第6話 月下の邂逅

その夜、ノアは家を抜け出し、カイルの元へと走っていた。


自室の窓から外へ出ると、夜の警備にあたる兵士たちの目を掻い潜りながら、スクラップ場へと急ぐ。


夜は、昼よりも監視の目が強くなる。


それでも、この島に配置されている兵士の数は決して多くない。


帝国ラグナの本国から距離があり、比較的戦闘や事件も少ない辺境の人工島。

だからこそ、警戒はどこか薄かった。


ノアはローブで身を隠しながら、なるべく人目につかない道を選んで走った。


しばらくして、遊泳禁止区域のスクラップ場付近へ辿り着く。


辺りは真っ暗で、人の気配はなかった。

積み上げられた鉄屑だけが、月明かりを鈍く反射している。


ノアは岸を降り、カイルを隠した場所へ向かった。


「はぁ、はぁ……」


走り続けて上がった息を整えながら、ノアは歩く。


自分が匿った以上、逃がす義務がある。


そんな責任感を、ノアは強く感じていた。


しばらく海沿いを歩き、カイルを隠した陰の近くまで来る。


何やら、煙が上がっていた。


(もしかして、攻撃された……?)


胸に嫌な予感が走る。


ノアは息を殺し、そっと陰を覗いた。


するとそこには、火を焚いて何かを焼いているカイルの姿があった。


「……何してるの?」


ノアは呆れたような表情で問いかけた。


「なんだ。戻ってきたのか」


カイルは何食わぬ顔で、ノアの方を向く。


「ちょっと、なんでそんな目立つことしてるの!?」


「なんでって。腹が減ったから、魚焼いてんだよ。お前にもらった食い物、まずくて」


ノアはその言葉に、強い苛立ちを覚えた。


人の好意をなんだと思っているのか。

心配して損をした、と一瞬だけ思う。


「そうだ。お前も食うか?」


そんなノアの気も知らずに、カイルは焼いた魚を差し出した。


「……何これ? 魚を焼いてるの?」


「そうだよ。食ったことねえのか?」


ノアは差し出された魚を見つめた。


高階級のアクアノイドには、魚を焼いて食べる文化などない。


食事は、国から支給された携帯食や液体食料を、決められた量だけ摂るもの。

それは味わうものではなく、ただ生命を維持するための活動だった。


「……ない。アクアノイドで魚を食べるのは、下級層の人たちくらい。それも、獲った魚をそのまま食べるだけよ」


カイルはその話を聞いて、少しだけ黙った。


「そうか」


それだけ言うと、鉄の串に刺した焼き魚を無言でノアに差し出した。


ノアはそれを受け取り、戸惑うようにカイルを見る。


食べるの?


そう問いかけるような目だった。


カイルは何も言わず、こくりと頷いた。


ノアは恐る恐る、焼き魚の腹の部分をかじる。


カリッ、と皮が破れる音がした。


その奥から、柔らかい身がほろりと崩れ、口の中に広がっていく。


香ばしさ。

熱。

脂の甘み。

ほのかな塩気。


それは、ノアがこれまで口にしてきたどんな食糧とも違っていた。


「……なに、これ」


思わず、声が漏れた。


胸の奥が、ふっとほどけていくような感覚があった。


ただ身体を動かすためのものではない。

空腹を満たすためだけのものでもない。


誰かが火を起こし、魚を焼き、食べやすいように差し出したもの。


それは、食事だった。


ノアはもう一口、魚をかじった。


「……おいしい」


小さな声だった。


けれど、その言葉は夜の波音の中で、確かにカイルの耳に届いた。


カイルは少しだけ目を逸らし、ぶっきらぼうに言った。


「だろ」


カイルは魚を焼きながら、ぽつりと言った。


「これで感動してるなら、俺の母ちゃんの飯食ったら気絶するぜ」


ノアは魚を見つめたまま、少しだけ首を傾げる。


「そんなに……おいしいの?」


「ああ」


カイルは少しだけ笑った。


けれど、その笑みはすぐに消えた。


「まあ、もう食えないけどな」


ノアは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「……亡くなったの?」


恐る恐る、ノアは問いかける。


カイルは声色を変えず、淡々と答えた。


「殺された」


そして、火を見つめたまま続ける。


「お前の仲間に」


ノアは、胸を刺されたような痛みを覚えた。


自分の両親を含め、アクアノイドたちは旧人類を愚民と蔑む。

魚や獣と同じように、狩るものだと考えている。


それが当たり前だと教えられてきた。


けれど、今目の前にいる旧人類の少年は、ノアと何も変わらなかった。


それどころか、ノアの知らない感動さえ知っている。


そんな彼らを、ただ旧人類だからという理由で殺す。


それは本当に、許されることなのだろうか。


ノアは、胸の奥にずっと残っていた疑問が、少しずつ確信へ変わっていくのを感じていた。


「……逃げて」


ノアは声を震わせながら呟いた。


カイルは作業していた手を止め、ノアの方をじっと見つめる。


「明朝、この島の兵団があなたを捜索し始める」


ノアはぎゅっと自分の肩を抱き、話を続けた。


「ここから岸沿いに少し行けば、船着場がある。そこに、私たち家族の小型船があるわ」


そこまで話して、ノアは口角を上げた。


無理に笑顔を作る。


「それを使って逃げて。私は今から、鍵を取りに戻る」


カイルは、その明らかに無理をして笑う少女を見て、胸の奥がざわつくのを感じた。


なぜ、この少女はここまで自分を助けようとするのか。


家族の船を使わせるなど、問題になることは火を見るよりも明らかだった。


「なんで、そんなに俺を庇うんだ?」


それは、カイルの純粋な疑問だった。


つい数日前、母を殺し、島の人々を奪った種族。

目の前の少女は、そのアクアノイドだ。


だが今、その少女は自分を逃がそうとしている。


ノアはカイルの問いに、しばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吸う。


「私は……」


言葉を探すように、ノアは胸元を握った。


「私は、私の人生を自分で決めたい」


幼い頃から、父や母に決められたことを守って生きてきた。


それが正しいのだと思っていた。

そうすることが、自分の役目なのだと思っていた。


だが、ある日、海底で見た旧文明の遺跡。


そして今日出会った、この旧人類の少年。


それらは少なくとも、父や母に教えられてきた世界とはまるで違っていた。


ノアは俯いた。


声は震えている。

けれど、その奥には確かな力があった。


「旧人類だからとか、アクアノイドだからとかじゃない」


そして、カイルの目をまっすぐ見つめた。


「少なくともあなたは、私の知らないことを教えてくれた」


少しだけ、唇を噛む。


「あなたは、愚民なんかじゃない」


ノアは静かに言った。


「だから、生きて」


カイルは何も言えなかった。


アクアノイドが憎い。


その気持ちは変わらない。


その怒りは、消えようもない。


けれど、目の前の少女に向ける言葉だけは、どうしても見つからなかった。


「分かった」


カイルはスクラップ場で見つけた使えそうな道具を、ずた袋に入れた。


それを肩にかけ、ノアへ視線を向ける。


「お前を信じる」


ノアはこくりと頷いた。


そして、言葉を続ける。


「この時間は、監視の目が強い。だから……」


そこまで話した、その時だった。


船着場のある方から、灯りがこちらへ向かってくるのが見えた。


大きな灯りではない。


だが、それは確実に、少しずつ近づいてきている。


ノアの心臓は、今にも破裂しそうなほど強く鼓動していた。


「行って……」


喉を絞るように、ノアは声を出した。


「行くって……どこに……」


カイルは困惑したように問いかける。


しかし、ノアにはもう思考する余裕がなかった。


「いいから!! とにかく遠くに!!」


「そんなん……行く場所なんてねえよ!」


それは、カイルの純粋な言葉だった。


そんなやりとりをしているうちに、灯りはスクラップ場のすぐ近くまで来ていた。


やがて船が静かに停まり、一人の大きなアクアノイドが降りてくる。


ノアの父、マリオンだった。


静かに。

けれど、圧倒的な存在感を放ちながら、マリオンはノアとカイルの前に立った。


「……ノア」


低い声だった。


「いつから、こんな夜遊びをするようになった」


その声に、怒りはない。

悲しみもない。


「そんな汚い生き物を匿うとは、アクアノイドの恥だぞ」


ただ、与えられた台詞を読み上げているように聞こえた。


「ごめんなさい……お父さん……これは……」


ノアは声を震わせながら、必死に答えようとする。


だがマリオンは、その言葉を押し潰すように続けた。


「もう、お前を自由にしておくことはできない」


「旧人類を匿うなど、本来なら即刻処刑だ」


やはり、その言葉に感情はなかった。


「だが、お前は私の娘であり、アクアノイドの未来に必要な存在だ」


ノアは黙って聞いていた。


「故に、一生あの家の中で、厳重な管理のもと暮らすことで許してやろう」


その言葉は、ノアの胸を冷たく締めつけた。


父の言うことに、逆らうことはできない。


ずっとそう生きてきた。


だが、あの家で一生を終えるなど、死よりも絶望だった。


ノアはカイルの方を向いた。


そして、かすかな声で言う。


「ありがとう」


小さく、笑った。


「あなたのおかげで、少しだけ世界を知れた気がする」


カイルは目を見開き、言葉を失った。


その直後、ノアはマリオンのもとへ走った。


そして、その両足にしがみつく。


「カイル!! 逃げて!!」


「あなたは、まだ死んじゃダメ!!!」


マリオンは、しがみつくノアを片手で振り払った。


ノアの身体はそのまま、スクラップの山へ叩きつけられる。


鈍い音が響いた。


「……愚かな娘になったな」


マリオンは冷たく呟いた。


カイルは、その様子を無言で見つめていた。


自分を逃がすために、叩きつけられたノア。


そして、それに見向きもしない、父であるはずのマリオン。


腹の奥が、沸々と煮え立っていく。


「おい」


カイルは下を向いたまま、マリオンに向かって言葉を放った。


マリオンは何も返さない。


「何も知らねえ俺を汚えとか言ったり、娘を叩きつけたり」


カイルは顔を上げた。


「下衆なのはどっちだ?」


長身のマリオンは、静かにカイルを見下ろした。


「下等生物のくせに、喋れるんだな」


その言葉を聞いた瞬間、カイルの身体の奥で何かが弾けた。


全身の血管が膨れ上がっていく。


あの時と同じ。

島でアクアノイドを倒した時と同じ感覚。


腕に血管が浮き出し、眼球がぎゅっと収縮する。


「……ああ」


カイルは強く拳を握りしめた。


「喋れるし、お前を狩ることもできるぜ」


スクラップ場の瓦礫の中、月明かりが妖しく二人を照らしていた。

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