いている。


 微かに反射した街灯の光で、それがカメラの望遠レンズであると脳が認識するのに、一秒もかからなかった。トロール網の漁師か、それともただのハイエナか。


 どちらにせよ、事態は極めてシンプルだった。


 デビュー直前の期待の新人アイドルが、深夜の公園で見知らぬ男と密会している。その構図だけで、ネットニュースのトップを飾るには十分すぎるほどのカロリーがある。


「湊?」


「……雫さん、長ネギは持ってきた?」


「何言ってんの、持ってくるわけないじゃん」


「そうか。光学迷彩がないなら仕方ない。今すぐ、振り返らずに南側の出口から帰ろう」


 俺は立ち上がり、ベンチに座る雫を見下ろした。


「え? なんで?」


「あの入り口の茂みに、俺が先週からマークしていた巨大な野犬がいるんだ。今から奴と最終決戦を行う。民間人を巻き込みたくない」


「はあ!? 野犬って、ここ住宅街だよ!?」


「狂犬病のウイルスは住所を選ばない。いいから早く。明日のボイトレに遅れて、また辞書を乗せられるよ」


 俺は雫の背中を押すようにして、南側の出口を指さした。雫は不満げに口を尖らせたが、俺の普段とは違う早口なトーンに何かを感じ取ったのか、立ち上がった。


「……わかったよ。怪我、しないでよ」


「うん」


 雫が小走りで南側の暗がりへ消えていくのを見届けた後。


 俺は入り口のワンボックスカーに向かって、ゆっくりと歩き出した。逃げる素振りは見せず、ただ真っ直ぐに、レンズの焦点に向かって歩を進める。


 車の数メートル手前で立ち止まり、俺は手の中にあった空のココア缶を、足元のブロック塀に勢いよく叩きつけた。


 ガァンッ! という鋭い金属音が、深夜の住宅街に響き渡る。


 車の窓が、慌てたようにウィーンと音を立てて閉まった。直後、エンジンがかかり、ワンボックスカーは逃げるように夜の闇へと走り去っていった。


 威嚇は成功したらしい。撮られたのが「凶暴な男が空き缶を叩きつけている写真」だけなら、少なくともアイドルのスキャンダルにはならない。


 俺は凹んだココアの缶を拾い上げ、ゴミ箱に放り込んだ。車が消えた後の公園は、いつもの静寂を取り戻していた。だが、もう以前と同じではない。


「……離れるしかないか」


 自販機の明かりだけが、主を失ったベンチを白々しく照らしている。ここはもう、安全な特等席ではなくなったのだ。

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