第五話【壊れた調律、歪み始める世界】
「信じられねえ……。システムアシストなしで、あのレベル4のボスを、しかも乱反射する谷間で一撃の元に葬り去るなんて……」
月光が差し込む岩割谷の底で、チェロの男――レグルスは、未だに腰を抜かしたままカナタを見上げていた。彼の右目に灯る緑色の『Auto-Tuning: ON』の光が、まるで壊れた機械のように力なく明滅している。
「おい、大丈夫か」
カナタはアコギを背中に背負い直し、レグルスに向けて手を差し伸べた。その手を取って立ち上がったレグルスは、まだ現実を受け止めきれないといった様子で、自分の立派なチェロとカナタの無骨なアコギを交互に見つめている。
「大丈夫なわけないだろ。心臓が止まるかと思った。……いや、それ以上に、お前の戦い方が衝撃的すぎて頭が追いつかないんだ。お前、本当に『Auto-Tuning: OFF』のままであの精度のコードを弾いたのか? Fのバレーコードだぞ? この仮想世界の鉄弦で、補正なしであんな音が鳴らせるわけが……」
「現実(リアル)で、嫌になるほど指の皮を破って練習したからな」
カナタは短く答え、自分の左手の指先を見つめた。
ゲーム内アバターの皮膚はまだ微かに熱を持っているが、一気にレベル5へと上昇したことで、【技巧】と【旋律】のステータスが大幅に向上している。そのおかげで、先ほどまでの痺れるような疲労感は嘘のように引き、むしろ指先が世界の空気に馴染んでいくような、奇妙な全能感が全身を巡っていた。
「現実の技術がそのまま反映されるのか……。じゃあ、俺たちが使ってるこの『Auto-Tuning』は一体何なんだ……」
レグルスは自嘲気密に呟き、自身のチェロの弦を弾いた。
ポーン、とシステムによって完璧に均一化された、どこか無機質な音が響く。
「俺たちはみんな、この緑の光を信じてる。これさえあれば、どんな不器用な奴でも神演奏ができるって、ネットでも大騒ぎだった。でも、さっきみたいに地形の反響でシステムがバグったら、俺たちはただの木箱を抱えた木偶の坊だ。狙いも定められない、音も出せない……」
レグルスが語る内容は、まさにこの『レゾナンス・オンライン』というゲームが孕む本質的な恐怖だった。
システムが提供する100点の安全。それは裏を返せば、プレイヤーから「自力で対応する力」を奪う麻薬のようなものだ。ひとたび想定外の環境――この岩割谷のような乱反射地帯――に放り込まれれば、システムに依存したプレイヤーから順番に淘汰されていく。
「なあ、お前。名前はカナタって言うんだな」
レグルスはカナタのネームプレートを見て、真剣な表情になった。
「俺はレグルス。これでも現実じゃそこそこのオーケストラでチェロを弾いてるんだ。もしよかったら、一度街に戻らないか? お前に見せたいものがあるんだ。……いや、正確には、この世界の『不都合な現実』について、お前みたいな規格外の奴の意見を聞きたい」
「不都合な現実?」
カナタが眉をひそめると、レグルスは周囲を警戒するように声を潜めた。
「ああ。街の中央掲示板じゃまだもみ消されてるが……ファーストロットのプレイヤーの間で、奇妙な噂が流れてるんだ。『Auto-Tuning』をONにしたまま長時間プレイしていると、現実世界の音楽の感覚が“おかしくなる”ってな」
その言葉に、カナタの背筋を冷たいものが走った。
五感同調型オンラインゲーム。脳に直接信号を送り、聴覚も触覚も同期させる最新技術。もし、システムによる「完璧な補正」を脳が本物の感覚だと誤認し始めたら、現実の肉体はどうなるのか。
「……分かった。ちょうど俺も、このボス素材を処理したかったところだ。一度『アルモニア』に戻ろう」
カナタは頷き、レグルスと共に夜の谷を後にした。
一時間後。
夜の帳が完全に下りた始まりの街『アルモニア』は、昼間以上の熱気に包まれていた。
中央広場では、数え切れないほどのプレイヤーたちが酒場に集まり、システムアシストのおかげで簡単に無双できた武勇伝を語り合っている。誰もが「神ゲーだ」「ミフレ社は天才だ」と口々に称賛し、お祭り騒ぎに興じていた。
その喧騒を避けるように、カナタとレグルスは街の路地裏にある『調律工房』へと向かった。
そこは、プレイヤーの楽器のメンテナンスや、魔物の素材を使った武器強化を行うための施設だ。
「いらっしゃい。おや、夜更かしな吟遊詩人さんたちだね」
店主であるドワーフ族のNPCが、煙管をくわえながら不敵に笑う。
カナタはカウンターに、先ほど手に入れたばかりの戦利品を並べた。
『ウォルフ・ノーツの鋭爪×1』
『狼王の硬毛×1』
それを見たドワーフの目が、一瞬で丸くなった。
「おいおい、こいつは……『這いずる岩割谷』のボスの素材じゃないか! まだ誰もあそこには近寄ってないはずだが……。しかもこの毛並み、傷一つねえ。完璧な音圧で内部から破裂させなきゃ、こんな綺麗な状態でドロップするわけがねえんだ」
ドワーフは興奮気味にカナタのアコギ『エルムの響き』を手に取った。
「あんた、この初期楽器でやったのか? 信じられん。……よし、この『狼王の硬毛』をアコギの弦に編み込んで、サウンドホールの裏板を『鋭爪』で補強してやろう。あんたの腕に見合うだけの、とんでもない得物に化けるぜ」
「頼む」
カナタが頷くと、ドワーフはさっそく奥の作業台でハンマーを振るい始めた。
この世界における楽器の強化は、そのまま【音圧(攻撃力)】やスキルの伝導率に直結する。補正OFFで戦うカナタにとって、楽器のスペック向上はこれ以上ない純粋な戦力強化だった。
作業を待つ間、レグルスがカナタの隣に座り、自身の端末を開いて見せてきた。
そこにあったのは、公式掲示板の裏に存在する、プレイヤー有志が作った「非公式の秘匿スレッド」の画面だった。
「これを見てくれ、カナタ」
画面をスクロールすると、不気味な書き込みがいくつも並んでいた。
【非公式】Auto-Tuning機能に関する違和感報告スレ
45:名無しの演奏家
ログアウトして、現実のバイオリン触ったら絶望した。
弓の角度も、指の位置も、今まで体に染み付いてたはずの感覚が完全に狂ってる。
まるで、自分の手が自分のものじゃないみたいだ。
52:名無しの演奏家
45
お前もか……。俺もピアノのピッチが分からなくなった。
ゲーム内の『Auto-Tuning』が便利すぎて、脳が演奏をサボる癖をつけちまったんだ。
脳のシナプスが、システムの補正データに書き換えられてるんじゃないかって噂だ。
61:名無しの演奏家
ミフレ社の本当の狙いは何だ?
このゲーム、長く続ければ続けるほど、現実の『音楽家としての才能』がシステムに吸い取られていくぞ……。
カナタはその画面をじっと見つめた。
システム補正ONのヌルゲー、簡単で安全な世界、跳ね上がる必要経験値、そして乱獲される魔物。
すべては、プレイヤーをこの世界に依存させ、右目の『Auto-Tuning』を灯し続けさせるための「罠」だったのではないか。
「俺は、現実のチェロを失いたくない」
レグルスが、震える手で自身のチェロを握りしめた。
「だから、決めたんだ。カナタ、俺に……『Auto-Tuning: OFF』での戦い方を教えてくれ。お前みたいに、自分の指で、自分の耳で、この世界と戦う方法を」
その真剣な眼差しを受け、カナタは背中に戻ってきたばかりの、新しく生まれ変わったアコギのネックを握り直した。狼の硬毛が編み込まれた弦は、黒く怪しい光沢を放っている。
「いいぜ。ただし、死ぬほど泥を這うことになるがな」
カナタが不敵に笑ったその時、工房の外、街の中央広場から「地響き」のような不協和音が轟いた。
悲鳴、そして、昼間には聞いたこともないような巨大な魔物の咆哮が、安全圏であるはずの街の結界を突き破って響き渡る。
「な、なんだ!? 街の中で戦闘の音が……!?」
レグルスが跳び起きる。
カナタはアコギの弦を軽く弾いた。
――ボォンッ。
かつてないほど重厚で、大気をビリビリと震わせる圧倒的な音圧が、工房の空気を支配する。
「システムに牙を抜かれた奴らじゃ、あの音は止められない。行くぞ、レグルス。新兵器の試運転だ」
(第五話・了)
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