第9話 白い花の記録
間に合わなかった。
ノアの声は、鐘のあとに残る震えみたいに、耳の奥で消えなかった。
それを持っていたのが私なら。
私は。
言葉はそこで欠けたのに、欠けたところばかりが残った。
「確認は、ここまでだ」
ロランの声で、場が切られた。
記録官が紙の角をそろえる。羽根ペンは置かれない。置かれないまま、次の紙へ移れるように、指だけが整えられていた。
「エルヴェール様は、奥の控えへ」
「まだ聞いていません」
自分の声が思ったより低かった。
ロランは私を見た。
怒ってはいない。
ただ、ここに立っている私を、場に残すべきものとして数えていない目だった。
「続きは、場を改める」
続き。
その言い方が嫌だった。
続きがあるものは、今ここで閉じられてもいいものに聞こえる。
侍女が二人、私の左右に立った。
袖には触れない。
触れないのに、進む先は決まっていた。
振り返らなかった。
振り返れば、ノアがまだあの刃を見ていないか確かめてしまう。確かめれば、また戻れなくなる気がした。
夜会場の裏廊下は、表よりも灯りが少ない。
候補者控えと救護控えが並び、扉の前だけ人の影が増えていた。布で押さえた声が、壁に吸われる。薬の苦い匂いと、濡れた布の匂いが混ざっていた。
私はそこを通り過ぎるはずだった。
白い布が揺れた。
その隙間から、水色の袖が見えた。
足が止まる。
セリア・ミルフォード。
名前を思っただけで、胸の奥が硬くなった。
白い花の記録に、災いと出た方です。
あの声。
あの細さ。
あの整えられた震え。
彼女が倒れていても、弱っていても、あの声は消えない。
私を押し出した声だ。
災いという名の方へ、誰もが見ている場所へ。
かわいそうだとは思わなかった。
まだ、思えなかった。
「エルヴェール様」
侍女が小さく呼ぶ。
私は返事をしなかった。
救護控えの中では、浅い銀の盆が寝台の脇に置かれていた。外された手袋。白い布。細く折られた薬包。水を含ませた綿。
その手袋の折り返しに、白い紙の角が張りついていた。
紙は小さい。
文字までは見えない。
けれど、端がまっすぐではなかった。爪で引っかけたように斜めに乱れ、折り目のところに淡い青が残っている。
粉、ではなかった。
布の繊維なら、あんなふうに光らない。
爪で削れたろうのように、硬いものが薄く砕けて、紙の折り目に残っている。
どこかで見た色だった。
思い出す前に、セリアの指が動いた。
細い指が、盆の縁を押す。
銀が小さく鳴った。
紙の角は手袋の下へ戻りかけ、戻りきらずに止まる。
セリアは目を開けていた。
開けている、というより、閉じられずにいる目だった。焦点が合わないまま、私の肩の横を見ている。
私ではない。
戸口だ。
廊下だ。
布の向こうを通る白い手袋だ。
喉がかすかに上下した。
「……違」
声になったのは、それだけだった。
「何が」
私は一歩、足を出しかけた。
侍女が止めようとしたが、布の内側から別の声がした。
「近づかずに」
神官長の補佐だった。
灰色の衣の胸元に、小さな記録板を抱えている。許した、というより、止める理由をまだ選んでいる顔だった。
私はセリアを見る。
彼女の唇は白い。
白いのに、噛んだ跡だけ赤かった。
「白い花の記録」
セリアの指が止まった。
私は声を低くした。
「あなたは、そう言ったわね」
セリアの目が、今度は私ではなく、補佐の手元へ飛んだ。
そこには、黒い筆先が紙の上に浮いていた。
そのまま、落ちてこない。
たった、それだけだった。
顔色は変わらない。
声も出さない。
セリアの指が薬包を握る。
紙の角が、手袋の下で少し折れた。
青いろうのようなものが、折り目にこすれて残る。
「そういう、意味では」
セリアの声は途中で切れた。
咳ではなかった。
何かを言うための息が、喉の手前でつぶれただけだった。
「では、どういう意味」
聞いてから、自分の声が硬すぎると分かった。
それでも、柔らかくはできなかった。
あの夜、彼女の声は柔らかかった。
柔らかいまま、私を災いにした。
「わたしの」
セリアの唇が震える。
「わたしの、言葉では」
仕切り布が揺れた。
補佐が一歩前へ出る。
記録板は胸の前で閉じられていた。音はしなかったのに、今の言葉まで一緒に閉じられたようだった。
「療養中の方に、これ以上は」
声は丁寧だった。
その丁寧さで、言葉の輪郭が薄くなる。
侍女が私の横へ戻る。
「エルヴェール様」
今度は、促す声だった。
私は動かなかった。
セリアは補佐を見ていない。
見ないようにしている。
でも、瞼だけがそちらへ引かれていた。
私だけを怖がっている目ではなかった。
そう思った瞬間、腹の底に残っていた怒りの置き場が、少しだけずれた。
消えたわけではない。
許したわけでもない。
セリアの白い唇より先に、紙の角と、止まった筆先が目に残った。
「参りましょう」
侍女の手が、今度は私の袖の外側に近づいた。
触れる前に、私は半歩下がる。
その時、仕切り布が戻った。
補佐の肩が、私とセリアの間に入る。
見えたのは、セリアの口だけだった。
声とは呼べないほど小さい。
息の形だけが、布の端を抜けて、私の耳に届いた。
「その言葉を、わたしが知っているはずがないんです」
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