紫煙の温度

耕生

紫煙の温度   朽ちた古木 第三弾


 消防署の裏の喫煙所は、昔から変わらない。


 古いベンチ。

 錆びた灰皿。

 夜勤明けの缶コーヒー。


 三月の終わり。

 退職した後のある朝、元消防士の村瀬 恒一は、退職後の書類処理で署へ来ていた。


 三十五年。


 火事の匂いで季節を覚え、サイレンで時間を知る人生だった。


 ポケットから煙草を取り出し、火をつける。


 煙が、朝の空気にゆっくり溶けていく。


 煙草を吸う時間だけは、不思議と心がほどけた。


 現場では気を張る。

 人前では強くいる。

 後輩の前では、迷いを見せない。


 だから、煙を吐く数秒だけ、自分の輪郭に戻れた。


「村瀬さん」


 声を掛けたのは後輩の安田だった。


「お久しぶりです。元気にされてますか?」


「お前ら、仕事しろ」


「まだ朝礼前です」


 若い隊員たちも笑いながら集まってくる。


「退職ってどんな感じなんすか?」

「朝、起きた時どうでした?」

「やっぱ解放感あります?」


 村瀬は少し考えた。


「……静かだな」


「静か?」


「誰にも呼ばれん。電話も鳴らん。今日どこへ行くかも決まってない」


 隊員たちが黙る。


 村瀬は煙草を見つめた。


 退職すると、人は裸になる。


 消防士という肩書も、階級も、役割もなくなる。


 昨日まで“必要な人間”だったのに、今日から急に何者でもなくなる。


 若い頃、制服を初めて着た時、不思議に何者かになろう、そんな静かな決意をした覚えがある。


当時の自分とは違う何者かに。はっきりとしたイメージを描けないまま。


 だが、制服を脱いで残った自分は、案外ただの小さい人間だった。


 怒鳴って失敗した夜もある。

 逃げ出したくなった現場もある。

 家族に八つ当たりしたこともある。


 三十五年働けば、人は完成すると思っていた。


 違った。


 むしろ、自分がどれだけ未熟だったかを知る時間だった。


「でも意外です」


 安田が言った。


「村瀬さん、退職しても平気そうなのに」


「平気なふりだ」


 隊員たちが笑う。


 村瀬も少し笑った。


「消防ってな、志がないと続かん仕事なんだよ」


「志?」


「守りたいとか、役に立ちたいとか。若い頃は、みんなそれで走れる」


 煙を吐く。


「でも退職すると、それを置いていくことになる」


 それが、思ったより堪えた。


 自分は何のために起きるのか。

 誰の役に立つのか。

 何を目指して生きるのか。


 定年は、仕事が終わる日じゃない。


 志が、一度途切れる日だった。


 だから怖かった。


 その先を、自分で考えなくてはいけないから。


「じゃあ、これから何するんです?」


 若い隊員が聞いた。


「分からん」


 村瀬は正直に答えた。


「ただな」


 灰皿に灰を落とす。


「退職して初めて、“自分がどこまで成長できたか”は分かる気がする」


「どういう意味です?」


「肩書がなくなった後、自分だけで立てるかどうかだよ」


 消防士だから生きていたのか。

 ひとりの人間として生きられるのか。


 それを今、試されている気がした。


 風が吹いた。


 桜の花びらが煙の向こうを流れていく。


 ふと思った。また、次の何者かになるか。


「まあ」


 村瀬は新しい煙草を一本取り出した。


「答えは、まだ出てない」


 ライターの火が小さく揺れる。


「でも、それを考える時間くらいは、これからたっぷりあるらしい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫煙の温度 耕生 @yosagena

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ